第4話 異界組織

川崎区の池上町。地図には描かれていない闇が、そこには確かにあった。古びた廃墟群が点在し、産業道路の明かりも届かないその場所は、夜になると異界と化す。ただでさえ治安が悪いことで有名なこの区域だが、今宵はさらに不穏な気配が漂っていた。


俺はその一角に立っていた。目的地は、使われなくなった作業場の廃墟。瓦礫や錆びた鉄骨が散乱し、闇がその間を埋め尽くしている。人間の気配は皆無で、ただ風が建物の隙間を抜けていく音が耳を刺すだけだった。


「来たか、探偵」


中に入ると、低く甘美な声が耳に届いた。広い空間の中央に立つのは、悪魔――ダンタリオン。彼の周囲には、不規則な青白い光を放つ蝋燭が並び、地面には複雑な紋様が描かれている。その背後には、心を奪われた人々が整然と立ち尽くしていた。虚ろな目をした彼らの中に、レイの親友と思われる女性の姿がある。


「待たせたな。さっさと彼女たちを解放してくれ」


俺は懐から川崎大師の御守りを取り出し、握りしめた。その力強い存在感が、かろうじて俺の心を支えている。


ダンタリオンは薄く笑い、手を一振りした。その動きだけで、周囲の蝋燭の炎が一層激しく揺れ、光が壁面を歪ませたように見える。


「解放? 君は何を言っているのだ。彼女たちは、私の力を受け入れ、新たな真実に目覚めたのだよ。元のつまらない人生に戻りたいとは思っていないはずだ」


「……本人の意志を無視して勝手に操っておいて、よく言うぜ」


「操る、か。面白い表現だね。それならば、君が彼女たちを『解放』できるか試してみたまえ」


その言葉と同時に、ダンタリオンの周囲に黒い煙が渦巻き始めた。それはただの視覚効果ではない。空気が重くなり、目に見えない圧力が全身を押しつぶそうとしてくる。


「やれるもんなら、やってみろというわけか……!」


俺は御守りを掲げ、そこから放たれる光で周囲の闇を押し返そうとした。しかし、ダンタリオンの放つ力は圧倒的だった。まるで巨大な波が押し寄せてくるかのように、光が一瞬で飲み込まれそうになる。


「その御守り……確かに強力だ。だが、それはただの道具だ。使う者が弱ければ、何の意味もない」


ダンタリオンが指を鳴らすと、虚ろな目をした人々が一斉にこちらに向かって歩き出した。その足取りは遅いが確実で、まるで夢遊病者の群れのようだ。


「こいつらを盾にするつもりか!」


俺は叫びながら後退した。御守りを掲げ、光で彼らを止めようとするが、彼らの動きは止まらない。


「彼らは既に私の一部だ。君が彼らを傷つけずに、私に近づけると思うか?」


「……くそっ」


焦燥感が胸を締め付ける。このままでは埒が明かない。だが、ここで諦めるわけにはいかない。俺は御守りを強く握りしめ、川崎大師に祈りを捧げるように心を込めた。その瞬間、御守りがこれまで以上に強い光を放ち始めた。


「その力……!」


ダンタリオンが眉をひそめた。どうやら効いているらしい。俺はそのまま御守りを掲げ、心を操られた人々の間を強引に進んだ。光が彼らの動きを鈍らせ、徐々に道が開けていく。


「お前の好きにはさせない!」


俺はダンタリオンの目の前まで迫り、御守りを彼に向けて突き出した。その光が彼の黒い煙を切り裂き、衝撃波のように空間全体に広がった。


「……愚かな」


ダンタリオンは静かに呟き、手を天に掲げた。その瞬間、天井が崩れ落ちるかのような轟音が響き、巨大な黒い翼が彼の背中から広がった。それは紛れもなく、悪魔の真の姿だった。


「これが私の力だ。人間ごときがどれだけ足掻いても、この絶対的な力の前では無意味だ」


空間全体が歪み、まるで異世界に引き込まれるような感覚に襲われる。御守りの光が徐々に弱まり、俺の身体から力が抜けていく。


「負けるわけにはいかない……!」


俺は膝をつきながらも御守りを握り締め、川崎大師の力を信じ続けた。そしてその瞬間、どこからか声が聞こえた。


「我が後生の門徒、たとい我が現相げんそうを見ずといえども、我が形相ぎょうそうを見るごとに真に我に逢えりと思い、我が教えを聞くごとに真に我が言音ことねを聞くと思わば、我定恵じょうえの力を以って摂取せっしゅして捨てず」


それは、川崎大師の僧侶の声のようだった。過去に助けられたときの記憶が鮮明に蘇り、俺は再び立ち上がった。


「お前の力がどれだけ強大でも、俺たちの街を好きにはさせない!」


俺は御守りを全力で掲げ、その光をダンタリオンに向けて放った。その光が再び膨れ上がり、彼の闇を完全に飲み込んでいく。


「こんなことが……人間に……!」


ダンタリオンの叫び声が空間に響き渡り、彼の姿は次第に消えていった。


気がつくと、周囲は静寂に包まれていた。廃墟の中にあった不気味な気配は完全に消え去り、蝋燭の炎も跡形もなく消えている。


俺は心を操られていた人々に駆け寄り、彼らの意識を確認した。レイの親友も目を覚まし、涙を浮かべながら感謝の言葉を口にした。


「ありがとう……本当にありがとう……」


「礼なんていいさ。大事なのは、お前たちが無事でいることだ」


俺は彼女を支えながら廃墟を後にした。その背後で、廃墟がまるで浄化されたかのように静まり返っていた。


「これで終わりだ……」


俺は御守りを握り締め、川崎の街を見渡した。これからも、この街には戦いが続くのだろう。だが、今日の勝利が俺の心を少しだけ軽くしていた。

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