薬と王女と龍と

ぎょうざぎゅうどん

第1話 王女登場

 ――この世界は元々、唯鉾神イムカが創りし小さな小さな玻璃の玉だった。ある時、唯鉾神はこの玻璃の玉に世界を吹き込もうと考えられた。しかし、唯鉾神とて一から世界を創るのは骨が折れる。そのため、まず彼らを創られた。

 空を創る翼をもつ霊鳥・飃蔌ひょうそく

 つちを創る脚をもつ霊亀・鐩巓すいてん

 海を創るひれをもつ霊鯨・瀢鱍たいはつ

 これら三柱が陸空海を創り上げた。

 次に唯鉾神は生命をお産みになった。

 霊鳥の翼を借り、七つの種を蒔かれた。芽吹いた種の、最も育った一つを残し他は間引かれた。残った一つは巨大な霊樹となった。霊樹が伸ばす枝葉、張る根、咲かせる花、落とした果実は広がり、さまざまな草木となり、大地に広がっていった。

 次に、三柱の霊獣から獣たちを創られた。

 霊鳥の羽から大空翔ける鳥たちを

 霊鯨の鱗から大海泳ぐ魚たちを

 霊亀の蓑から大地走る獣たちを創られた

 さらに、最後に自らに似せ、人をお創りになった。

 唯鉾神イムカはこれら生命を護る存在が必要だとお考えになった。そこで龍・薬肶那クスビナを創り、この世の真中に据えられた。

 最後に、すべての仕上げとして玻璃の玉にイムカの祝福を吹き込み、元の玻璃の玉からは及びつかないほど遥かに、遥かに大きく膨らませた。

 こうして、この世界は、開かれた。――


「姫様!」

 金切り声をあげたのは彼女の侍読、つまり教育係である小夜だ。年は四十をこえて、五十に届こうかというころである。その顔には失われた美を繕おうという、苦難が見て取れる。

 小夜の眼前に座った少女の名前はつぐみ。小夜の主だ。

「ごめんなさい……蜘蛛が巣をかけているのに夢中になってしまって」

 彼女は窓の外を指さす。中庭に植えられた楓の木に大きな蜘蛛の巣がかかっている。確かに立派だ。心なしか、枝にぶら下がる蜘蛛が誇らしげにしてるように見える。思わず小夜は魅入ってしまう。この国で蜘蛛は縁起物だ。後で庭師に鳥よけを頼まなければ。ああ、それにしても立派な巣だ。糸の一本一本が夕日の光と楓の葉を照り返し、茜色に輝いて――

「――いいえ! そんなことは話を聞かない理由にはなりません!」

 小夜は我に返り、彼女に向き直った。主であり、教え子である彼女に。窓を見つめる彼女の頬は、朱をさしたように赤く染まっている。しかし彼女はまだ、化粧をする年頃ではない。夕日の色でも、楓の色でもない。それは彼女の内の血の色、若さの色だ。この頃、彼女が羨ましく思う時がある。誰かと添うことは小夜が城に入った時に諦めた。それでも老いとは未だ折り合いがつけられていない。

 彼女は未だ蜘蛛の巣を見つめている。自分の声はまるで聞こえていないようだ。今度は恨みを少し込めて呼びかけた。

「姫様? 姫様!」

 不満げにため息をついて、彼女はこちらを向いた。眉を上げ、睨む。なんとまぁ、迫力のない睨み顔か。あどけないその顔は、かえって微笑ましい。それを見た瞬間、小夜の恨み羨みは氷解した。代わりに浮かび上がったのは、誇りであった。このかわいらしい少女を自分が育てていることに、彼女に仕えていることに。なにせ、今は小さく愛らしいこの少女はやがて、この国、翠琉すいりゅうを背負う王となるのだから。

「だって」彼女は、口を開く。顔に違わず声も美しい。小夜は、上がりそうになる口角を必死に押さえつけ、なんとか厳しい面を保つ。「小夜の話なんかより、蜘蛛の巣見てたほうが面白いんですもの」

 邪気なく言い放ったその言葉のおかげで、小夜の口角を押さえる努力は不要となった。

「姫様ぁ!」

 響き渡った怒号に怯え、蜘蛛は木の葉の間に隠れてしまった。


「はぁ、どうしたものやら」

 小夜は一人溜息ついた。

「また姫様が何かしでかしたのですか?」

 見かねるように声をかけたのは同じ侍従の、朝顔だった。彼女は姫に仕える侍従の中では侍従頭である、小夜の次に古株だ。だが、小夜のような下級貴族の出ではなく、彼女は平民上がりだ。この廷内で平民上がりから王女の側仕えまで上り詰めるのはそう簡単なことではない。その事実を裏付けするように、彼女は外見、内面共に抜きん出ていた。

「全然、私の話を聞いてくれないのよ」

「まぁ、国史は退屈ですもんね」

 小夜が朝顔を睨みつける。

「ま、まぁ姫様は実学的な物に興味をお持ちですから。医術なんか、街に出ればお金を取れるなんて、典薬寮てんやくりょうで噂になってますよ」

 つぐみはしょっちゅう、この緑青殿ろくしょうでんから抜け出していた。そして、典薬寮に行っては医者たちにつきまとうのだ。医者たちも悪乗りして、あれやこれや教え込むもんだから始末に負えない。

「それじゃあ、王になるんだか医者になるんだかわかりゃしないじゃない」

「まあ、姫様は聡い方ですから。ああ見えていろいろ考えてらっしゃるのではないですか?」

「……それもそうね」



「小夜様! 大変です」 

 翌朝、小夜のところに一人の侍女が駆け込んできた。

「何してるんですか。はしたない」

 宮の内を走って回るなど言語道断だ。しかし、侍女には小夜の叱責は耳に入らない。

「姫様が! 姫様が!」

「姫様がどこにもいらっしゃいません」

「はぁ?」

 いないなど、そんなわけがない。御幸は今日はないはずだし、どうせ、典薬寮を彷徨っているとかそんなとこだろう。

「御部屋は勿論、御庭にも、大内裏にも典薬寮にも……とにかく思い当たるところ全てを探したんです! でもどこにもいらっしゃらなくて!」

 侍女の目には涙が浮かんでいる。 

 小夜は、宮の内を走り回っていた。

「小夜様!」

 本当にどこにもいない。王宮から抜け出したことは今まで一度もなかった。だからどこかにいるはずだ。

「小夜様!」

 青年が駆け寄ってきた。名は知らない。大方雑用をこなす下位の下男だろう。一人少年が泣きじゃくりながら、連れられている。何故か身につけた衣は丈が合っていない

「今度は何の騒ぎですか!」

「こいつを衣倉に遣ったら、帰りが遅くて、様子を見に行ったんです。そしたらこいつが裸で……」

 まどろっこしい説明に小夜は苛立つ。今は下男なぞどうでもいい。

「要件はなんです!」

 青年は紙を差し出した。

「こいつ、これを持ってたんです」

 小夜は紙を見た。何やら走り書きされている。

 ――その子を怒らないであげてね、小夜。私が無理に衣を取ったの。あと、私の衣はその子にあげる。それを売れば、その子の新しい服も買えるでしょ――

 

 もう一度、紙を見る。端正な字だ。小夜に似ている。威厳と美しさを兼ね備えた、正に王女に相応しい……

 小夜は、しばし目を閉じて俯いた。顔を上げ、目を開け、そして、口を開いた。沸き上がる激情を吐き出すために。「姫様ぁ!」

 一つ吠えると、小夜は深く息を吸い、ゆっくりと吐いた。そして、キッと少年に向き合った。ポカンと口を開けた少年の目は、ほとんど乾いていた。少年の肩を、小夜は万力のようにつかむ。そして、思いっきり揺さぶった。

「あなた! まさか、姫様の裸を見ていないでしょうね!」



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