第2話 王女出奔
その四時間ほど前、つぐみは既に王宮を出ていた。長い長い石段を下る途中、しばし立ち止まって階段の上を振り返る。その先には、さっきまで暮らしていた王宮があった。
この城、
そして、何と言ってもこの城ならではの特徴がある。
それは、警備のザルさだ。といってもそれには理由がある。この翠碧宮は、王宮である以前に政治の場であり、何と言ってもこの国の最高の医術機関である。さすがに政の場となる廷内は立ち入り禁止とは言え、貴人平民武人商人………身分や年齢、性別、すべてがバラバラな人が日々この宮城内を出入りすることができる。警備を厳重にしようとしても土台無理なのだ。まあ、もちろんこのザル警備が成り立つのは、この国が豊かで、治安も良く、全体的に平和ボケしているから、というのも否めないのだが。
とにかく、城を抜け出すのはそう難しくはなかった。今頃小夜は、怒り狂っているだろうか。つぐみはにやりとほほ笑んだ。
「おい小僧、さっさと進め。後ろがつかえる」
商人風の男がつぐみの肩を小突いた。
「失礼いたしました」
慌てて深く礼をした。顔を上げると、男のほうがぎょっとしている。つぐみは、これ以上何か声をかけられる前にさっさと歩き出した。
しまった。つぐみは内心唇を噛む。小夜に叩き込まれた礼儀作法は長年の習慣となって、つぐみの体に染みついていた。ただ、それは
つぐみがまとっていたのはいつもの鬱陶しい単衣ではなかった。下男から拝借した
とはいえ、最初から純粋無垢な下男を襲おうとしたわけではない。宮廷であり、医術機関という性格が相まってこの城では日々、大量の衣を洗っている。その大量の洗濯以前以後の衣を置いておく専用の建物すらある。下男下女の間では、捻りもなく
小夜たちや、彼の主人たちが彼のことを怒らないよう、置き手紙を残しておいたが、随分と申し訳ないことをしてしまった。もしもう一度、城に戻れるようなら必ず謝罪しなければならないだろう。
石段の途中でよろめく。何とか踏みとどまった。肩から下げた帆布鞄を見やった。なれない恰好の上、この鞄がかなり重い。一見粗末なこの帆布鞄、その実、かなりの優れものだ。海の国、
ようやく、長い階段を登り終えた。その先は広場になっている。そして大通りがあり、広大な街が広がっている。琉翠の都、翠州だ。
城から眺めたことは何度もあるが実際に街をこの目で直に、しかもこんな近くで見たのは初めてだ。勿論、街に降りたことはあるが、御簾越しでろくに見物できたものではなかった。
広場はとても賑わっていた。あちこちに屋台や出店が建って、振り売りが声を張り上げ、人混みの隙間を縫って子どもたちがまた別の人混みまで駆けていく。まるで祭りのようだ。この光景はこの街では日常である。寧ろ、祭りの間の方が人が少ないほどだ。行き来するのは怪我人や病人、医者だけではない。薬や、その原材料もこの広場を行き来する。なかには、他国から取り寄せたものもある。
翠碧宮の性質からして他国の使節や貴族、役人もこの広場を通る。身分や職業に関わらず、様々な人がこの広場に集まり、そして、城とを行き来するのだ。人が集まれば当然、金も集まる。自然とこの広場は市場のようになったという。
特に今は人が多い。明け方だというのに、まっすぐ歩くのもままならない。もうすぐ、翠龍祭があるからだ。翠龍祭は年に一度、一カ月間に渡って、琉翠を挙げて行われる大がかりな祭事だ。この国を守る霊龍に感謝し、この国の繁栄を祈る。その一ヶ月間、他国との遣り取りや、
つぐみは辺りをキョロキョロと見回した。もう、つぐみが城の中にいないのはばれただろう。
つぐみは目の前の人混みへと突っ込んでいった。
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