第2話 王女出奔

 その四時間ほど前、つぐみは既に王宮を出ていた。長い長い石段を下る途中、しばし立ち止まって階段の上を振り返る。その先には、さっきまで暮らしていた王宮があった。

 この城、翠碧宮すいへききゅうは、見上げても見越せない、途方もなく高い山の、さらにその頂上に位置している。その名の通り、緑を基調とした宮城きゅうじょうである。屋根瓦は緑青ろくしょう色、宮城の顔となる正門、頭龍門ずりゅうもんも青丹色、敷き詰められた玉砂利や、石畳にも青や緑の石が混ぜられている。公的な場所であることを示す朱色は申し訳程度しか使われず、白塗りの城壁――といっても、塀程度だが――もその緑を照り返し、薄く青に光っている。

 そして、何と言ってもこの城ならではの特徴がある。

 それは、警備のザルさだ。といってもそれには理由がある。この翠碧宮は、王宮である以前に政治の場であり、何と言ってもこの国の最高の医術機関である。さすがに政の場となる廷内は立ち入り禁止とは言え、貴人平民武人商人………身分や年齢、性別、すべてがバラバラな人が日々この宮城内を出入りすることができる。警備を厳重にしようとしても土台無理なのだ。まあ、もちろんこのザル警備が成り立つのは、この国が豊かで、治安も良く、全体的に平和ボケしているから、というのも否めないのだが。

 とにかく、城を抜け出すのはそう難しくはなかった。今頃小夜は、怒り狂っているだろうか。つぐみはにやりとほほ笑んだ。

「おい小僧、さっさと進め。後ろがつかえる」 

 商人風の男がつぐみの肩を小突いた。

「失礼いたしました」

 慌てて深く礼をした。顔を上げると、男のほうがぎょっとしている。つぐみは、これ以上何か声をかけられる前にさっさと歩き出した。

 しまった。つぐみは内心唇を噛む。小夜に叩き込まれた礼儀作法は長年の習慣となって、つぐみの体に染みついていた。ただ、それは城下ここでは却って目立ってしまう。それでは着替えた意味がない。

 つぐみがまとっていたのはいつもの鬱陶しい単衣ではなかった。下男から拝借した襤褸ぼろだ。年頃はつぐみと差はなさそうだったから十歳そこそこだろう。突然引きずり込まれたと思えば、明らかに位の高いつぐみに服を脱ぐよう要求されたのだ。彼にとってはさぞかし、恐怖だったろう。当然固く拒否されたが、半泣きになっている彼から、無理やり剥ぎ取ってきた。どうせ身分からして彼が強く抗えるわけもない。立場を盾に無理を強いるのはつぐみの良しとするところではなかったが致し方がないことと割り切ろう。

 とはいえ、最初から純粋無垢な下男を襲おうとしたわけではない。宮廷であり、医術機関という性格が相まってこの城では日々、大量の衣を洗っている。その大量の洗濯以前以後の衣を置いておく専用の建物すらある。下男下女の間では、捻りもなく衣倉ころもぐらと呼ばれるその建物は、城の敷地の隅の方に位置していた。もとはここから衣を拝借していこうと考えていた。だが、いざ行ってみるとつぐみの身の丈にあったものはない。ちょうどそこに、あの下男が現れたのだ。

 小夜たちや、彼の主人たちが彼のことを怒らないよう、置き手紙を残しておいたが、随分と申し訳ないことをしてしまった。もしもう一度、城に戻れるようなら必ず謝罪しなければならないだろう。

 石段の途中でよろめく。何とか踏みとどまった。肩から下げた帆布鞄を見やった。なれない恰好の上、この鞄がかなり重い。一見粗末なこの帆布鞄、その実、かなりの優れものだ。海の国、青睨せいげいで作られる最高級の帆布が使われている。耐久性、耐水性共に申し分ないはずだ。恐らく、きっと、多分。不安があるとすれば縫ったのがつぐみ自身であるということだろうか。中には事前に纏めていた荷物たちが入っている。旅がいつまで続くか分からない今、この鞄がつぐみの生命線だった。

 ようやく、長い階段を登り終えた。その先は広場になっている。そして大通りがあり、広大な街が広がっている。琉翠の都、翠州だ。

 城から眺めたことは何度もあるが実際に街をこの目で直に、しかもこんな近くで見たのは初めてだ。勿論、街に降りたことはあるが、御簾越しでろくに見物できたものではなかった。

 広場はとても賑わっていた。あちこちに屋台や出店が建って、振り売りが声を張り上げ、人混みの隙間を縫って子どもたちがまた別の人混みまで駆けていく。まるで祭りのようだ。この光景はこの街では日常である。寧ろ、祭りの間の方が人が少ないほどだ。行き来するのは怪我人や病人、医者だけではない。薬や、その原材料もこの広場を行き来する。なかには、他国から取り寄せたものもある。

 翠碧宮の性質からして他国の使節や貴族、役人もこの広場を通る。身分や職業に関わらず、様々な人がこの広場に集まり、そして、城とを行き来するのだ。人が集まれば当然、金も集まる。自然とこの広場は市場のようになったという。

 特に今は人が多い。明け方だというのに、まっすぐ歩くのもままならない。もうすぐ、翠龍祭があるからだ。翠龍祭は年に一度、一カ月間に渡って、琉翠を挙げて行われる大がかりな祭事だ。この国を守る霊龍に感謝し、この国の繁栄を祈る。その一ヶ月間、他国との遣り取りや、まつりごとも最低限に控えられる。すべての民が祭りに向き合えるように。だから「琉翠を挙げて」なのだ。ただ、この崇高な理念の代償に、祭りの直前、この広場と城は異様な雰囲気に包まれる。祭りの間の一ヶ月、国としての機能を保つために、他国との貿易を済まし、国財を調整し、患者たちを診療しなければならない。そのため、この時期は国中の役人たちは血走る目と、震える手足とを以て仕事をする。例えばそう、家出した王女を探す暇もない程に。

 つぐみは辺りをキョロキョロと見回した。もう、つぐみが城の中にいないのはばれただろう。が足止めしてくれるとは言え、小夜たちが探しに来るのも時間の問題。いくら人が多くとも、ここに長居するのは賢いとは言えない。このまま人混みに流れて、さっさと街の外まで抜けよう。幸い、つぐみの体は小さい。簡単に人混みに紛れる事ができた。

 つぐみは目の前の人混みへと突っ込んでいった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る