たとえ忘れようとも 中編
「何を言われても従ったし、何をされても怒らなかった。従順だったでしょ、私。
でもね、絶対に許せないことが私にだってあるのよ」
そう言った女は泣きそうな顔をして笑って、俺の前から消えた。
――――――――――……………
もし目が覚めて、周りに知らない人間がいて。
しかも知っている人間が記憶の中の姿と違っていたら、人間混乱するに決まっている。
自分の認識で、自分は大学院1年生。自由を謳歌している年のはずなのに、実は認識している年齢から3年経っていると言われて。
大学院も卒業して、あれほどやりたくなかった家に入ってる?
ありえないだろ。
更にありえないのが、結婚していること。しかも子供が2人。
嫁だと言われた女の顔をまじまじと見たのは1回。
大して可愛くもなく、好きなタイプでは絶対にない。確かに細身だったけど、平凡で地味な女。
俺の中で女っていうのは、良くも悪くもしたたかだ。
そして俺は、ずる賢くて自分中心の女が一番嫌い。
結婚なんて絶対に俺がするわけがない。しかも相手があんな女。
明らかにあの女
あの女、ずる賢く何かをしたに違いない。そして騙されて結婚したんだと。
退院と同時に浅岡に言って用意させた戸籍には確かにあの女の名前が載っていた。子供たちの名前も。
それだけじゃ納得できなかった俺は子供たちのDNA鑑定させたけど、結果はしっかりと俺とあの女の子供であることを表していた。
どう考えても結婚しているのだけは覆らない。でも納得するのだけは絶対に嫌だ。
喚かれるんだろうなって思ったけど家にいるのが嫌で帰らなかった。
けれど予想とは反して怒ってくるのはうるさい母親。あの女は子供を抱っこして俺をチラリと見るだけで何も言わない。
俺のことなんでどうでもいいってことか。結婚したのもうちが金持ちだから。
どうやってうちの人間を懐柔したのか分からないが、俺の嫌いな人種であることに変わりはなくて。
同じ空間にいるのすら嫌で、会えば思い切り睨んでやった。
女は、表情を変えることなくただじっと見てくるだけだった。
「―――なぁ、いい加減思い出さないのか?」
それは俺が記憶をなくし(たと言われ)て2週間。
あれから家にあの女がいるから帰りたくなくて出歩いている俺は、度々この男に拉致される。
いけ好かないこの男の名前は、須王秋流。
この男は昔から何を考えているか分からない腹黒で。家的にはビジネスパートナーだけど昔から親しいからか、一緒にいるのは腐れ縁だ。
「……てか、なんだよあんた」
こちらは遊びに出かけたわけであって、この男に会う気なんて微塵もなかった。
それなのに町に着いた瞬間この男の部下に拉致られて、連れてこられたのは須王グループ本社。
連れてこられた理由が俺的に良いモノじゃないことだけは確かだ。
秘書から出された麦茶を飲む。
どうせなら熱いほうがいいけど、それをこの男に言っても次から出てくる飲み物は変わらないだろう。
俺を接客用のソファに座らせて仕事をしながら聞いてくる男は、ため息を吐いた。
「お前、真夜さんとちゃんと話しているか?」
「……」
また『マヤ』。
ここ数日、というより2週間前からことあるごとに周りの人間はその名前を口にする。
「真夜さんに失礼でしょ」
そう怒鳴るのは母親。
「真夜様とお話をされてはいかがでしょうか?」
そう控えめに助言してくるのは浅岡。
「あんなに無理やり家に入れられたのに、真夜様可哀相」
こそこそと話していたのは、うわさ好きの使用人ども。
あの家の人間はしたくない結婚をさせられた俺よりも、あの女に同情的で、あの女を庇う。
一体どうやって取り入ったのか、本当に思い出せない。
「なんであの女なんだよ……」
そう、あの女じゃなくてもいい。もっと綺麗な女も、控えめな女だっている。打算的じゃない女も。
なのに、なぜあの女なのか。
考えるたびにイライラして貧乏ゆすりが止まらない。
そんな俺に、俺を接客用のソファに座らせて仕事をしながら聞いてくる男は、ため息を吐いた。
「それを知っているのはお前だけだよ」
「あ?」
「そのセリフ、お前が彼女と結婚するって言ったときにみんな聞いたよ」
「俺がそんなこと言うわけねぇだろ」
「いいから聞け」
珍しく威圧的だ。社長なんかしている男は、こうなると反論を許さないオーラを出す。
そういう時は文句は言わないほうがいいと、長年の付き合いから理解している。
「彼女、お前のタイプと全然違うだろ」
「……あぁ」
「だから、みんな不思議がったよ。なんであの子?って、みんなお前に聞いた。そうしたらお前笑って言ったろ。『俺が決めたから』って」
そんな記憶、ない。
確かに俺が言いそうなセリフではあるけれど。
「かといってお前だからさ。みんな飽きると思ってた。持って半年だろって賭けてた奴もいるし」
それが普通な周りの反応だと、俺も思う。
「でもお前、彼女のことすごい大事にしてたよ」
護衛をつけさせて出かけるなら場所と時間を報告させて。
男関係で揉めたら、すぐに口出して。
結婚した後も彼女のこと心配して、学校終わったらすぐ帰って。
ヘビースモーカーだったくせに彼女が文句言ったら徐々に本数を減らした。
「こんなこと、昔のお前なら考えられないだろ?」
「……」
確かに煙草の銘柄が記憶の中のものと違っていたのに違和感を感じはした。
けど、すぐに信じろって言われて信じられるものでもない。
黙っていれば、書類を置く音がした。
「忘れていても、お前が彼女を大事にしていたのは変わらない。でも、今一番辛いのはお前じゃなくて彼女だ」
「……」
「たとえ記憶がなくても、それだけでも分からなかったら、お前が失う大事なものは彼女だけじゃないことを覚えておけ」
いつも気にしていないけど、人生の先輩が言う言葉は時としてとても重い。
それを今、如実に感じて。
ただ、黙って聞くことしか出来なかった。
その日は、珍しく早めに帰った。
っていうのはあの腹黒が笑いながら「今日は早く帰って一緒にご飯食べながら話し合いな」なんて口にして家の前まで送るという、要らないお節介をしてくれたからで。
家に着いたらまた出かけようと思っていたけど、ちょうど門のところにいた浅岡と視線が合って逃げられなくなったから、渋々玄関に向かった。
「響生様、今日はお早いお帰りで」
嫌味ったらしく口にされた言葉。
こいつはあの女の味方だから、やたら家にいる俺に突っかかってくる。
今日もひっついてお説教モードのヤツにげんなりするのは仕方がない。
実際遊びに外に出てもこいつの手下なのか、見たことある人間が視界の端をかすめるもんだから下手なことができなくて。
別に気にしないけど監視されながらヤるのは趣味じゃないから健全な遊びしかしてない。
まあホテルに行ってするようなことをしていないだけで、やってることはチャラ男がするそれなんだが。
「お前仕事は?」
一応家の護衛なんだから、仕事しろと暗に言ってやれば。
「残念ですが真夜様が来たときから私の仕事は彼女の護衛ですので。今は奥様と一緒にいるので出て行けと言われて使用人の手伝いです」
「……そうかよ」
「ちなみに私を真夜様の護衛にしたのは響生様です」
別にいらねぇよ、そんな情報。
「最近は永苑様がやんちゃなので結構大変ですよ」
「へー」
「あの、人の言うことを聞かないあたりは響生様にそっくりですね」
なんとはなしに言われた言葉に、ぴたりと足が止まる。
振り向いて睨み付ければ、浅岡は平然と視線を逸らした。
「そっくりですよ、本当に。真夜様や奥様の言うことは良く聞くのに、私や使用人を困らせてばかりで」
「……」
「よく、似ておいでだ」
何かを含めたような言葉。それがすごい、気に障る。
「……何が言いたい」
どいつもこいつも、みんな記憶を無くした俺に向けるのは同情じゃなくて、責めるような視線。
『なんで彼女を覚えていないの』
『どうして子どものことを忘れているの』
全員が向けてくる感情。
どうしろという。嫌悪感しか抱かないのに、感情がないのに。
大事にしろって言われたって、出来るわけがない。
睨み付ける視線を強くすれば、目の前の男は静かに俺を見返してきた。
「これだけは言っておきますが、真夜様に愛想を尽かされるようなことだけは絶対にしないでください」
「……」
「離婚なんて以ての外です。さもないと、響生様はこれ以上結婚も子供も出来ません」
「……てめぇ、喧嘩売ってんのか」
引く手数多のこの俺が、結婚も子供も出来ない?
そんなことありえない。
「恋愛は理屈じゃありません。響生様の場合、性格的な問題です」
「……どういう意味だ」
「言葉通りです。あなたは頭と尻の軽い女は嫌いでしょう。例え次に政略結婚をしたとして、あなたは絶対に嫁も子供にも感情を抱いたりしない」
「……で?」
「……あなたが愛せるのも、大事にできるのも、真夜様だけです。子供だって彼女の子供だから守ってきた。だから、あなたのために言っています」
断言すると。
「あなたは彼女を無くしたら、一生恋愛できません」
後悔したくないなら。唯一執着した彼女を、子供たちを無くしたくないのなら。
「早く記憶を取り戻すことです。そして言っておきますが、真夜様を大事にしてきたあなたを知っている家の人間は、今のあなたが大嫌いです」
「……」
「だから、早く元に戻ってください」
言いたいことは以上です。
そう言って、踵を返して玄関に向かう浅岡の背中を、見送った。
イライラする。
大事にしていた?俺が、あの女を?
ガキのこと守ってた?ガキ嫌いの俺が?
ありえないことばっかり。嘘ばかり。信じられるわけがない。
早く風呂入って寝よう。
そう思って家に入って風呂場に向かえば、廊下で母親にすれ違った。
その手には、赤ん坊。
「あら、早いのね」
冷めた視線。昔から俺が遊んでいることに文句は言っていたけど、ここまで酷くはなかった。
呆れて放置されていた記憶がある。
ここまで文句を言われるのは、あの女のせいなのだろうか。
「今真夜さん永苑と一緒にお風呂よ。入るならもう少し後になさい」
「……ここ、俺ん家だけど」
「今のあんたを息子だと思ってなんかないわ」
なんで俺がこんな扱いされないといけないのか。
ふんっ、と顔を逸らしてガキを連れて行く母親を見送って洗面所のドアを開けた俺の目の前に、分かっていたけどあの女とガキがいた。
「……なんか用?」
俺を見た女が興味なさげに子供に服を着せている。女はキャミソール姿なのに恥じらう様子すら見せない。
けど、俺はその女の肩から視線が外せなかった。
「その、痕……」
まるで肩を覆い尽くすかのようについたアザ。二の腕にまである、赤黒く変色したそれは治りかけらしいけれど、最近できたもの。
なによりそれは、火傷でもなく、ぶつけたあとでもない。
その痕は。
「……歯形?」
くっきりと残った明らかな痕。甘噛みなんてものじゃ絶対に残らない、ヒドイ傷痕。
茫然としている俺の呟きに反応も見せない女は、ガキの服を着せると自分も寝間着を着た。
そう、この女はいつも絶対に肘まで隠れる服を着ていた。それは、この痕を見せないためだ。
誰かにつけられた傷。最近までこの女の近くにいた人間。
そして認めたくはないが俺の嫁という立場にいる女。
つまりその痕の犯人だと考えられるのはただ一人。
―――俺だけだ。
俺にはクセがある。興奮すると噛み付くクセ。
でも、こんなになるまで噛み付いたことはない。というか傷物にして一生残ったりしたら責任とれって言われそうだったから、絶対に回避していた。
その俺が気にしないで思いっきり噛み付いた痕。
それが周りの言うとおり俺がこの女にを大事にして付けた傷痕だというのなら。
「……最悪だろ」
ぽつりと呟いた瞬間。
「―――は?」
聞こえてきたのは低い声。
顔を上げれば、今まで何とも思っていなさげだったくせに、思いきり睨みつけられていた。
「あんたが付けた痕でしょ。人の文句も聞かないで何度も思いきり噛み付いてつけたじゃない」
「……」
「何年も、毎日毎日噛み付かれて……絶対残る痕よ」
傷の上に上書きされるようにまた傷をつけて。確かに、一生消えないだろう。
「まさか付けた張本人のあんたに『最悪』って言われると思わなかった」
「……は?」
そういう意味で言ったんじゃねぇけど。
「そうじゃな―――」
否定の言葉を口にしようとした瞬間。
「―――ッ!」
思いきり飛んできた張り手をもろに食らって、視界が真っ白になった。
脳みそが揺れている。ジンジンする頬を押さえて女を見れば。
―――今にも泣きそうな顔をしていた。
「なによ。私のこと勝手に捕まえて、こんな痕つけて、妊娠させて結婚だって無理やりしたくせに」
「……」
「次の嫁の貰い手なくなるから止めてって言った私にあんた言ったじゃない。『お前、俺から逃げられると思ってんのか』って」
「……」
「まさかその傷付けたあんたに『最悪』なんて言われるなんて……笑えないわよ」
今にも泣きそうな細い声を出すのに、泣かない。
堪えるように握りしめられていた手を解いた女は、ガキを持ち上げると目一杯睨み付けてきた。
「―――別れて」
「……は?」
「あんただって嫌いな女がいるの嫌でしょ。私も、今のあんた嫌い」
今の俺。
周りに否定され、受け入れられない俺は、そんなに前と違う?
そんなわけがない。これが元々の俺のはずなのに。
けれど今の俺は違うんだろう。誰にも拒絶されるのがその証拠。
そうすると、もはや何を言ってもこの女の気に障るに違いない。
なんて俺にしてみたら珍しく黙ってみたけど、それはどうやらいけない判断だったらしい。
黙った俺を置いてけぼりに女がまくしたてる。
「文句は一切受け取らないから。ここまで黙ってた私に感謝しなさい」
文句。何か言いたいのなら言えばよかった。
いや、言われたら言われたで家にさえ戻って来なくなっていただろうが。
「慰謝料なんて請求しないから安心しなさいよ。あんたになんか縋らないから」
確かにそれは大事な話ではあると思うが。
「親権はもらうから。あんた永苑も莉真もいらないでしょ?後で何言ってきても取り合わないからね」
今、とてつもなく違和感を感じた。
まるで子供をモノみたいに口にしたこと。誰よりも子供を大事にしているはずなのに、そんな言葉が出てきたから。
そう思って、はたと考えた。
なんでそう思う?
俺はこの女のことなんて知らないはずだ。使われた言葉に違和感を抱くほど知っているわけがない。
そのはずなのに、腑に落ちなくて。
黙り込んだ俺の前で、女は子供を抱きしめる腕に力を込めたのが分かった。
「何を言われても従ったし、何をされても怒らなかった。従順だったでしょ、私。でもね、絶対に許せないことが私にだってあるのよ」
従順。
それは確かに俺が付き合っていく人間に強いる絶対的な条件。
だからこそ、俺は信じられない。この女は従順ではないから。
でも、なんだか違和感しか感じない。
そんな俺に気付かないで、女は笑った。
「明日離婚届もらってくるから、書いてね」
そう言い残して洗面所を出て行ったその女は次の日、必要事項だけ埋めた離婚届を置いて、家から消えた。
―――とはいえ家は金持ちな上、お節介な人間がやたらと居る。
朝起きて真夜がいないと大騒ぎになって叩き起こされた。
マジで言葉通り母親は俺を叩き起した。なんなら足すら出そうだった。
あれだけ殺気を出されて逃げるなっていうのも無理だ。
しかも居間に連れて行かれたと思ったらお通夜のような雰囲気の使用人たち。
母親はその場にあった離婚届に喚き、さすがのことに親父も視線が責めていた。
まさか本気で出ていくとは、と途方にくれたときに現れたのが姉の花恋。
茶道の家の生まれの娘なのに、思いっきり飛び蹴り食らわされた。
どうやら母親が連絡したらしい。
この家で揃うとうるさい人間2人が揃ったおかげで俺の拒否権はなくなって。
「迎えに行って来い」
という父親の言葉に大人しく従うことになった。
その1時間後に何故か俺は須王グループ第二邸にいた。
家の護衛は実に優秀だ。
GPSもちゃんと仕込んであるし、浅岡があの女の後を当たり前につけさせていた。
聞くところによるとあの女は実家が遠い。ガキ連れてその道を行くのは大変だから、一番親しい人間のところに身を寄せようってところか。
それがまさかあの須王とは笑えない。
車から出る際に、
「響生様、奥様と花恋様から伝言です。『真夜さんと子供たち連れて帰ってくるまで帰ってくるな』とのことです」
なんてことを笑顔で言われる俺、どれだけ軽視されてんのか。
仕方なく頷いた俺は須王第二邸を見上げる。
俺は、ここの社長が嫌いで。できればなるべく関わりたくないとさえ思っていたのに、どうしてこんなに会っているんだ。
これもあの女の効果なんだろうか、なんて思いながらインターホンを押した。
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