たとえ忘れようとも 前編

7月、夏。

梅雨が明けて一気に暑くなってきたその月は、霧神家に入った私にとって結構忙しい月。


なにせ8月には響生の誕生日と永苑の誕生日を控えているから。

その忙しさがまだ来ない平和な7月の始め、私は珍しく霧神家ではなく、豪華な西洋屋敷にいた。



日本が誇る大企業、須王グループ。

うちの旦那はそこの社長と昔のよしみらしくてちょいちょいお誘いを受ける。


けれど今日のは少し違って、この春生まれた社長とその愛妻の子供の誕生を祝うパーティー。


そこには6月に生まれた私と響生の2番目の子、莉真(りま)のお祝いも含まれている。



須王さんからお誘いを受けて親4人と子供たちだけで今日、須王第二邸もとい花屋敷でお祝いパーティーをしていた。



―――しかし、そのパーティーが予想もしないことで中断された。




「―――秋流様っ!」


一人タバコを吸いに行った響生を除いて、子供の様子を見ながらごはんを食べていたそこに、使用人の人が走って入ってきた。


いつも使用人の鑑ともいえる態度と対応を崩さない、はっきりとした顔立ちの美人の彼女の顔には焦燥が張り付いていて。



「きっ、霧神響生様が階段から落ちました!」


「「「……は?」」」



あまりにも予想だにしないことを聞くと、人間フリーズするらしい。

しかしあまりにも彼女の顔が真っ青で、しかも使用人の人たちが騒いでいるらしくて。


慌てて階段に向かえば、確かに階段の踊り場で倒れているうちの旦那。どうやら気絶しているらしい。


ぽかんとするしかない私の後ろで社長さんが救急車呼んで、来たそれに付き添いで乗った。




そして、その2時間後。


病院のベッドに寝ている響生。それを囲むように私と桃ちゃん、須王社長。ちなみに子供たちは使用人さんが別室でお守してくださっている。



「……いったい何が起きたんですかね?」


「さぁ。まさかあの霧神さんが……」


「響生が落ちるなんて明日雪でも降るかな」



この時、響生の心配をしている人間は桃だけ。あとの2人は平然としていて心配している様子すらない。


真夜さん、あなた旦那が心配じゃないんですか、という言葉を須王家の使用人の方々は飲み込んだ。


ついでに、秋流様も響生様をなんだと思っているんですか、という言葉も。



もちろん2人とも心配していないわけじゃない。それよりも響生が落ちたことの方が腑に落ちないだけであって。


不思議に思って首を傾げたときだった。




「―――うっ」




聞こえてきたうめき声に一斉に視線が向けられる。

響生の目が開いて、その目がベッドの周りにいた3人を順番に見回した。



「響生?大丈夫か?」


「―――あぁ」



問いに対する答えもしっかりしている。


その場にいた全員がほっと溜息をついたとき。



「―――てか、なんかあんた老けた?」



響生の口から出た言葉に全員の頭の上にハテナが浮かんだ。


響生の言葉が向かう先は―――秋流。



「……何言ってるんだ、お前」


「あ?そのまんまだろ。少し老けてね?」



何を言っているんだ、こいつは。

さっきまで会っていた相手。しかも2人は結構頻繁に顔を合わせている。

そんな、久しぶりに会ったような言葉が出てくるのはおかしい。



「ひび、き?」




何を言っているんだと思いを込めて名前を呼べば、私を見た瞬間響生の顔がしかめられた。



「誰だ、てめぇ」


「……は?」


「てかなんで病院?おいお前ら、なんだそのガキども。俺ガキ嫌いなんだよ。今すぐ連れて出てけ」



私に対する言葉も信じられないけど、後ろにいた使用人さんたちにも信じられない言葉を吐き出した。


場の全員が固まる。

顔を見合わせて瞬きしか出来ない。



「ちょっと待て、響生。お前バカなこと言うな」


「は?」



言葉が出てこない私に代わって社長さんが響生に話しかける。けど、その顔は引きつっていた。



「真夜さんはお前の嫁だろ。しかも永苑と莉真はお前の子供だし。出てけなんて言うもんじゃない」


「は?俺の嫁?子供?ありえねぇだろ。結婚すらした記憶ねぇよ」



第一俺が結婚なんてすると思うかよ、なんて言う響生。


もはや、全員顔から血の気が引いている。




「こ、これは……」




使用人さんからの茫然とした言葉。この場にいる全員、考えていることは一緒だ。




「―――西野」




固い、社長さんの声。

使用人さんが静かにうなづいて部屋を出て行って。


先生を連れてくるまで、その場の誰一人として動けるものはいなかった。















―――――……




「はぁっ!?響生が記憶喪失!?」



耳鳴りするような高い声に思わず耳を塞いでしまう。

そうすれば、目の前にいた彼女はハッとしたように浮かせていた腰を落とした。



あれから場所は変わり、霧神本家。


響生が変な発言をしてから先生を呼び、一通りの検査をして結果を聞いて帰ってきたところ。



ちなみに響生は大事を取って一日入院だ。



「どういうこと?」



事情を説明したけれど、お義母様、混乱しているらしい。お義父様は相変わらず黙ったままだけど、その顔は驚きに包まれている。



「いや、なんかここ3年くらいの記憶がないらしくて」


「……つまり?」


「私と出会ったときくらいからのことを忘れてるんです」




だから今の響生の中で、奴は大学院一年生。つまり22歳。

もちろんそのとき会っていなかった桃ちゃんのことも分からなかった。

ついでに言ったら子供たちのことも、結婚したことも忘れている。


1人を自由に謳歌していた、唯我独尊、俺様魔王様で女たらしだった時期の響生だということだ。




「―――で?真夜さんちゃんと結婚のこととか子供のこととか言ったんでしょう?」


「はい。けど、取り合ってもらえませんでした」



あの頑固な響生だ。自分が信じないことはとことん信じない。


確かにいきなり目が覚めたら結婚してて嫁と子供がいます、なんて言われても信じられないだろうけどさ。


一通り社長さんが説明して響生が私に対して発した言葉と言えば、




「今すぐ消えろ、クソビッチ」



である。



信じられないのは仕方がないとしよう。

あの束縛大嫌いで1人の女にとらわれるのが嫌いだった時期の響生だから。


しかし、



「俺が女孕ませるわけねぇだろ。嘘つくならもっとマシな嘘つけ」



子供の存在自体を否定されては、キレないでいろというのも無理な話だ。


それ以上響生から出てくるのは私たちの存在を否定する言葉だと分かり切っていたから、私は子供たちを連れて何も言わないで病室を出てきたのだ。


そうじゃなかったら何を言うか分からなかったから。





「でも響生が記憶喪失だなんて、間抜けねぇ」


この由々しき事態を『間抜け』の一言で片付けないでいただきたい、お義母様。


抱っこしている莉真をぽんぽん叩いてあやしながら、膝に引っ付いて寝ている永苑を見下ろす。




「記憶がないなんて。どうするの、真夜さん」


「とりあえず明日には帰ってきますから、その後の様子を見守るしかないかと」


「そうね。ほんと間抜けだわ、あの馬鹿息子は。困ったわねぇ」



顔に手を当てながら溜め息を吐くお義母様。私も小さく溜め息を吐く。



記憶喪失は、いつ戻るか分からない。

数時間前お医者さんに言われた言葉が耳に残っている。


もし戻るとしても、それが明日かもしれないし、数ヵ月後かもしれない。数年後で、一生元に戻らない可能性もある。



しかも私に対するあの言葉。完全に私は奴の中で『めんどくさい女』にインプットされたに違いない。


響生の取り付く島もない態度を思い出して、溜め息を吐くしか出来なかった。








「―――いやぁ、困ったね」


翌日。


響生が退院するからと病院に迎えに行けば、どうやら私はヤツの中で『うざい女』という分類にされたらしく。


私の姿を見た瞬間、



「失せろ」



その言葉を残して自分だけでタクシーに乗り込んで消えた。


これは本格的に嫌われたらしいと頭を抱えていた私に声をかけたのが、様子を見に来てくれた須王社長というわけで。


ただいま病院の近くのカフェでお茶を頂いている。



「まさか響生があんなに真夜さんを邪見にするとはね」


「……昔はあんな感じだったんでしょう?」


「そうだけど、君には絶対にないと思っていたからね」



改めて見るとどれだけ響生が女にとって最悪な存在か分かる、なんて、口にする須王社長だけど。


あなたも実は昔その人種でしたよね?という響生に聞いた情報は言葉にしないでおく。



「……まぁ、響生が最低なのは知ってましたから」



私に会いに来た過去の女たちに向けた言葉の辛辣さを思い出す。


今自分がその言葉を向けられて見て、どれだけ響生が酷い奴なのか改めて認識した。



「女のことクズだと思ってますよね、あれは」


「響生だから仕方がない。―――でも、どうする?」



記憶を失っている響生。

そして今ヤツは、一番遊びが酷かった時期に戻っている。

つまり、家に大人しく帰っているわけがない。



「どうしましょうねぇ」



机に頬杖をついて呟けば、目の前の綺麗な人はため息を吐く。



「心配じゃないの?浮気してるかもしれないんだよ?」


「そう言われても、止めたり出来ないですから」


「まぁ、そうだけど」



あの響生だ。「やめろ」なんて言って聞くわけがない。

悪ければさらに近寄れなくなる。



「いつ戻るのか分からないっていうのが困るね」


「本当に」


「というより、なんで落ちたんだ、響生は」



確かに。


高校時代から暴れまくって喧嘩も強くて運動部に引っ張りだこだったらしい響生が階段から落ちるなんて、誰が想像しただろう。


今一番疑問なのはそこだ。




「それよりは響生の記憶を戻さないと、か……」


「簡単には戻らないですよね?」


「うーん、実力行使は出来なくはないけどなぁ」



さすが天下の須王グループ社長。強硬手段においていくつか考えはあるらしい。



「けど、響生相手だと拘束するの大変だから」


「あぁ……」



ヤツは大人しくしてない。絶対暴れる。そうするとムリだ。



「俺も手段考えるから、真夜さんそれまで響生のことよろしく」



自分の家で響生がああなったから、少しは責任を感じてくれているんだろう。

優しい社長さんに、なんだか目からうろこな気分で頷いた私だった。







社長さんと響生の話をして帰ってきたのはお昼すぎだった。

1人で帰ってきた私に、出迎えてくれたお義母様と浅岡さんは首を傾げて。



「響生は?」



そう聞いてきたから、帰って来ていないんだって分かった。



「……遊んでるんじゃないですか」



もはや他に何を言う気力さえ起きない。脱力した私は帰って来ないヤツなんて放置して子供たちの面倒を見ることにした。


そんな私の様子をハラハラしたような顔をして見てきていたお義母様と浅岡さん、プラス使用人の人たち。



けど、私がいつも通りだから結局仕事に戻って行った。






その夜。



「あ?なんでてめぇがここに居んだよ」



夜遅く22時になんて帰ってきた魔王様は、私を見てあからさまに嫌そうな顔をした。


それを私はちらりと見ただけなのに対し、お義母様が立ち上がってヤツのほうに向かっていく。



「あなた自分の嫁になんてこと言うの⁉ 真夜さんずっと子供たちの面倒見てたのに、あなたどこ行ってたの!?」


「うるせぇな。どこ行こうと俺の勝手だろ」



結構派手な親子喧嘩に周りにいた人間がハラハラしているのが窺える。


私はそれをただ傍観。いつもなら絶対文句言ってたけど、お義母様が怒っているから怒鳴る気すら失せた。


抱っこしている莉真をトントン叩いてあやす。




「あなた、いい大人のくせにまた遊んでいるの?真夜さんに失礼だと思わなくて?」


「だから結婚した記憶なんかねぇんだよ。知るかよそんな女」




話の流れからしてやっぱり響生は遊んでいたと予測。そしてその『遊び』がどんなものなのかも。


もはや想像通り過ぎて溜め息すら出てこない。




気を遣ってくれるような使用人さんたちの視線に乾いた笑いしか返せない。


そうすれば、憐れみのこもった視線を返された。



夜に大声での言い争い。こんなこと敷地が大きいここでしかできない。じゃなかったら確実に近所迷惑。



収まりそうにない2人の口喧嘩がオーバーヒートすること15分。



「はっ、付き合ってられるか」



いい加減お義母様から出る文句に飽きたらしい響生が部屋を出て行く。



「ちょっと響生!」



お義母様、もはや引っ込みがつかないらしくて、その響生のあとを追っていく。


そうしてやっとこの場の平穏が帰ってきた。


しん、とする空間の中、私はひとり立ち上がる。



「もう22時半なんで、寝ます」


「あ、はい……」



実はこの空間にいるのが居たたまれなかっただけ。


莉真をダシに抜ければ、私の後ろを浅岡さんが追いかけてきた。



「真夜様」



心配そうな面持ち。彼も、心配してくれているけれど、今は何を言っても強がりにしかとられない。



「大丈夫です」



結局その言葉しか出てこなくて。笑顔を向ければ、浅岡さんは何も言わずに部屋まで見送ってくれた。



これで漫画だったら数日の間に色々あって、すぐに記憶を取り戻すのだろう。

けれど現実がそんなに簡単なわけがなく。

あっという間に2週間経った。



その間、霧神家といえば悲惨としか言い様がない。



自己中心・女たらしに戻った響生は家の手伝いなんて放置で毎日出かけ、帰ってこない日すらある。


お義父様はもはや放置、お義母様は毎日のように愚痴を言いまくっている。



浅岡さん筆頭に使用人の人たちはどう対処していいのか分からずオロオロしているばかり。




私はといえば、子供の面倒を見ながら家を手伝うだけ。


響生と顔を合わせようものなら舌打ちしかされないから、何も言わないことにしている。




子供たちも父親がおかしいのが雰囲気で伝わっているらしく、響生に近づいていかない。


本当に、皮肉だけどそういうところは父親に似て聡い子だと思う。


最初哀れみのこもった視線を送ってきた周りの人たちだけど、時間が経てば今度は不思議に思い始めるらしい。




「なんで真夜様は響生様が遊んでいるのを止めないんだろう」




色々なところから聞こえてくるその言葉。


あんなに「可哀想」なんて言っていたのに、どんどん「軽薄な人」とさえ言われ始めた。


もちろん傷つかないわけじゃない。あんなに私の境遇に同情的だった彼らに白けた視線を向けられるんだから。



昨日なんて「やっぱりお金目当てで結婚したのかな」って言われていて、唇を噛み締めすぎて切れた。

誰も知らないわけがない。私の心の内なんて。


けれど、それを知ってほしいとは思わない。


私は私の考えで生きていく。それが響生に飽きられない、『霧神真夜』だと分かっているから。


他人の意見に振り回される私を響生が、嫌いだと分かっているから。



今響生に何かを言っても嫌われる要素にしかならない。


舌打ちで収まっているのに、口を出したら会えなくなるのは確実。



響生の性格なんて嫌というほど知っている。


嫌いな人間には近づきさえしない男だ。きっと上手く丸め込んで結婚したと思われている私に対して相当イラついているはず。



これ以上何かして状況を悪くすることは得策とは言えない。



もちろん顔を合わせるたびにすごい睨まれるから、今の状況がいいとは決して言えない。


なんなら離婚秒読み夫婦確定だ。




「ほんと、自分勝手……」




勝手に私のこと捕まえて、強制的に結婚して子供も産ませて。


あんなに執着して私をカゴの鳥にしたくせに、本人は何処までも自由。




あそこまでムカつく男なんて他にいない。




「面倒だな……」




なんで私がこんな目に合わないといけないんだろう。



響生と出会った直後は何度も思っていた言葉を口にして、静かに目を伏せた。



一方的な愛情ほど悲しいものはなくて。



空しくて、思うほどに自分の中でどうすることも出来ない感情が暴れる。



そこまで好きだと思う人もいなかった。『平和な幸せ』を望んでいた。

そんな私が、響生となんて一緒になったら『平和』なんてもの、訪れないと分かっていて結婚した。


こんなに好きになる予定はなくて。



私をボロボロにして弱らせて、抵抗できないまでにして自分の手中に収めた魔王様。


いつか飽きられる日が来ると思っていた。捨てられる日が来るのを待っていた。



まさか、こんな形でそれが訪れて。




彼から言われるんだろうと、渡されるんだろうと思っていたものを両方とも自分から彼に向けるなんて。




私も他の人も。







誰が、思ったことだろう。



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