第51話

 サングリッドは痛みに苛(さいな)まれながらも、ゼアハの憑(つ)かれたような目を睨(にら)みつけた。深手を負った腹部は、まだ血を吹き出している。まとわりつく獣じみた狂気に、胃の奥底から恐怖と嫌悪(けんお)が込み上げる。

 「ゼアハ……貴様(きさま)、血迷(ちまよ)ったか……!」

 しかし、その問いかけに応じるような知性の光は、ゼアハの瞳から完全に失われていた。声にならぬ唸(うな)りが荒い呼吸に混ざり、彼の口元は泡を吹くかのように震えている。


 (まさか、毒の迷宮の仕掛けに取り込まれたままなのか……! ここまで正気を失うとは)

 サングリッドは渾身(こんしん)の力で呪術を維持していたが、これ以上の出血は危険だと判断した。ガルサーグが少女を捕えるまで時間が必要だというのに、今の状況では自分の身さえ危うい。

 (このままではまずい……ゼアハを引き剝(は)がして、自分の体勢を立て直すしかない)


 そう思い立ち、サングリッドは未練(みれん)なく拘束の呪術を手放した。青年を縛(しば)る結界の糸を解き放ち、その分の魔力を腕と脚へ集中する。

 「ゼアハ、いい加減……離れろッ!」

 杖を左手に固く握りしめたまま、サングリッドはゼアハの身体を突き飛ばそうと腕を振り上げた。が、その瞬間、ゼアハの怪力がしがみつくように抱きついてきて、逆に彼の動きを封じてしまう。


 「ぐ……ッ、こ、こいつ……!」

 眷属同士とはいえ、ゼアハも夜族の身体能力を備えている。しかも、錯乱状態が拍車をかけているのか、その力は普段以上に凄まじい。サングリッドの背中に回り込むようにかじりつき、短剣が抜けきらないまま絡みつく。激痛が再びサングリッドの内臓(ないぞう)を抉(えぐ)り、喉元から血混じりの呻(うめ)き声が漏れた。


 (拘束を解いてしまった……! あの青年はどう動く?)

 サングリッドの意識が焦りを募(つの)らせる。周囲にはトラバサミが挟(はさ)んだままの己(おの)の足、ゼアハの狂気の抱擁(ほうよう)――これでは身動き一つろくにできない。最悪の場合、青年が今こそ報復(ほうふく)に打って出るかもしれない。

 足元の血だまりが薄暗い地面に広がり、温かい体液がどんどん失われていくのを感じるたび、眷属であるサングリッドの“不死”の身体といえど、痛みと衰弱(すいじゃく)が確実に浸食していくのがわかる。


 ふと、視界の端で、あの青年が指先をサングリッドの足元へ向けたのが見えた。

 「拘束するのに……呪術は必要ない、ということですよ」

 静かな声が、相変わらず何の感情も宿していないように響く。その言葉は酷(むご)く冷たく聞こえるが、同時に嘲笑(ちょうしょう)のような含みはない。ただ単に事実を告げているだけの淡々とした響きだ。


 (なっ……こいつ、先ほどから……!)

 サングリッドは青年が指し示す先を改めて見下ろす。そこにはまだ錆(さ)びたトラバサミがしっかり喰(く)いついており、重厚な鉄の歯がサングリッドの足を容赦なく捕捉(ほそく)している。

 呪術こそ解いたものの、自分が“物理的な罠”に囚(とら)われているのは変わらない。しかも、ゼアハにしがみつかれたままの上半身は完全に固定され、まるで拷問(ごうもん)台に括(くく)りつけられたような有様(ありさま)だった。


 「ぐっ……は、離せっ……!」

 ゼアハの顔は血まみれになりながら、何かを呟(つぶや)くように声を漏らす。言葉にならない断片(だんぺん)が、ぶつぶつと混濁(こんだく)した叫びになって漏れ出ている。

 サングリッドはもはや言葉など通じないのだと悟(さと)るしかない。その錯乱した同胞(どうほう)をなんとかいなしながら、どうにか意識を保(たも)ち続けようと懸命(けんめい)だ。


 (こんな馬鹿(ばか)な……! 俺は呪術師だぞ……どうして、こうまで翻弄(ほんろう)される……!?)

 狼狽(ろうばい)と痛みの渦(うず)の中、サングリッドは己が拘束を自ら解き放ったという“隙”の代償の大きさを思い知らされる。予想だにしなかった肉体的拘束――つまり、トラバサミと錯乱したゼアハの強力な抱擁(ほうよう)――これが結果的に彼の動きを封じている。

 青年の言うとおり、呪術など使わずとも、彼を束縛する手段はいくらでもあるという皮肉(ひにく)なのだ。


 (まずい……このままじゃ動けない。まず、ゼアハを振り払わないと……)


 朽(く)ちかけた建物の影から吹き込む夜風が、血の匂いとともに冷たく肌を刺す。サングリッドは一瞬、青年がこちらへ近づいてくる気配を感じ、身を強張(こわば)らせた。だが、青年はなおも一定の距離を保ったまま、淡々とこちらの状態を見つめている。

 (嘲笑うでもなく、哀れむでもなく、ただ観察している……? こいつ、何者だ……?)


 腰に深々と突き立った短剣から痛みが引けることはない。ゼアハがうわ言のように呟きながら、サングリッドの背中を押し潰(つぶ)すようにしがみつく。激痛と流血で意識が霞(かす)みかけるが、夜族としての執念(しゅうねん)がそう簡単には途切れさせてくれない。


 壊滅した廃村の外れで、サングリッドはかろうじて杖を握りしめたまま、どうにか次の手を模索(もさく)するしかなかった。空には毒々しいほどの月が浮かび、蒼白(そうはく)い光が破壊と狂乱(きょうらん)を照らしている。

 その狭間(はざま)で、サングリッドの血に濡れた唇が震えながら、かすかな呻(うめ)きと闘志(とうし)を混ぜ合わせた声を押し出そうとしていた――自分が未だ折れてはいない、という証明(しょうめい)のためにも。

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