第50話
サングリッドは薄く笑みを浮かべたまま、青年の言葉――「拘束を解く方法は、呪式の根源を止めること」――を頭の中で反芻(はんすう)していた。呪術師としての自負(じふ)がある彼にとって、それはある種の常識に近い。それでも、不気味なまでに落ち着き払(はら)う青年を前にすると、妙な不快感が胸をざわつかせる。
(設置型の呪術は……見当たらんな。やはりコイツ以外に術者はいない。となれば、どうやって根源を断とうというのか――)
口中で言霊(ことだま)を転がしながら、サングリッドは周囲の魔力の流れを鋭く索敵(さくてき)した。廃村の荒れた大地には散らばる瓦礫(がれき)と朽(く)ちかけた建物の残骸(ざんがい)、そしてまだ生々しい血の臭いが渦巻く。だが、魔力反応は何も感じられない。設置型の結界や呪具(じゅぐ)などは影も形もないし、潜んでいるはずの仲間もいない。青年が孤立無援(こりつむえん)であることは明白だった。
(……何もできない状態で、どうやって“呪式の根源”を止めるんだ?)
確信を得たサングリッドは、にやりと嘲笑(ちょうしょう)を深くする。まさに口を開いて「何もできまい」と吐き捨てようとした、その瞬間だった。
――カチッ。
まるで時間が止まったように、一瞬だけサングリッドの思考が空白になる。次の瞬間、足元で鋭い音が響き、激しい衝撃が彼の脚部を襲った。そこに展開したのは古典的な狩猟罠、トラバサミ。錆(さ)びた鉄の鋭利な刃が、眷属の生皮(なまかわ)を容赦なく噛み砕(くだ)いている。
「っ……!」 サングリッドは咄嗟(とっさ)に叫びを上げそうになるが、眷属としての矜持(きょうじ)がそれを飲み込ませる。痛覚はあるものの、彼らは“不死”ゆえに致命傷ではない。とはいえ、さすがに足を挟まれた状態では動きが著(いちじる)しく阻害(そがい)される。
(こんな単純な物理罠に……! まさか、こいつが仕掛けていたのか? いや――俺の索敵には何も……)
呪術師としての誇りが大きく揺さぶられる中、意識の一部が痛みに引きずられた刹那(せつな)、背中に灼熱(しゃくねつ)のような衝撃が走った。突き刺さる痛みとともに、体内で何かが穿(うが)たれる嫌な感覚。思わずサングリッドの口端から赤黒い血が吐き出され、荒れた地面に飛沫(しぶき)を散らす。
「……っ、が……は……!」
急激な痛みに膝(ひざ)が崩れそうになる。呪術を維持するために杖を握った腕にも力が入らず、思わず振り返ったサングリッドは、自身の背中に短剣を突き立てた“侵入者”を目撃した。
そこにいたのは――ゼアハ。
だが、その面(おもて)はまるで狂気(きょうき)に蝕(むしば)まれているかのように焦点が定まらず、唇の端からはかすかに涎(よだれ)のようなものが垂れている。目の前のゼアハは、かつての冷酷な暗殺者の面影(おもかげ)を失っていた。毒の迷宮で負った傷や幻術が、完全に彼の正気を奪い去っているのだろうか。あるいは毒の残滓(ざんし)が回り、錯乱状態に陥っているのか――いずれにせよ、いまのゼアハは味方すら区別がつかないほどに荒(すさ)んだ姿だ。
(ゼアハ……何を、している……っ!)
サングリッドは内臓(ないぞう)を抉(えぐ)られる熱と痛みに耐えながら、ゼアハの手から短剣を振り払おうとする。しかし、一度狂乱に陥った夜族の眷属が放つ力は凄(すさま)じく、簡単には抜けない。さらに足元のトラバサミが食(く)い込んでいるため、身動きが取れない。
血液と共に苦悶(くもん)の呼吸が混ざり合い、サングリッドの意識がわずかに揺らぎかける。
(こんな……バカな。奴(やつ)が……どうして……。俺が不死とはいえ、そう何度も深手を負えば……!)
サングリッドは必死に杖を握りしめ、呪術を解かずに持ちこたえようとする。もし自分が集中を失えば、拘束系の呪いは弱まり、あの青年が動き出すかもしれない。もっとも、すでに青年がこの状況を利用してどうにかする時間を得ている可能性はある――それを想像するだけでも、サングリッドの中に焦燥(しょうそう)が膨れ上がる。
不死者と言えども傷は痛み、出血すれば体内の力も衰える。何より、この状況は明らかな不利(ふり)だ。
(ゼアハ……! おまえ、正気に戻れ! 俺たちは同じ“眷属”……!)
呼びかけようにも、ゼアハはそれどころではない様子だ。その狂気に満ちた瞳は同胞(どうほう)を認識できていない。サングリッドの傷口から溢(あふ)れ出す熱い血が、ゼアハの顔に飛沫(しぶき)を投げかける。さらに興奮したのか、ゼアハは短剣を押し込むかのように力をこめた。
ビキリ、という不穏(ふおん)な音とともに、サングリッドの背骨(せぼね)に鈍(にぶ)い衝撃が走る。
(まずい……このままじゃ、呪術が――)
心中(しんちゅう)で悲鳴を上げるサングリッド。痛みに耐えるため、顔をしかめたまま強張(こわば)った喉から、紅(あか)い液体がさらに吐き出された。彼の頭の中では、次々と警鐘(けいしょう)が鳴り響いている。
――どうにかこの状況を打開しなければ、ガルサーグの行動どころか自分自身さえ立ち行かなくなる。
あたり一帯に散らばる瓦礫と血の匂い、トラバサミの軋(きし)む鉄音、そしてゼアハの浅く速い呼吸とサングリッドの苦鳴(くめい)。廃村の闇夜はさらなる狂乱へと堕(お)ちていくかに見えた。
それでもサングリッドは、まだ完全には意識を飛ばしていない。崩れ落ちそうな身体をなんとか支え、ちらりと前方に視線を戻す――そこには、いまだ呪術の鎖に囚(とら)われたままの青年がいる(ように見える)。しかし、その表情が先ほどと同じ無表情のままなのか、それとも……。
(クソ……! こんな、不測の事態は……聞いていない!)
沸(わ)き起こる絶望と、夜族としての闘争(とうそう)本能、さらにリーダーであるルシファードの叱責(しっせき)を思う恐怖までが、サングリッドの思考をひしめき合わせる。
深い暗闇の中、サングリッドは自らの不死の血を以(もっ)てこの窮地からどう脱するのか――薄れかけた意識の底で、まだ微かな希望を手繰(たぐ)り寄せるしかなかった。
鋭利な痛みと熱が腹部に拡散する。サングリッドの視界の端で、ゼアハの狂乱がさらに加速するかのように見える。そして、その背後では、青年の沈黙が静かに続いていた。
空(から)を裂くような蒼白(そうはく)い月の光に照らされて、呪術師の呻(うめ)きが廃村の夜気に滲(にじ)む。負傷した身体を引きずりながら、サングリッドは己の運命を狂わせる出来事の連鎖を呪わずにはいられなかった。
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