イースレウムの黙示録
永川ヒビ
序章
1. 風化せし神の黙示
世界に満ちていた“祝福”が、一つ、また一つと失われていったのは、いつからだったのだろう。
その答えは誰も知らない。それは、誰もが忘れてしまったほどに遠い過去。
何を失くしてしまったのかも気付かないまま、今日も世界は、一歩ずつ終わりへと近付いている。
―――
その石碑は、風に晒された断崖の中腹にひっそりと佇んでいた。風が通るたびに、木の葉の擦れる音だけが響く。この場所に、訪れる者は誰もいない。
「……こんなところにあったのか」
一歩踏み出すごとに足元の砂岩が柔らかく崩れていく。小道の両脇では伸び放題の草が揺れ、白と青の花が点々と訪問者を導くように咲いていた。
静かに吹き抜ける風が、男の衣の裾をわずかに揺らす。木立の間を抜ける風の香りはほんのり甘い。それは冷たさを感じさせない、誰かがそっと寄り添ってくれるような澄んだ風だった。
風がふわりと頬を撫でる。誘われるように男は慎重に手袋を外し、風化した石面に触れた。
「これは……“神の言葉”……」
指先が石碑の表面をなぞる。刻まれた文字のくぼみに沿って、わずかな起伏が肌を伝った。冷たく、ざらついた感触。そこに宿る一切を拾おうと、石碑の文字を必死に追いかける。
それは古代の言語。古の時代を生きた者たちの、今は失われた言葉。碑に刻まれた文章を読み進めるにつれて、男の目が歓喜に震える。
「……これは、“汝”……次が、“祝福”……」
線の一つひとつを確かめながら、男は懐から厚い手帳を取り出す。それは、自らの手で少しずつ書き溜めてきた自作の辞書。読み解いた単語や構文を記したもので、端には走り書きの小さな注釈がいくつも添えられている。長い歳月をかけてようやく形を成した、唯一無二の言葉の地図だ。
「……“されど、時は去り”……いや違う、“流れる”、か?」
指で追いながら、碑文を小さく読み上げる。一つの単語を解読する合間に目を伏せ、辞書をめくる。紙の音が風に溶けた。時折眉をひそめては、またページを戻す作業を繰り返す。
苦心の末に一文を読み切るたび、何かを確かめるように視線を石碑へと戻す。過去へと繋がる言葉の奥を覗く緊張か、指先は冷え、声が震えた。そのたどたどしさとともに、時を超えた誰かの祈りを掬い上げる。
これが――〈イースレウムの黙示録〉の、最初の発見だった。
―――
宿の中には、潮の香りと焼いた魚の匂いがふわりと漂っていた。磨かれた木の床は年季を帯びた光沢を湛え、足音が優しく吸い込まれていく。遠くからどこか陽気な港の喧騒――船を引く掛け声や、波止場で遊ぶ子どもの笑い声が、風に乗って届いていた。
受付の脇には古い浮き玉や網が飾られ、壁には色褪せた帆船の旗が掲げられていた。海の気配が近い、清潔で整えられた空間に、主人の快活な性格が滲み出ている。
「……」
宿の窓は始終開かれたままだった。潮風は真っ白なカーテンを揺らしながら吹き抜け、港のきらめく水面を撫でて彼方へと去っていく。床に敷かれた藍染の絨毯はほんのりと海藻の香りを残していて、何故か懐かしさすら感じさせた。
彼女は人気のないロビーの椅子に腰を下ろし、古い手記を両手で大切そうになぞる。年季の入った表紙は濃い茶色の革で綴じられており、角はとっくに丸くなっていた。使い込まれた革特有の温もりと、わずかな油の香りが鼻をかすめる。
深い折れ目や細かいひび割れは、最初の持ち主が何度もこの手記を開き、読み、書き込んできた証だ。留め具には錆の浮いた真鍮のバックルが使われており、開閉するたびに微かな金属の軋む音がした。彼女が慎重に手記を手に取ると――あるページが自然と開かれる。何度も同じ場所を読み返したせいで、癖がついてしまったようだった。
「……“汝らに与えられし祝福、六つの息吹”」
背に流れていた金色の髪が、肩先にさらりと流れ落ちる。毛先のやわらかなウェーブが、古びた文言に反応するかのように揺れた。まぶたを伏せるその表情は穏やかで、どこか祈るような静謐さを帯びている。
「“されど、時は流れゆく。神なき空に息吹は巡れど、その意味を知る者なし”」
紺の瞳が文字を追うたび、長い睫毛の影が頬をかすめる。彼女の指先は愛おしむようにそっとページをめくり、走り書きの文字一つひとつを見逃さないように、自然と息を潜めた。
黄ばんだ紙がぱり、と乾いた音を立てる。インクの滲み。掠れた筆跡。旅先で綴った思索。誰かに宛てた断片的な言葉に、消えかけた図や本人にしか理解できないどこかの地図。その全てに、持ち主の残した確かな熱を感じ取る。
「――“忘却、ここに始まれり”」
部屋の中に静かな声だけが響く。彼女は周囲の全てを忘れ、手記に書かれた言葉と対話していた。記した主の思考を丁寧に拾う作業。今まで、何度繰り返してきたことだろう。
(――先生)
とある古代魔術史学者が、“神の言葉”で記された石碑を見つけてから数十年の時が経った。学者は碑に刻まれた文章を〈イースレウムの黙示録〉と名付け、その生涯を黙示録の研究に捧げる。
一人の若き魔術師――リシア・ナイトレイは、その学者の積み上げた全ての研究記録を受け継いだ。この手記は彼の研究の中でも最たる結果を記したもので、解読された黙示録の詩の全文が残されている。
『いいかい、リシア。〈イースレウムの黙示録〉はただの碑文ではない。ここにはきっと……何か隠された真実がある。私はそれを必ず明らかにするよ』
穏やかな陽光に照らされ、力強く押しつけられたペンの跡が紙に浮かび上がる。急いで閉じたときに折れたような痕跡。雨に濡れてふやけた部分。そのどれもが皆、偉大な魔術史学者の生きた証だった。
師の遺した黙示録の断片的な解釈をなぞる。本人にしか解読できない蛇のような文字を見つけて、口元に小さな笑みを浮かべた。その表情には理知的な柔らかさが宿る。
世界にはこれと同じような“神の言葉”が、まだ散らばっているはずだ。師は常にそう口にしながら、まだ見ぬ黙示録を求めて世界を放浪した。
(私、きっと……他の黙示録を見つけてみせるから)
志半ばで、全てをリシアに託した師を想う。魔女は師に代わり黙示録を探し出すために、旅をすると決めていた。
―――
「古い伝承を探してる?」
「はい。その地域に伝わる神話、昔から続く儀式、童謡……あ、この町なら代々受け継がれている舟唄とかも当てはまるかな」
何度も開いた手記に新たな発見はないか。見慣れた文字を追っていると、興味深そうに一人の旅人がリシアに話しかけてきた。東方から来たと言う彼女は、気さくな笑みを浮かべて近付いてくる。
「こんな時代に変わったことしてるのね。伝承を探すって、世界の歴史を調べるって意味でしょ? 世界はこれから終わりを迎えるって言うのに」
リシアと同じ席についた旅人は、日に焼けてやや傷んだ髪の毛先をくるくると指で巻いた。リシアの話には耳を貸すものの、その内容にはあまり惹かれていない様子だ。
「……世界が終わるから、過去を見つめ返すんです。そうすることで――何か見えてくるものがあるかもしれないから」
「ふぅん、難しいこと言うのね。でも――旅する理由なんて人それぞれか。アタシだって“こんな時代”にいろんなところを巡ってるわけだしね」
リシアは小さな陶器のカップを両手で包み、熱を確かめるようにして目を伏せた。濃紺の瞳が、ふと旅人の横顔を見やる。
「長い旅を?」
カップの縁に指を添えながら、彼女は問いかけと同時に再び視線を上げた。その瞳は港の夜を映すように澄んでいて、けれどどこか旅人のたどってきた遠い風景にまで届いてしまいそうな、不思議な深さを見せる。
「もう何年も。今は港を三つ回ってきたところで……これから山脈を越えてずっと北に行く予定」
旅人はそう言って、椅子にもたれかかった。小さく木の軋む音。肩の皮袋には塩を帯びた風の痕跡。彼女の歩んだ時の長さを物語っているようだ。
「じゃあ、この町にも少し立ち寄ったくらいなんだ」
「そうよ。旅支度を整えたらすぐに発つ。海は美しいけど……なぁんもないから、この町」
彼女は肩をすくめ、冗談めかして口角を上げた。一拍置いて、つられるようにリシアも笑う。「ああでも、」と、旅人は何かを思い出して手に顎を乗せた。
「この町、風が穏やかな日ほど潮が遠くまで引いて、夕方になると渡り鳥が集まってくるの。あの埠頭の先、灯台の下あたりにね」
海が深く息を吸うように、潮が静かに引いていく様子をリシアは思い浮かべる。白く光る浜辺が顔を覗かせ、貝殻が陽をきらきらと反射した。
夕方になるにつれて、ゆっくりと茜色に染まる空。沈みかけた太陽が海面を薄橙色に照らし、金の布を広げたように一面が輝く。白い灯台のふもとに、小さな渡り鳥がふわりと舞い降りた。翼をたたんだ鳥たちは灯台の根元に集い、肩を寄せ合うように羽を休める。
刻一刻と群青に変わりゆく空の下、夕暮れの寂しい光と羽ばたきの余韻だけが、この海辺一帯を染め上げていた。
「それは……いい景色なんだろうな」
「ええ、この町に来た人には、ぜひ見ていってほしい」
美しい光景を思い出すように、旅人が目を細める。日に焼けた手首に巻かれた腕輪が、ふと差し込んだ陽光に煌めいた。
束の間の静寂を満たす海鳥のさえずり。旅人はぽつりと呟くように言葉を継いだ。
「古い伝承を探すなら、オリストティア王国に行ってごらんなさい」
旅人はリシアの手の下にある手記をぼんやりと見つめながら、自身の記憶を手繰り寄せる。
「“月の女神イリューナ”の伝説が多く残る王国よ。オリストティア一帯は古くから“月の大地”と呼ばれていて、月女神の加護があるとかないとか」
語る声はさらりとしていたが、リシアを見つめ返すその瞳には確かな光が宿っている。彼女に応えるかのように、リシアも表情を輝かせながら頷いた。手記の上に置いた手に自然と力が籠る。
「オリストティア王国……この町から船、出てますか?」
「出てるわ。ちょうど明日、オリストティア行きの船が出る日じゃなかったかしら」
身を乗り出すようにして尋ねると、旅人は口の端を緩めて笑った。潮の香りを含んだ風がまた一つ吹き抜け、湿り気を孕んだまま二人の間を抜けていく。
「アナタ、一人で旅してるの? 黒喰病が猛威を振るうこんな時代に……誰か護衛でも雇ったら?」
ふと語気を落とした旅人の声に、リシアははっとして顔を上げた。気遣いというよりは、現実を受け止めている者の忠告。旅人の腰に提げられた剣は、鞘の革が擦り減り、鍔には無数の傷跡が刻まれていた。その剣が、彼女の潜り抜けてきた避けては通れない戦いを物語る。
「……一人が気楽だから。今のところ護衛は考えてないです」
「気持ちは分かるけどね。長く旅をしたいのなら……無茶しないで、人にもちゃんと頼らなきゃダメよ」
旅人はそう言うと、目を丸くするリシアに向かって微笑んだ。そして、特に意味もなく指先で軽く机を叩くと、流れるように立ち上がる。
「それじゃあね。お互いによい旅を」
「いろいろ教えてくれて助かりました。オリストティア王国、行ってきます」
――他人には頼らない。喉まで出かかった言葉を飲み込み、リシアは意識して笑顔を作る。他者をあてにする人生は歩まない。それは、リシアが魔術師として生きていくことを決めた日に誓い、師を失くした日に刻まれたものだった。
旅人の姿が見えなくなった頃、リシアは立ち上がり背伸びをする。気ままな一人旅。偶然出会い、もう二度と再会することはないであろう旅人の言葉に導かれるのも一興だ。彼女は次の針路を“月の大地”へと定めた。
「どんな国だろうなぁ、オリストティア王国」
〈イースレウムの黙示録〉を求める旅。師の遺した言葉だけを信じ、あるとも知れない過去の祈りを探す日々。それは、師から弟子へと受け継がれたもの。
手記を片手に歩き出すリシアの足取りに迷いはない。胸中に占めるのは、遠い異国に対する期待と興奮だけだった。
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