第1章「消えた笑顔」

第1節:「終わらない握手会」

朝から始まった握手会は、いまだ途切れることなく盛況を保っている。

小さめのライブハウスを改装したイベントスペースは、多くのファンでごった返し、空気は熱気と熱狂に包まれていた。

私たちラストフレーズは、それぞれのテーブルに分かれて座り、列を作ってくれたファンと一人ひとり握手を交わしている。


 私はリーダーの桜井未来。

視線を巡らせると、センターの水無瀬莉音をはじめ、メンバーそれぞれの前にも長い列が伸びている。

イベントスペース横の物販コーナーでは、新しいTシャツや缶バッジ、メンバーごとのチェキ券などが飛ぶように売れているらしく、スタッフの慌てた声がときどき聞こえてくる。

これも地下アイドルとしては欠かせない収益源だ。


 そんな熱気の中、私の目にはメンバーの些細な仕草や疲れがふと映る。

やはりリーダーとして、彼女たちを守ってあげたいという思いは常にある。


 まずは斜め前のテーブルに目をやる。

そこではセンターの水無瀬莉音がファンと楽しそうに話していた。


「莉音ちゃん、大好きです! この前のライブも最高でした!」

「わあ、ありがとう! また遊びに来てくれると嬉しいな」


 莉音は相手の目をまっすぐ見つめて、にこりと微笑む。

その笑顔を見るだけで、まるで空気がぱっと明るくなる気がする。

ファンも熱を帯びた声で「もちろん行きます!」と返すと、莉音は嬉しそうに頷いた。

 だが、その輝かしいやり取りの合間に、莉音がちらりとスマホを見ては、素早く画面を伏せるのを私は見逃さなかった。

なにか人に見られたくないやり取りでもあるのだろうか――そんな疑問が頭をかすめる。


 次いで目に入るのは、篠宮ひなたのテーブル。

彼女は最年少らしいあどけない笑顔でファンを迎えている。


「ひなたちゃんに会いたくて、今日は有給取ってきちゃいました」

「えーっ! 本当に? 嬉しいなぁ、ありがと!」


 彼女がぱっと目を輝かせると、ファンも照れ臭そうに「いやいや、こっちこそ…」と視線を泳がせる。

ついつい甘やかしてあげたくなるような、そんな空気を纏うひなたには、自然とファンもほほ笑んでしまうようだった。


 その奥では、天野雪菜が相変わらず控えめな様子でファンと接している。


「雪菜ちゃん、いつも応援してるよ。今日も綺麗だね」

「……ありがとう、来てくれて嬉しい」


 彼女は声を大きく張り上げることはないけれど、その静かな微笑みが不思議と相手の心をぎゅっと掴む。

ファンの男性が恍惚とした表情で「これからも頑張ってね」と言うと、雪菜は小さく頷いた。

言葉数が少なくても、確かに気持ちは届いているようだ。


 さらにその隣のテーブル、橘かりんのところでは、ファンが「ダンス最高でした!」と興奮気味に伝えている。

かりんは軽く笑みを浮かべ、


「ありがとう。レッスンでめっちゃ厳しくやってるから、そう言ってもらえると救われる」

「次のライブも楽しみです!」

「ふふっ、期待しててね。もっといいパフォーマンスができるよう頑張るから」


 落ち着いた雰囲気と姉御肌の安心感が相まって、ファンも安心したように「はい、ずっと推します!」と声を弾ませている。


 そんな中、空気を一瞬引き締める声が響く。


「時間が押してます! 皆さん、もう少し巻いてください!」


 ステージ袖からマネージャー・藤崎涼子が腕時計をちらりと見ながらスタッフに指示を飛ばしている。

続いて私のところにも小走りで寄ってきた。


「未来、あと十分で打ち切るわよ。物販も落ち着かせたいから」

「わかりました」


 すぐさま列の最後尾にいるスタッフと目を合わせ、残り時間が少ないことをファンに案内してもらう。

すると名残惜しそうな声が少し上がったが、スケジュールはどうにも動かせない。


 再度、莉音を見ると、わずかに額に汗が光っている。

けれど、まだまだ途切れないファンを前に、必死に笑顔を作っているようにも見えた。

「莉音、無理してない? 大丈夫?」

 私がそっと声をかけると、彼女は笑顔を崩さず、

「うん、あとちょっとだから頑張るよ。ありがとう、未来」

 その言葉に私はほっとしつつも、ほんの一瞬だけ莉音の手が震えた気がして、胸の奥がざわついた。


 そして、打ち切り宣告を受けたラストのファンが握手を終えたところで、全メンバーが同時に深呼吸。

イベントスペース全体が「お疲れさまでした!」という雰囲気に包まれる。

ファンは物販コーナーへ流れたり、満足そうに出口へ向かったりしている。


 私は一通りの片付けに手を付けつつ、メンバーのほうに視線をやった。

ひなたは上機嫌で自分の荷物を整理している。

雪菜は静かにスマホを見ながら一息つき、かりんはスタッフと軽く言葉を交わしながらテーブルを片付けていた。

 一方、莉音は誰にも気づかれないように、再びスマホを手にして画面を覗き込んでいる。

直後に私と目が合うと、「大丈夫だよ」とでも言うように首を振って、小さく笑った。


(……なにか、気になる。あの笑顔の裏にあるものは何だろう?)


 いつもだったら、疲れていてもアイドルらしく振る舞う姿に安心できた。

けれど、今日はどうしても胸騒ぎが収まらない。


 「ラストフレーズ」の握手会――大盛況のうちに終了したはずなのに、私の心にはわずかな不安の影が揺らめいていた。


 この些細な違和感が、やがて“消えた笑顔”を巡る大きな事件へと繋がっていくことなど、まだ誰も想像すらしていなかった。

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