第4話 言葉がつなぐ作業場の風景
月曜日、学は「とある事業所M」へ向かった。
そこにはゴウ、イナズマ、コトゲの三名がすでに来ており、学を含めた四人は、冷房の効いた部屋でしばし涼んでいた。
滑り出しは概ね順調だった。
「こういうときは『はい』と言ってください」
「いまのは『ありがとう』って言ってください」
学が知っているやり方で、三人は少しずつ挨拶を覚えていった。
最初は「魂があるのかな」と呟くだけだったイナズマが、最近では「僕も変われるかもしれない」と学の前で言葉にするようになった。
しかし、学の胸には別の悩みがあった。
——もっと良い方法があるのではないか。
そんな学の様子を見ていた周囲の利用者たちは、心のどこかでこう思っているようだった。
——学にはできるのに、なぜ自分にはできないのか。
彼らは学の真似をしようとしたが、思うようにいかず、やがて苛立ち、八つ当たりするようになった。
学にとって、それは酷く心を乱される出来事だった。
■ 太田と小池
特に、太田という太った女性と、小池という中年男性は、高飛車な態度で学の仲間たちに接し、まるで彼らを自分の下僕のように扱った。
学は注意を促したかったが、なかなか実行できなかった。
彼らは強引で、仮に説得したとしても、自らの非を認めるようなタイプではないと感じていたからだ。
対立することもできたが、学は融和を選んだ。
■ 「遅延」という知恵
作業を進める中で、学は三人に新たな対応策を提案した。
「皆さん、聞いてください。嫌な思いをしたとき、対立する以外に“反応しない”という方法もあるんです」
三人は怪訝そうな表情を浮かべた。
「相手が喜ぶような反応をするから、つけ上がるんです。もし何も反応しなければ、相手は『つまらない』と感じるはずです。そうすれば、自分を守れるかもしれません」
三人は理解したような、しかし完全には納得していないような表情を見せた。
そこで学は、対立と遅延に加え、もう一つの可能性――「すみません」――についても話した。
「良い組織で生きていくには、『すみません』が絶対に必要です。成果を上げれば褒められますが、失敗したときは謝らなければならない。たとえダメ出しされても、『はい』と受け止めて耐える必要があるんです」
ゴウは何となく理解したようだったが、イナズマとコトゲはまだ十分に把握できていない様子だった。
遅延で距離を取り、それでも突っ込んでくるようなら「すみません」で突き放す。
なるべく斜めに、斜めに下がっていく――。
学の知恵は三人や周囲に影響を与え、次第に学はリーダーとして認識されるようになった。
■ 小池との対立の予兆
しかし、太田はともかく、小池は学に激しく挑戦するようになり、まるで目の上のたんこぶのような存在になっていった。
決定的だったのは、早春の火曜日、小池に連れられ、遠くの借り畑で作業することになったときのことだ。
畑に着くと、小池は仕事の前に言い放った。
「しゃがむな」「そこをやれ」
個々の性格や特性を無視し、恫喝することで自分の意のままに使役しようとしていた。
その指示は、学や仲間たちにとって到底受け入れられるものではなかった。
学は心の中で思った。
——この男は、昔からこうやって人々に嫌われてきたのだろう。それなのに今もな お、その方法に固執し、同じように嫌われていることに気づかないのだろうか。
学は不本意ながらも、小池の言葉を無視しながら作業を続けた。
すると紙折りの材料が届き、支援員の勝子が「戻っておいで」と声をかけたため、学はすぐに建物へ戻り、紙折りの作業をすることになった。
■ 紙折りの部屋で
作業場の奥の部屋で、イナズマ、太田、シローとともに作業を始めた。
小池への不満はあったが、それはひとまず置いておき、作業は和やかに進んだ。
ふと見ると、太田が作業の進め方に興味を持っているようだった。
——面白い。
学はそう感じた。
そこで学は、イナズマに太田へ指示を出すよう促した。
イナズマは、学が普段彼らにしているように言葉をかけた。
「この紙折りを折ってください、お願いします」
太田は「はい」と返事をした。
それに続いて、学も「はい」と応じた。
作業を進めるうちに、太田とイナズマの「お願いします」「はい」というやり取りの精度が上がっていった。
「はい」「はい」とスムーズに進み、見事に成功した。
ただ惜しいのは、太田が明らかに“自分が楽をしたい”“優越感を得たい”という意図で指示を出しているにもかかわらず、苦労して応じた相手に「ありがとう」を全く言わなかったことだった。
学は、その「ありがとう」をどう説明すべきか、その時は言葉にできなかった。
確かに何かしてもらったら「ありがとう」なのだが、自分自身を振り返ると、それだけではない気がした。
元々、学の守備範囲はゴウ、イナズマ、コトゲだったため、太田の欠点に言及することはなかった。
当面の課題は、イナズマの尖った言い方をどうにかすることだった。
——私にできるのだろうか。
学はそう思った。
しかし、仕事に関する声かけには定型的な文句がある。
それらを尖らない言い方に修正し、少しずつ教えていこうと考えた。
学はイナズマに言った。
「信じて……」
イナズマは短く答えた。
「うん」
それは、学とイナズマの二人三脚の始まりだった。
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