第2話 転属前夜の「とある事業所B」

     第二章 キョとの交流


 ■仕事で使う挨拶

 作業を進めるうちに、別の問題が浮かび上がった。

 活動に必要な単純な挨拶――「ありがとう」「お願いします」「はい」。

 それが、キョにはなかった。


 怒ってはいけないと思い、学は我慢していた。

 だが、放っておくわけにもいかない。少しずつ働きかけてみた。

 「こういう時は『お願いします』と言ってください」

 「いまのは『ありがとう』と言うべきじゃないですか?」

 しかし、反応は薄かった。

 ■失敗と成功

 学は考えた。

 ――キョへの働きかけが失敗したのだから、これは自分の責任では?

 ――でも、『ごめんなさい』と言うのも違う気がする……。

 そこで学は、キョが言うべきだった言葉を、自分が罰として代わりに言うことで責任を果たせるのではないかと考えた。

 そしてもう一つの狙い――「こういう風にすると、うまくいくんだよ」と実演して見せること。


 その狙いは当たった。

 キョは少しずつ“元の世界”に近づいていった。

 このまま行けば、キョは病院に閉じ込められることなく、作業所の世界で生きていける――学はそう信じていた。



     第三章 上司Aとの衝突


 ■問題の女性

 ある日、「とある事業所B」に若い女性利用者が新しくやって来た。

 彼女は到着するなり、学に詰め寄り、唐突な物言いをした。

 学の胸の奥がざわついた。しかし、反応すれば事態がこじれると直感した。


 沈黙は、彼が選べる最も安全な手段だった。

 だが、その小さな出来事は、思わぬ方向へ転がっていった。


 ■ 上司Aの影

 上司Aは、普段から「精神障害者であっても厳しく接する」と口にしていた。

 学は、その言葉の裏に刺々しいものを感じていた。


 自分に向けられる視線には、いつもどこか敵意が混じっているように思えた。

 やがて上司Aは、学が女性利用者に問題を起こしたと主張し、学の居宅サービス責任者であるひと丸、そして学の父を事業所に呼びつけた。

 ■ 夜の“話し合い”

 夜、全員が揃うと、上司Aは学に向かって低く唸るような声を出し、

 時折「いかにも」と言いながら詰め寄ってきた。

 その姿は、学には獲物を追い詰める獣のように見えた。

 背筋に冷たいものが走る。

 ——これは話し合いではない。——自分を追い詰めるための場だ。

 そう理解した瞬間、胸の奥が固く縮こまった。

 上司Aは学を嘲笑し、馬鹿にし続けた。


 学は怒りよりも先に、深い無力感を覚えた。

 ——どうして、こんな茶番に自分は巻き込まれているのか。——なぜ、誰も止めないのか。

 その問いは喉まで込み上げたが、声にはならなかった。

 ■ C子の調書

 やがて上司Aは、「問題の女性とC子が話した結果を聞かせる」と言い、

部下のC子に調書を読み上げさせた。

 中年の女性支援員Bは、テーブルに視線を落としたまま動かない。

 C子は震える声で読み上げた。

 「〜という話を……えっ、えっ、したかも……えっ……」


 その内容は、学の無実を示していた。学は胸の奥が一瞬だけ軽くなるのを感じた。

 だが、すぐに別の感情が押し寄せた。

 ……これだけ話を大きくして、皆の時間を奪って、誰も責任を取らないって、どういうこと……

 怒りとも悲しみともつかない感情が、胸の内側で渦を巻いた。

 ■ 空虚な“責め”

 その後、C子が苦し紛れに学のブログの話題を持ち出し、上司Aはそれを責めることで面子を保とうとした。

 学は、その姿を見て、むしろ空虚さを感じた。

 ——この人は、自分の“正しさ”を守るためなら、何でも利用するのか。


 そして最後に、上司Aは言った。

 「Mに行ってはどうか?」

 学は「はい」と答えた。

 その瞬間、胸の奥で何かが静かに折れた。

 ■ 転属、そして別れ

 こうして、「とある事業所M」への転属が決まった。

 学の心中には、無力感と怒りが複雑に絡み合っていた。

 ……建物はきれいだが、中身のないところだな……

 その言葉は、学の心の底から漏れた本音だった。


 その後、学はキョを置いて事業所Bを去った。

 後に、キョもそこを辞めたと聞いたとき、学は胸の奥に小さな痛みを覚えた。

 ——あの場所は、誰にとっても長くはいられない場所だったのかもしれない。

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