第11話 雨女郎
キャリーケースと小さなショルダーバッグを持ち、特急電車に揺られる。座席はほとんど埋め尽くされており、乗降扉の前で立ったまま後ろの座席に背中を預けていた。七月ともなると季節はもうすっかり夏の様相をしており、車窓から覗く青空にはもくもくと力強い雲が美しく浮かんでいる。そんなのどかな景色とは対照的に、優華はこれから待ち受ける出来事を想像し気が滅入りそうになっていた。
昨年の年末頃、優翔から連絡が入り「まだ正式な決定じゃないから前後するかもしれないけど、来年の夏頃に結婚式をしようと思ってる」と告げられた。結婚についてあれほど揉めていた優翔だったが、母との連絡を絶つ決断をしすぐに同棲を始めたのだという。ただ母の思いも少しは汲んでやろうという気持ちで、優翔たちは同棲前にしっかりと婚約を交わしたのち、両家への顔合わせを済ませてから同棲を始めたということだった。優翔は電話でこんなことを言っていた。
「俺もお母さんとのことで心残りがないわけじゃない。だから、最後に結婚式には両親揃って出席してもらおうかなって思ってるんだ」
結局中途半端なお兄ちゃんでごめん、そう優翔は謝罪した。優華も同様、母と兄の間にできた確執はずっと気がかりに感じていた。愛した人と新しい家庭を築き始めていく中で、今後は母とどのような関係性を保っていくのかはまだわからない。が、もしこれが最後の機会になろうとも、結婚式という人生の晴れ舞台には両親も一緒にという優翔の優しさが、優華には本当に嬉しかった。
「お父さんもついてるし、当日は人目もあるからそんなに暴れることはないだろ」と優翔は冗談っぽく笑っていたが、優華は正直不安であった。
結婚式当日。職場仲間や学生時代からの友人たちを少人数招待し、挙式・披露宴共に慎ましく執り行われた。優華が考えていたよりも案外目立ったトラブルは起こらず、新郎新婦の友人たちが終始盛り上げてくれたお陰か、最初から最後まで幸せな空間が続いていた。結婚式においての新郎新婦は主役ともあって休憩時間がほとんどなく、出席者と直接個人的に話をする時間をとるなど不可能に近かった。そのため、母と優翔はその日一日接触することがなかった。唯一、姉の遥華だけは浮かない表情をしていた。
式が終わり自宅に帰ると、自室のベッドにどかっと寝転がり、何事もなく無事に結婚式が終えられたことを安堵していた。疲れで眠気が押し寄せ、うとうとしかけていたその時。コンコン、と誰かが扉をノックする音が聞こえた。
「優ちゃん、ちょっといい?」
遥華だった。「いいよ」と声をかけると、ガチャリと扉が開き顔を覗かせた。部屋に入ると、優華の勉強机の椅子に静かに腰かけた。
「ごめんね、急に」
「大丈夫だけど、どうしたの?」
優華が聞くと、遥華は少し俯き口をつぐんだ。だが決心したように顔を上げ、優華の顔を見た。
「前のこと、謝りたくて」
「前のこと?」
「去年の、ちょうど優翔がお母さんと連絡とらなくなった時」
そこまで言うと、遥華はまた少し俯いた。
去年の十月頃、優華にかかってきた遥華からの電話を思い出した。
「お姉ちゃんね、今日優翔の結婚式見て思ったの。優翔は、何が一番大切なのか、何を一番優先すべきなのかちゃんとわかったんだね。しかもそれをちゃんと優先できる勇気を持った。強くなった」
遥華は寂しそうに小さく笑顔を浮かべた。口元はかろうじて笑顔に見せようとしていたが、その目は今にも泣き出しそうだった。
「お姉ちゃん、大事にしなきゃいけないものを間違えちゃった。なのに、お姉ちゃんは優ちゃんがほんとに大好きで大事な妹なのに、またその大事なものを蔑ろにしちゃうとこだった」
遥華は悲しそうに目に涙を溜めていた。口元ももう笑顔を作ることはできず、何かを堪えるように固く結んでいる。
あの日の電話での遥華の言葉。
〝優ちゃんのこと大好きだけど、優ちゃんが遠くに行っちゃうならもうお姉ちゃん生きてく自信ないや〟
「あんなこと言われたら、優ちゃん困っちゃうよね。優ちゃんは昔から家族思いの優しい子だったから。あの時お姉ちゃん、辛くて思わず優ちゃんにすがるようなことしちゃった」
溜まっていた涙が限界に達し、ぼろぼろと頬を伝って流れていく。ティッシュで目頭を押さえ、鼻をすすっているその姿は、優華の目に痛々しく映っていた。一体どれだけ傷付いてきたのだろう。目を逸らしたくなるような現実を、彼女はいくつ見てきたのだろう。その絶望と後悔は計り知れないものだっただろうと、優華は目頭を熱くした。
「私最初、優翔がお母さんと連絡やめるって優ちゃんから聞いた時、正直ずるいって思ったの。私や優ちゃんを置いてひとりで幸せな方へ逃げるんだって。でも違うよね、あの子は逃げたんじゃない。大事なものを守った、進んだだけ」
遥華の言葉に、優華は深く頷いた。遥華は涙を拭くと、少しだけ笑顔を戻した。
気弱だったはずの弟が、いつの間にか大切な人のために力強く進んで行ける強い大人になっていたことを、遥華はしっかりとわかっていた。そしてそれに対し姉として尊敬の眼差しを向けると同時に、寂しい気持ちを拭えないでいることも優華には伝わっていた。
遥華は少し落ち着くと、優華に問いかけた。
「優ちゃんは、優翔のこと止めなかったの?」
「止めたよ、最初は。でも最後はもう止められなかった」
「どうして?」
そう聞かれ、一瞬言葉に詰まる。
どうしてだろうか。どうしてあの時、もっとしつこく優翔を説得しようとしなかったのだろうか。あの時の、あの言葉。
——本当は、良い関係築きたかったけどなぁ。
母を諦めて初めて、何かを吹っ切ることができた優翔の言葉。
「……止められないよ。だって負った傷は私も同じだから、負った傷は三人とも同じだから。傷の痛みが、苦しみが……よくわかるから、もうこれ以上、耐えてなんて言えない……」
優華の目から涙が零れた。
同じ櫻井家で、あの母の元で育った兄弟三人は、これまで同じ傷を負い、同じ苦悩を味わってきた。仲の良かったはずの家族が離れていく様を何の傷付きもなく見れた者は、三人の中で一人もいなかった。ばらばらになっていく欠片に必死に手を伸ばし、繋ぎ止めておきたい気持ちは三人とも持っていたはずだった。しかし、それと同じくらいその苦しみに共感する心も持っていた。だからこそ、同じ血が分け与えられた兄弟にこれ以上の苦悩を強いることは出来なかった。あの呪縛を吹っ切った声を聞いた上では、尚のことだった。
「……そうだね、その通りだね」
すると遥華は、改めてこちらに向き直り優華の目をしっかりと見据えて言った。
「優ちゃん、これから人生は長いの。優ちゃんにとって一番大事なものは、優ちゃんのこれからの幸せな人生だから」
遥華は優華の手をぎゅっと握った。
「お姉ちゃんは間違えちゃったけど、優ちゃんは間違えないで」
遥華の頬にまた一筋涙が伝う。それでもその表情は穏やかで、優しい笑みを浮かべていた。
「うん、ありがとう」
優華は握る手に力を込め、頷いた。
その夜、強い喉の渇きを感じ、何か飲み物を求めて一階へ降りた。すると、リビングでは母が一人でテレビを見ていた。優華の存在に気が付くと、母は嬉しそうにこちらへ話しかける。
「どうしたの、お腹でも空いたの?」
「ううん、喉渇いただけ」
「そう」
優華は冷蔵庫に向かい、中からオレンジジュースを出すとコップに注いだ。
母はテレビに視線を向けたまま、キッチンにいる優華へ向けて話し始めた。
「にしても今日の結婚式、疲れたわね」
「一日だったからみんな大変だったよね」
「ほんと、あの女見てると疲れちゃうわ」
母は嫌味を込めたような言い方で言う。
「優翔はあんなに頭も良くて優しい子なのに、なんでこうもハズレを引くのかしらねえ。女を見る目だけは昔からないんだから。連絡もぱったり寄越さなくなるし、親不孝もいいとこよ」
母は変わらずテレビを見ている。こちらからは後ろ姿だけで表情は伺えない。一体今どんな顔をして言っているのか。優華はコップを持つ手が震えた。
「向こうの親も何? あんな派手な着物着てお母さんへの当てつけかしら。あの女も電話で散々私に盾ついておいて、よくあんな堂々と結婚式挙げられるわね」
優華の腹の奥がグルグルとうねり始める。一気に熱を帯びていき、腹に居るものが、手で優華の体の中を引っ掻き回すように暴れ狂う。優華は呼吸が浅くなり、過呼吸のような症状が出始めた。
母はそれに気が付くことなく、話を続ける。
「せっかく長い間手塩に掛けて育てても、結局親なんか捨ててろくでもない変な女のとこいっちゃうんだから、世話ないわよ」
腹の中で暴れているものは、体の骨や内臓を這って更に上へと進んで行く。一歩一歩、優華の喉元へと近付いてくる。
まずい、上ってくる。優華は急いで、手に持ったジュースを熱に満ちた体へ流し込もうとした。が、優華は思い直し、その手を止めた。頭の中で、複数の声が再生される。
〝返してやれよ、母親に。これまでされたこと全部武器にして、思ってること全部ぶつけてやれ〟
〝そんなの吐き出してけばいいんだよ。全部俺が受け止めるから、心配いらない〟
〝雨女郎になれ、ゆうか〟
優華はコップを持ったまま、リビングへと早足で戻った。椅子に座っていた母の正面に立つと、コップに入っていたジュースを母に向かってぶちまけた。
「——ちょっと、何するのよ!」
優華の突然の奇行に、母は驚いて椅子から立ち上がった。優華は構わず母の胸倉を掴む。腹を煮えたぎらせていたものはついに喉元へと達し、吐き出すように口から飛び出した。
「優翔は親不孝? 結婚式が当てつけ? ふざけたこと言ってんじゃねえよ」
衝撃のあまり言葉を失う母に顔を近づけ、追い打ちをかけるように言葉を続ける。
「あんたのせいだろ、全部全部あんたのせいだろ! お兄ちゃんがどんな思いであんたを今日結婚式に呼んだかわかってんの? どんな思いであの時連絡絶ったのか、あんた本当にわからないの?」
煮えたぎるマグマがどろどろと絶えず流れ出す。捲し立てるように話し続けるが、マグマが流れ出すスピードが速く追いつけないほどだった。
「私たち家族はあんなに仲良かったはずなのに、あんた一人のせいで全部壊れていった。お姉ちゃんの人生も無茶苦茶にした。あんたの歪んでる愛情のせいで!」
「私がいつ遥華の人生滅茶苦茶にしたって言うのよ! あの子が苦しんでたから守ってあげただけじゃない」
母の胸倉を掴む手に力を込めた。遥華の気持ちも考えず自分の願望だけに忠実になっただけの人間が、守ってあげたなど耳障りの良い綺麗事を宣うなど許さない。
「自分の傍にいつまでも置いておきたかっただけじゃない。あんたはお兄ちゃんにもそうしようとした。でもお兄ちゃんはお母さんより大事なものを選んだ。私だってあんたの思い通りにはならない。私たちはあんたのおもちゃじゃない!」
一気に吐き出した。母は首元が苦しいのか、反論する余裕なく顔を歪めるばかりであった。優華は仕方なく手に込める力を多少緩めてやると、母は軽く咳き込んだ。
「あ、そうそう。旅行も行ってきたから、彼氏と」
優華は母を馬鹿にするように、顔を近付け半笑いでそう言った。いつも母が、私にしてきたように。すると咳き込んでいた母は顔色を変え、怒りに満ちた表情でこちらへ迫る。
「お母さんの許可なくそんな勝手なこと! 許さないわよ、あんな信用できない男といるからこんな勝手なことするのよ」
「勝手なこと言うな! 洸ちゃんのこと何にも知らない癖に! 私だってお母さんのこと絶対許さない!」
胸倉を掴んでいた手を突き飛ばす様に放すと、母は尻餅をついた。母を見下ろし睨みつけると、吐き捨てるように告げた。
「これからはお母さんの言うことなんて聞かないし、何も言わない。私の好きに生きるから」
「そんなこと許さない。お母さん、どこまでも優華のこと追いかけてやるから」
優華は、尻餅をつく母の元に屈み、耳元に近付いた。
腹に残っていた最後の生きた塊がゆっくりと体を上る。それが喉元まで一気に上りきると、優華の中に棲んでいた〝母〟の声が、優華の声に重なる。
「「ダメよ、そんなことしちゃ」」
その恐ろしい声に、母は声にならない悲鳴を上げた。
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