第10話 疼き

 季節は三月になった。少し前に寒さの峠を越えたが、まだ春の温かさには手が届かない。

 大学が春休みに入った優華と洸太郎は、一泊二日で広島・宮島へと足を運んでいた。天気も晴れ、海には日差しが美しく差し込み、海面には光の筋が揺れている。

「あ、あれだね。生で見るとやっぱ綺麗だね~」

 優華の視線の先には、海上に凛々しくそびえたつ厳島神社の大鳥居があった。青々とした空や海の中で、大鳥居の赤がよく映えている。

「めっちゃ綺麗だね。写真撮っとく?」

「うん!」

 神社までの道のりには大勢の観光客が列を成し、周辺の屋台や土産店にも人だかりが出来ていた。二人は神社を一通り見て回ると、洸太郎の提案で近くの屋台や店で食べ歩きをしようということになった。

「牡蠣だって。美味しそう」

「いいね、食べる?」

「あたったりしないかな」

「大丈夫だよ」

 焼き牡蠣の屋台の周囲では人だかりが一層大きくなっていた。牡蠣は広島の名物であるためだろう。屋台の前を通り過ぎる観光客をかき分け、列の最後尾を探すのも一苦労なほどだった。

 二人は牡蠣を注文し受け取ると、再度人の間をぬって近くに設置された簡易ベンチに腰を下ろした。ふう、と息を吐く。

「人やばいね」

「ね。食べたらお土産屋さん見に行こう。食べ物の屋台人多すぎる」

「そうだね」

 人混みが少々苦手な洸太郎は、屋台の前にできた人だかりに目をやり、顔を顰めながら牡蠣にかぶりついている。美味しさが微塵も感じられないような表情を浮かべて「美味しい」と呟く洸太郎に、思わず苦笑してしまう。

「でもほんと、優華がお母さんに黙って旅行行くって言い出したのはびっくりしたよ」

「だって、そうでもしなきゃ行けないと思ったから」

「まあそうなんだけどさ。何か心境の変化でもあったの?」

洸太郎は、遠くを見つめる優華の横顔を見つめて問うた。

 二人の間に暫くの沈黙が流れ、大勢の観光客の話し声だけが聞こえている。周囲は騒がしいはずだが、優華はとても静かな空間にいるようだった。

まるまると太った大きな牡蠣の、最後の一口を口に放り込む。洸太郎は返事を急かすでもなく、ただ黙ったまま優華の顔を見ていた。

 口の中が空になると、優華は視線を遠くに飛ばしたまま話し始めた。

「お店でね、お客さんに言われたの。隠し事は悪いことじゃないって。そんな怯えてないで、もっと図太く生きろって」

「なにそれ」

 洸太郎はふっと笑うと、つられて優華も笑った。いつにもまして、彼の表情は穏やかだった。

「俺、一生優華のお母さんに恨まれるかな~」

「ほんとだね」

 両手を広げ、伸びをしながら冗談っぽく笑う洸太郎を見ていると、醜い感情が全て浄化されるような気さえした。



 食べ物の屋台が並ぶ通りを抜け、今度は土産物屋が並ぶレトロな雰囲気の通りに入っていった。

「わあ、色んなお店があるね。どこに入るか迷っちゃう」

「あ、あそこかわいい雑貨屋さんあるよ。入る?」

 洸太郎が指さした先には可愛らしい食器や小物などが置かれている店があり、お洒落に飾りつけされたその外装は少し離れた場所からでも目立っていた。

「うん、入ろ!」

見た目には些か似つかわしくないようだが、洸太郎は可愛らしい雑貨や小物を見るのが好きだった。二人はその雑貨屋へと歩を進めた。

店内の広さは比較的小さめで、こじんまりとした雰囲気だった。中には食器やハンカチ、流行りのキャラクターものや厳島神社をモチーフにした商品が数多く並べられていた。

店内をゆったりと進みながら商品を見ていると、洸太郎がふとある小物の前で立ち止まった。彼の目の前には、宮島の鹿をイメージした小さな人形のような小物が置かれている。洸太郎はそれを手に取ると、嬉しそうに見つめた。

「かわいいね」

「でしょ? 買おうかな」

「また仲間が増えてくね。いつも買うんだから」

優華は思わず顔が綻ぶ。

洸太郎はいつも旅行する度にその先々で小さな置物を買い、自宅のテレビ台の上を小物だらけにしてしまう。ゆうかにとって可愛らしくて愛おしい彼の癖のひとつであった。

しかしその瞬間、なぜかそれを止めなければという思いが一瞬にして脳内を埋め尽くしていく感覚に陥った。やかんのお湯が沸騰しけたたましく音を鳴らしそれを知らせるように、沸き上がったものが必死に口をついて飛び出そうとする。

「そんなの買ってどうするの?」

「え?」

 思ってもみない言葉に優華の低い声が乗る。その軽い衝撃に顔を引き攣らせた。自分の身体が、一瞬にしてあたかも自分のものではなくなったかのように、優華でさえ自分の次の言葉を推測できない。

「ただの置物だし、どこにでも売ってそうじゃん。何か使えるものでもないんだし」

「まぁ…そうだけど、さっき優華もかわいいって言ったじゃん。気に入ってくれたのかと思ったのに」

「持ってきてるお金も限られて──」

——限られてるんだから、だめよ。

次から次へと、言葉が優華の体内から零れ落ちるようにするすると流れ出していく。

だめよ

零れ落ちる言葉と共に、その言葉も這い出ようとした。が、その寸前で優華ははっとして、ふと視線を洸太郎に向けた。少し寂しそうに目を伏せ、表情を曇らせている。

「そうかもね、ごめんね」

 洸太郎はそう言うと、静かに人形を元の場所に置き直した。彼の少し傷付いたような表情に焦りが募る。

腹の奥底で、どろどろとマグマが這うように動くものを感じる。心地の悪い感覚が襲う。腹の中を焦がす様な熱が暴れる。

タイガの言葉に背中を押され、ようやく決断した広島旅行。洸太郎と共に楽しく幸せな時間を過ごすはずである。が、腹の奥から毒素のような何かが着実に這い上がり、そうはさせまいと今度はゆうかの喉元を熱くする。


そんなもの、どうせ後になったらただのゴミになるに決まってるじゃない

お金が無駄になっちゃうでしょ

買ってはだめよ


優華の体に棲み憑く聞き覚えのある声が少しずつ優華の中を上り、肺に入れたはずの空気をもう一度外へ押し出すようにして優華へ訴えかける。優華と洸太郎の間に境界線などないのだと。確実に、優華の中に〝居る〟のを感じる。

「喉乾いた。お水さっき買ったよね?」

「……え? あ、うん、あるよ」

洸太郎が差し出したペットボトルを強引に受け取ると、慌ててキャップを剥ぎ取り口へと運んだ。湧き上がったものをもう一度腹の底へ抑え込むように水をごくごくと流し込む。さっき買ったばかりでまだ冷えている水が、体内に帯びた熱を冷やすようにして伝うのがわかった。強い力できゅっとペットボトルの蓋を締める。

「それさ、テレビ台に置くんだよね?」

「あぁ、うん。そうだけど」

「かわいいね。残りのお金は大丈夫?」

「うん、全然大丈夫だよ」

「なんだ、そうだったんだ。それなら買おうよ、かわいいし!」

優華の二転三転する態度を目の当たりにし、洸太郎は一瞬ぽかんと放心したような表情になっている。当然だろう。優華でさえも戸惑い、〝自分〟を抑えるのに精一杯なのである。

「……いいの? 買っても」

「うん、洸ちゃんのお金で買うんだし好きな物買っていいよ。変なこと急に言ってごめんね」

 必死に不細工な笑顔を作った。洸太郎はまだ少し戸惑っていたもの気を取り直し、人形を持つとレジの方へと向かって行った。その背中を見送りながら、優華はまずい、と思った。洸太郎にこのような言動をしたことはこれまで一度もなかったと記憶している。徐々に体が侵食されていくのを確実に感じていた。



 旅行から戻ると、二人は洸太郎のアパートへと帰った。時刻は二十二時を回ろうとしていた。部屋に入ると一気に疲れが押し寄せ、数分でも目を瞑ればすぐに寝入ってしまいそうなほどだった。

 部屋には二人分のキャリーケースが雑に広げられ、土産を入れたビニール袋が複数床や机に置かれていた。かなり散らかっている状態ではあるものの、それらを整理する気力も体力も残っておらず、優華はただ冷えた体を潜るようにこたつにねじ込んでいた。一方洸太郎はというと、土産の袋の中身を確認し、誰に渡すものなのか付箋を貼りながら仕分けている。

 すると洸太郎は、ビニール袋の中から小さな紙袋を取り出し、そこからまた小さな箱を取り出した。箱を開けると、あの雑貨屋で購入した鹿の人形の小物が入っていた。洸太郎はそれを見るなり嬉しそうに目を細め、テレビ台の上へ新たに並べた。

「仲間がまた増えた」

 そう呟く洸太郎に、優華がぎゅっと心臓を掴まれたような感覚になった。あの光景を思い出す。

 優華は残された僅かな力でこたつから這い出て座り直すと、テレビ台の上を見た。


一緒に行った水族館で買ったイルカの置物

デートで行ったショッピングモールで回したガチャガチャの景品

二人でとったクレーンゲームの景品

初めての旅行、宮島で買った鹿の人形


 一目見るだけで、楽しかった光景が一瞬にして蘇るものばかりだった。優華は自分の腹をさすった。これからの人生、こんなにも楽しい思い出を、優華は潰していってしまうのかもしれない。いつしか沸き上がるものに抗うことが出来なくなり、いつ現れるのかに毎日怯えながら、洸太郎の思いを無下にし、傷付けていくのかもしれない。大切なものを失い、大切な人を傷付けていく。

 気が付くと、涙が絶えず溢れ出していた。

「……優華? どうしたの、何で泣いてるの」

 洸太郎は驚いて優華の元へ駆け寄った。何が何だかわからないまま、涙を拭き、背中をさする。

「洸ちゃんごめん……ごめんなさい」

「何で謝るの? 何にもしてないじゃん」

「あの時、私自分じゃなくなる気がした。洸ちゃん傷付けようとした」

 涙でうまく話が出来ない。纏まらない気持ちにぐちゃぐちゃな涙声を乗せ、伝わるかどうかも気にしないまま言葉を続けた。

「どんどん自分が、お母さんみたいになってくのが怖いの……。私の中にお母さんがいるの、それがどんどん大きくなってどんどん……飲み込まれてくの、私の中に私がいなくなる、私じゃなくなる」

 捲し立てるように言葉を並べていく。

「このままじゃ、洸ちゃん傷つける。今日みたいなことじゃ全然済まなくなる。それだけは嫌なの、洸ちゃん不幸にしたくない」

 優華は手で顔を覆い、まるで子どものように声を上げて泣いた。こんな醜い顔を、洸太郎にだけは見られたくなかった。

優華の体には母の血が通い、母の言葉が溶けている。優華の中には、確実に母が生きている。母の生きた痕をゆっくりと辿って行くように、同じような道を進み、やがて〝母〟になっていく。

 洸太郎は静かに、そっと優華を抱き締めた。腕の中、じんわりと温かな体温が広がり、優華の身体にも伝わっていく。

「卒業したら、地元に帰ろうと思う」

洸太郎はそう告げた。

終わりだ、ここでお別れだ。洸ちゃんのためにも、それが一番いい選択なんだ。こんなバケモノと一緒にいて不幸になるくらいなら。束の間の夢でも、幸せな時間を過ごすことが出来て嬉しかった。

 そんな思いを込めて、彼の言葉にゆっくりと頷いた。

「優華を連れて行きたい」

 優華は恐る恐る顔を上げ、洸太郎の顔を見た。まっすぐにこちらを見据えるその目は、吸い込まれそうなほどどこまでも澄んでいる。予想だにしなかった言葉に、体の動きがぴたりと止まる。

「——え?」

「一緒に行こうよ」

「こんなのと一緒にいたら洸ちゃんどんどん不幸になってくよ。嫌な思いいっぱいする」

 優華は洸太郎の腕を解き彼から離れようとするが、洸太郎は構わず更に強い力で抱き締めた。

「そんなの吐き出してけばいいんだよ。大きくなる前に嫌なもの吐き出し続けて、なくなるまでそれを繰り返したらいい。全部俺が受け止めるから、心配いらない」

 洸太郎の言葉に抵抗する力が少しずつ弱まり、また涙が止まらなくなった。

沸き上がってくるものを、その度にいつまでも飲み込んでいては、それを繰り返しているようではだめだった。前に進まねばならなかった。その強さを、勇気を持たねばならなかった。

吐き出さなければならない。強くならなければならない。雨女郎のように。

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