ねぇ、馬鹿なの…?

 朝陽が登り、辺りに心地良い微風が広がっていくようにそよそよと吹いていた。

 なんと心地良い風だろうか?かつてこれほど心地良い風を感じたことがない。

 その瞬間、伊都いとはそう思った。


 真正面には、満面の笑みを浮かべた鼓笙こしょうが立っている。思わず駆け寄って抱きしめたい衝動に駆られたが、伊都はその気持ちを抑えた。

 「戻ってきたの?」と、ぽつりと鼓笙が聞いた。

 しかし、伊都は鼓笙のその問いに答えなかった。いや、答えられなかったのだ。


 一瞬の出来事だった。あまりにも一瞬の出来事だったので、かいの術が解かれたことに気づかなかった。だが、遠くに見えていた鼓笙が、すぐ傍にいた。そして、その声は薄皮一枚を隔てた雑音がきれいになくなっている。

 確かに戻って来た。

 しかし、伊都には、何故戻れたのかよく分からなかった。


 「母様…?何故だ。何故、槍を拾って鼓笙を刺さないのだ?」と、かいの声が聞こえた。

 それは、身体の内側で響く不快な声ではない。生の声だ。


 戒の呪縛から解き放されたのだ。

 伊都は、その時、はっきりと理解した。


 伊都はゆっくりと、左側にいる隆鷗を見た。隆鷗は、きょとんとした表情でじっと伊都を見ている。伊都は思わず微笑した。そして、右側で刀を構えていた寿院を見た。寿院は心配そうな表情で伊都を見ていた。やはり伊都は微笑した。

 すると、寿院と隆鷗は、ふたり同時に肩を撫で下ろし、ふうーっと深いため息をついた。

 「よく分からないのですが、私を解放して下さったのですね」と、伊都はぽつりと呟いた。


 そして、伊都は、振り返ることもなく、声を張り上げて言った。

 「戒、あなたに言う。そうね。あなたの、その術はすごいと思う。人を操ってしまうのだから。だけど、人を操るほど、すごい術を持っているのに、あなたはいつもいつも臆病なのよね。あなたが強気でいられるのは、自分の支配下においている者にだけ。でも、支配が及ばない人には、自分の先行きに不安を覚え、いつもコソコソと盗み聞きをして、自分の立場を確認している。あなたは、いったい何を恐れているのかしら。私たちの元にやって来たのは、勿論あなたの意思ではない。あなたは誰かに命じられてここにやって来たのでしょう。だからいつも不安に慄いていた。あなたの術、すごいけど、でも、わたしは冷静にあなたのことをずっと見ることができた。あなたに全てを支配されていたわけではないわ」


 伊都の言葉には力があった。


 戒は震えていた。立場がすぐに逆転することが分かっていた。それは、伊都と詩束との別れも意味していた。


 「母様!母様!」戒は叫んだ。「何故だ!何故だ!」

 戒は、子供のように両手を伸ばして、伊都を追いかけて、思わず引戸から出てしまった。

 その手を寿院が掴んだ。

 「君が戒だね」と、寿院が尋ねる。

 「どいて、私は母様に用があるの。あんた誰よ」と、戒が叫んだ。

 「わたしは寿院だ」

 寿院は、戒を見ていた。

 「お前かーーー!」

 戒が咄嗟に寿院を見た。

 その時、思い切り目が合った。


 「えぇぇぇ…!ば、馬鹿なの?」

 それを見ていた隆鷗は思わず叫んだ。


 寿院の身体が仰反る。次の瞬間、寿院の顔つきが変わった。意思のないほうけた顔だ。


 隆鷗は、瞬時に寿院に駆け寄った。

 寿院の眼孔から、一斉に細い腕が出てきて、瞬時に四肢を掴んだ。

 隆鷗は、寿院に預けた青斬刀を奪おうとしたが、失敗した。

 戒の高笑いが聞こえる。

 「ふふふ…自ら縛られた」


 隆鷗は、寿院の四肢を掴む細い腕を無造作に掴み引っこ抜いた。それを繰り返すと、戒が寿院に命じた。


 「お前は見えているのだな。何もかもお前が悪いのだな。じゅいん、そいつを、その刀で斬り刻め!」

 隆鷗は、戒の言葉に反応して、刀を避けるために後ろに飛んだ。

 青斬刀は、人の肉体は斬れないが、力尽くで叩かれると、無事ではいられない。

 寿院が青斬刀を振り上げて、隆鷗にゆっくりと歩み寄る。隆鷗は後退る。

 「何考えているんだよ。やめろよ」と、隆鷗が言う。だが聞こえていないのが分かる。


 呆気に取られた鼓笙は、ただ見ていることしかできない。

 「鼓笙様、危ないから母上様と家に入ってて」と、隆鷗は叫んだ。

 「隆鷗様、大丈夫ですか?」と、鼓笙が心配気に尋ねた。

 「分からないよ。寿院の馬鹿!バカ!バーカ!」叫んでみても、寿院は無表情だ。


 「ふふふ…。いつまで逃げていられるかな?」と、戒が言う。

 隆鷗は、チラッと戒を見た。

 戒の両目は真っ黒だった。


 「じゅいん、斬り刻めないのなら、そいつを抑え込め」と、戒が言う。

 「なんだお前、さっきまで母様母様とめそめそしていたくせに…」と、隆鷗は罵った。

 「うるさいうるさい。お前たちが悪いのだ。よくも私の家族を壊してくれたな」と、戒が怒鳴る。

 「へぇぇ、お前はただ操って、面白がってただけだろう。家族とか言うんだ。笑っちゃうよ」

 「うるさい!じゅいん、何しているんだ。抑え込め!」

 戒の言葉に寿院が動く。後退る隆鷗の胸ぐらを掴んで、背負い投げをした。

 「寿院のばーか。ぶっ殺す。ぶっ殺す。殺す。絶対殺す」

 隆鷗が必死に叫ぶ。

 地面に倒れてしまった隆鷗の胸ぐらを再び掴んだ寿院は、軽々と上体を起こして、詩束の時よりも激しい羽交締めにした。

 寿院の力は想像以上に強かった。隆鷗はびくりとも動かない。

 戒がどんどん迫ってきた。

 真っ黒い眼孔は深い穴だ。奥深くから外へと移動しているみたいにうねっている。そして、奥深くから、透明な紐のようなものが次々と飛び出してきた。


 これが細い腕となる、呪いの気…。

 隆鷗は、次々と飛んでくるそれを、首と顔で器用に避けた。しかし、羽交締めにされた隆鷗の動きも次第に鈍くなっていく。遂には、眼孔の中へそれが入っていった。


 幾本もの細い紐は、まるで体内を旋回しているように感じる。やがて身体のなかでそれが増えていく。そして、目ん玉がうずうずすると、皮を突き破るように勢いよく紐が溢れ出て、細い腕に変化して、四肢を掴まれた。

 

 これは、苞寿が言う現象というものだろうか?そう言えば、戒に憑いている悪霊はいない。ただ、眼孔の深い穴は、麓の屋敷の悪霊と闘った時の鬼の人形の中にあった深い穴とよく似ていた。

 穴…?

 この世には、まだ自分の知らないことが沢山ある。と、隆鷗は思った。


 隆鷗は、四肢を掴まれても、まだ、自分の目で今の状況を見ることができるのに驚いた。だが、感覚はすごく鈍っていた。そして身体は勿論思い通りには動かない。


 寿院とともに戒の支配下だ。なんと情け無い状況だろうか。

 隆鷗は、自分の身体の中で叫んだ。

 「寿院のばーか、ばーか、ばーか!ぶっ殺す!」


 やがて、身体の内側で、不快な雑音が入り混じった戒の声が聞こえた。

 「お前は、立ち上がってそこにじっとしているのだ。そして、じゅいんは、その刀を拾って、そいつを思い切り斬れ!私の術を解く者がこの世に存在していいはずがない!」


 戒の、その声が合図となり、細い腕が一斉に動いた。自分の意思とは関係なく勝手に動き出す四肢。

 隆鷗は、立ち上がり、自分の目で、寿院が青斬刀を拾い上げ、振り上げる様子を見ていた。

 「ばーか、ばーか」と叫ぶ隆鷗もだんだん力が抜けていく。「絶対ぶっ殺す…」

 寿院が青斬刀を振りかぶると、勢いよく、隆鷗を何度も殴った。

 痛みはなかった。だが、痛みがないのも恐ろしい。

 寿院の肩が波打っていた。


 その時、伊都が素早く、戒に歩み寄り、戒の両の眼孔に布切れを巻きつけた。

 「もう、いい加減にしなさい。そんな虚しいことはやめなさい。人を操って何が楽しいの。いつもいつも退屈していたくせに、そんなことをしたら、もっともっと虚しくて、もっともっとつまらない退屈が続いていくだけなのよ。あんたは馬鹿だからそんなことも理解できないのよ」

 「母様、やめろ、離せ!これではじゅいんに命令できないだろう」と、戒が叫んだ。「じゅいん、とどめを刺せ」


 寿院が再び動き出す。

 何度も殴られた隆鷗は、痛みはなかったが、衝撃で倒れていた。身体を見ると傷だらけだ。

 寿院が青斬刀を隆鷗に突き刺そうとした。その時、隆鷗が両足を寿院の足に絡めた。寿院は、あっという間に平衡感覚を失い、その場に倒れた。隆鷗はすぐに立ち上がって、青斬刀を奪い取った。


 そして、目隠しされた戒に歩み寄った。

 「母上様はすごいなぁ」と、隆鷗が言う。

 伊都は、戒の目を布切れで巻きつけしっかりと結んだあと、抵抗されようと、ずっと戒を抑えるように抱きしめていた。


 「お前、わたしの術を自分で解いたのか?」と、戒が悔しそうに言う。

 「だからどうした?お前の軟弱な術など虫が飛んできたほどの威力しかないから」と、吐き捨てるように隆鷗は言った。

 「なんだと、もういっぺん言ってみろ!」と、戒が怒鳴る。

 「虫が飛んできたほどの威力…」

 「言うな!」

 「君が言えと…」

 「じゅいん、何している。こいつを殺せ!」

 えーと、面倒くさいやつがまだいた。と、隆鷗は、振り返って寿院に向かって青斬刀を構えた。


 青斬刀で精一杯二、三回殴れば、戒が放った術の気も綺麗に消滅するだろう。

 ついさっき青斬刀で寿院に殴られた時に解った。

 腕を斬らずとも、青斬刀で身体を殴れば、身体の邪気は浄化される。どんなに威力のある呪術であろうと、それが悪気であれば浄化されるに違いない。だから隆鷗は寿院から数回青斬刀で殴られた瞬間に術から解放されていたのだ。


 しかし、寿院は、ぼーうっと突っ立ったまま、ただ首を傾げていた。

 「何をしているのだろう?」と、隆鷗は不思議に思った。

 「何をしている!早くそいつを殺せ!」と、戒が怒鳴る。

 戒の言葉に寿院はキョロキョロしているだけだった。

 「もしかして?誰を殺していいのか分からないのでは…?」と、隆鷗は戒に言った。

 「そんな馬鹿なことがあるか…!寿院、そいつを殺せ!」と、戒が怒鳴る。

 寿院が首を傾げる。

 「やっぱ、分かっていないんだよ」と、隆鷗は言った。

 「えっ?だってさっきもそいつを思い切り斬れって命じた時は何回もお前のことを斬った…」

 「ああ、そうだったね。でもあの時、君、わたしを指差して、分かりやすく命じていたからだよ。でも今はわたしを指差せないね」と、隆鷗は戒の顔のすぐ前で言った。

 「お前、今わたしの目の前にいるのか?だったらわたしの目の前にいる者を殺せと命じればじゅいんがお前を殺す」

 「なんか面倒くさいなぁ…。って言うか、君、わたしの名前忘れたの?名前を言って命じればいいじゃないか?」と、呆れたように隆鷗が言う。

 「ああ…」

 「…って言うか、寿院が襲って来ようと、わたしは一瞬で術を解くだろう…とかって言う想像はできないの?」

 「ええっ…?」

 「そんなの当たり前でしょう。わたしは君に術を掛けられてもすぐに解いたんだよ。寿院の術くらいすぐ解くに決まっている。ただ面白いから放っているだけだ。それに君、今、これまで術で操っていた母上様に目隠しされて拘束されているんだよ。そんな状況で自分が有利だと思っているのかな?」

 「うるさいうるさい…母様、母様、こいつを殴ってよ」と、戒が泣き出した。

 「おーう、母上様…、わたしを殴りますか?」

 「いえ、殴らないけれど、もう勘弁してあげたらどうかしら」

 「ええっ?母上様はずっとこのに縛られて操られていたんでしょう。ずっと理不尽なこととか、嫌なこととか、召使いがするようなこととか、あんなことやこんなことを無理やりやらされていたんでしょう。はらわた煮えくり返っていますよね。わたしが今ここで仕返ししてあげますよ。命取るまではなくとも、もう二度と人に命令できないように喋れなくしてやってもいいですよ」と、隆鷗は言った。

 伊都が一瞬黙る。

 「そうね…。詩束の腕を傷つけたことは許せないわ。喋れなくするより、このの目は危険。例えば、このが望まなくとも、目が合えば術に掛かってしまうのよ。なんだかこのにとっても不幸なことのような気がするわ。戒、あなたは本当にそんなこと望んでいるの?」

 目隠しをされた戒が俯く。

 「そんなこと分からない。皆んな私の言うことを聞くんだもの。わたしに逆らうなんてあり得ないことでしょう」と、恐る恐る口を開いた。

 「そうよね。誰もあなたには逆らえなかったのよね。仕方なかったのよね。あなたは仕方なくその能力を受け入れたのよね」と、伊都は問うた。


 「そうなのか?君は仕方なくその能力を受け入れたのか?そんな能力、迷惑でしかなかったのに、あるものは仕方ないよな」と、隆鷗は言った。「誰だって心を許せる友のひとりやふたりいるけど、君はその能力で沢山の友を得ることができるんだよな。こんなわたしでさえ、やっと友ができたけど、友を作るのは難しかったよ。やっと心を許せる友ができた時、どんなに安堵したものか。すごく暖かい気持ちになった。だけど君はなんの努力をしなくとも友ができるなんて羨ましいよ」

 「そうだよ。友なんですぐにできる…よ。命じればいいだけだもの」と、戒が言った。

 「へぇ…。君の友は何処にいるんだ?」

 戒は、言葉に詰まった。そして首を傾げると、戒が言った。

 「えーと…。友ってなんだっけ?詩束…?詩束は姉様だ。友…?あれっ?友ってなんだっけ?…って言うか…友なんてものいったい何処にいるのだ?そんなもの…見たことない…」

 「見たことないのか…?それは可哀想だ。友という存在を知らないなんて。わたしには友がいた。もう会えなくなったけど。いつもいつも面倒くさいこと言ってくるけど…そうだ馬鹿にしてくるし、意地悪なこともされた…」

 「えっ?なんだそんなやつが…友なのか?」

 「だけど、一緒にいるとほっとするし、楽しいんだ。喧嘩もするけれど、でも離れ難く…。もう会えなくなるなんて…」

 「なんだ、それは…友なんて…いない方がいいではないか?」

 「いない方がいいなんて…。言うな。わたしは今、会えなくなって…どんなに寂しいか?心の一部が欠けてしまったようだ…」

 「なんだ!それは…妖怪なのか?」


 「君は…想像力が無さすぎる…母上様、このをどうしたいですか?わたしだったら、もしかして、このの能力の元を塞ぐことができるかもしれない…」

 「能力の元…?まさか目を…?それは…ちょっと」と、伊都の目が怯えた。

 「いえいえ…目を潰すとかではないです。穴を塞ぐ…ああ、でもやったことないから…」


 そこに、家の中で詩束の左腕の傷を見ていた鼓笙が様子を見に表に出て来た。そして、寿院の、何とも不思議な行動を見て、唖然とした。

 隆鷗は、そんな寿院をまったく無視して、戒を抑え込んだままの伊都と話し込んでいる。

 「あの…。隆鷗様」と、鼓笙は話しに割って入った。

 「鼓笙様、すみません。もう少し待ってて下さい。今、この戒をどうするか、母上様と話しているところです」と、隆鷗が言う。

 「勝手に私のことを話すな」と、戒が怒鳴る。

 「君は、自分の先行きが不安でいつも盗み聞きしていたんだろう。だから目の前で話している。心配しなくても君の意見もちゃんと聞くから」と、隆鷗が言った。

 「えっ?私の意見も聞くのか?」目隠しをされながらも戒が驚いた顔をしたことが分かった。


 「いえ、隆鷗様…。あの…寿院様は何をされているのでしょう?」と、鼓笙が不思議そうに尋ねる。


 寿院は、くるくる周囲を回りながら、咄嗟に構えたかと思えば、再び歩き出し、構える。そんなことを延々と繰り返している。

 何をしているのだろうか。と、鼓笙は思ったが、何とも滑稽。笑うのはやはり不謹慎だろうか?とも思っていた。


 「あっ…。忘れてた。ねぇ、そろそろ寿院の術を解いてくれない?これはお願いではないよ。今の自分の立場で君に否定する勇気はないだろう?」隆鷗は強気で言った。

 「わっ?さっきの話が台無しだ…」と、伊都が呟く。

 「それはわたしのせいではない。あの馬鹿のせいだ」と、隆鷗はそっぽを向いた。

 「子供か?ああ、子供だった」と、伊都が呆れる。

 「いいから…!あの馬鹿の術を解け!」と、隆鷗が脅した。

 強気な隆鷗の言葉に戒は突然泣き出した。

 「できないよ。術は解けない…。ごめんなさい。ごめんなさい…術を解く術を知らない…」

 戒の言葉に皆驚いた。

 「自分の術なのに解けないの?」と、伊都が言う。

 「これはまた…」と、鼓笙が冷静に受け止める。

 「ーーーびっくりした。一瞬息が止まった」と、隆鷗。


 「まったく面倒くさいなぁ」そう言うと、隆鷗は、素早く青斬刀を構えると、バンバン寿院を殴りつけた。

 「痛いよ…隆鷗君。もうとっくに術は解けているよ」と、寿院は防御の構えをしていた。

 「まったくおっさんときたら、わたしが分からないとでも思ってるんですかね?わざとでしょう。わざと術にかかりましたよね。まったく好奇心お化けだ」と、隆鷗はそっけなく言った。

 「好奇心お化け…?何だその子供を脅かすような、幼稚な名は…」と、寿院が笑う。「話は、なんか妙な舞を舞っている時に全て聞かせてもらった。戒とやら、お前はわたしのところに来なさい!」


 「えぇぇぇっ!本当に…本当に、寿院…って、馬鹿なの?ねぇ、馬鹿なの…?」と、隆鷗が呆れたように怒鳴った。

 「うるさいよ!馬鹿馬鹿言うなよ」と、寿院が嬉しそうに言う。


 「本当の馬鹿だ」と、隆鷗は呆れた。「寿院が戒の腕を掴んだ時、わざとのように顔を寄せて戒を見ていたから解ったよ。あっ…これはわざと術にかかるつもりだってね」

 「だって、ほら、わたしには隆鷗君がついているし…。術にかかることで敵のことだって解るでしょう」と、寿院はにこにこして言う。「それに青斬刀の本当の威力だって解ったでしょう。青斬刀の威力はすごいよね。安全なところに引っ込んでいたって何も解らないでしょっ」

 得意気な寿院に隆鷗は言葉を失う。


 「戒、お前、これまでに幾人のひとにその術を掛けたのだ?」と、厳しい口調で寿院が尋ねる。

 「分からない」と、戒が答える。

 「分からないほど掛けているのか?そして、掛けっぱなしなのだろう。なぁ、隆鷗君、掛けっぱなしにされていたしの婆様はどんな様子だった?」

 寿院の言葉に隆鷗はハッとする。

 「しの婆様、すごく苦しんでいたと思う。意識を保ちながら、戒の細い腕が、しの婆様の四肢をずっと抑えていた。しの婆様にとって気が遠くなるほどの長い日々動くことも出来ず、絶望と苦悩の毎日を過ごしていた。婆様の目の下は涙が枯れて黒ずんでいた…その苦痛と苦悩をわたしは想像できない」と、隆鷗が言った。


 「戒とやら…お前にそんな苦悩が分かるのか?お前は自分の罪深さに向き合っていかなければならない。これまでお前の術によって苦しんでいる人々を一人残らず解放するのだ!」と、寿院が厳しい口調で言った。


 戒は、伊都の胸の中で泣き叫ぶ。

 「そんなこと言われても分からないよ…どうしろって言うんだ」

 「だからわたしの家に来いと言っている。隆鷗が一人残らず、これまでお前が術をかけた人を解き放つ!わたしの言っていることが分かるか?」

 「いやだ。いやだ。そんなのいやだ。お前の家に行かない。絶対行かない…」

 戒は幼い駄々っ子のように泣き叫んだ。

 「泣かないで…。泣いたって、あなたのしたことは何一つ消えないのよ。罪を償うの。まず術を解くことから始めるのよ。戒、もう、ここにあなたを置くことはできないの。あなたにはもう帰る場所はないのよ」と、伊都が言う。その時には抱きしめていた戒を離していた。戒は、自分で目隠しの布切れの結び目を不器用にほどいた。

 戒は俯いた。

 「もう、ここにはいられないのね。私、失敗したのね」と、戒がぽつりと呟く。

 「失敗…?失敗とはどう言う意味だ?」と、寿院が尋ねる。しかし、戒は俯いて黙ったままだった。


 誰かに命じられて戒はここにいる。貴族を相手に白拍子を舞う家族の元にいる戒を使って誰かが何かを企んでいる。

 戒の後ろに誰がいるのか…?

 隆鷗は、寿院の言う意味を考えていた。


 「戒よ。お前は誰にも従う必要はないのだ。お前はお前なのだよ」と、寿院が言う。「ここにいられなくとも、お前自身が帰る場所を選ぶのだ。お前を利用する者の元へ帰る必要はないよ」

 戒はまだ俯いていた。

 「分からない。あの者たちは…私に優しい…」

 「だけど、お前に命じ、そして、しの婆様のような者や伊都さん、詩束さんみたいな、不幸な者たちを次々と増やしていく。帰る場所はお前が選ぶといい。だが、今度隆鷗君やわたしに会った時は容赦しない。隆鷗君はおそらくお前を始末してその呪術を封印する」

 「始末…封印…だと…そんなことができるはずない」

 「隆鷗君を舐めるなよ。隆鷗君をそこいら辺の呪術師と同じだと思うなよ。本物だからね」

 何故か、戒は、そんな寿院の言葉を恐れて黙って寿院に従った。


 「終わったわね」と、伊都が言った。「長かったわ。私は詩束しづかを傷つけ、そしてこれまでずっとうたを傷つけた。うたは影で泣いたり、もどしたりしていたのを見てもなにも声をかけてあげられなかった。本当に苦しかった。何度自害しようと思ったかしれない。でも、誰よりも譜は強かった。最後に詩束が傷つけられることを恐れたけれど、私は譜が強くなっていくのが本当に嬉しかった。譜は鼓笙様の屋敷にいるのでしょう?」と、伊都が言った。

 「ええ、今日の団欒を楽しみにしているよ。すぐに呼んでくるから」と、鼓笙が言う。

 伊都は、ほっとすると、涙が溢れて止まらなかった。何気ない日常に潜んでいる不幸ほど恐ろしいものはないのかもしれない。

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