盗み聞き

 その日は、板戸が外側へ開け放たれていて、稽古場には陽射しが差し込んでいた。

 かつて、詩束しづかが舞い、うたの笑い声が響いていた活気溢れる稽古場は、今はもうすっかり寂れてしまった。

 この家はすっかり、あの子供に支配されていた。この家ばかりではなく屋主の女将までもたらし込んで、この長屋の全てがあの子供のものだ。


 しかし、あんな子供が家ごと支配できるものだろうか?


 伊都いとは、ずっと自分の状態の不可解な行動をひとつひとつ考えた。始めの頃は、そこまで真剣に考えなかった。しかし、自分が自分の思いとまったく違う行動を取っていることを理解した時に始めて、気がつくのに時間がかかったことに驚いてしまった。

 だから暫くあの子供の企てに気が付かなかったのだ。


 伊都は、薄皮一枚、身体の奥に閉じ込められているような感覚があった。薄皮の外側に自分の思い通りにならない傀儡くぐつがいる。だからいつも現実の光景が歪むこともなく見えていた。自分の思い通りにならない自分の行動に自責の念を抱いていたが、ある日、それが外から受けている何らかの力ではないかと疑念を抱いた。

 そして、自分があの子供の言うことしか聞いていないことに気が付いた。

 伊都が、あの子供の言うことを、まず聞く筈がなかった。なのに、行動の全てがあの子供に向いている。あからさまに。

 伊都は、自分の行動の全てを意識付けた。しかし、何もできないことを知った。だとしたら、これは外からの影響を大きく受けているしかない。と、結論せざるを得なかった。


 それに気が付いた時、強烈な苛立ちを覚えた。やがて、苛立ちを通り越して深い怒りを覚え始める。そして、苦悩が襲ってくる。

 傀儡くぐつの自分は、深く詩束と譜を傷つける。詩束と譜を蔑ろにしている自分を薄皮一枚の内側でずっと見ていた。


 しかし、ある日詩束の変化に気がついた。


 暫く伊都は詩束を蔑ろにして、あの子供の稽古ばかりを見ていた。勿論子供の白拍子にはほんの僅かでも興味はなかった。

 なのに詩束を無視して子供の舞いを丁寧に教えている。

 ひどい舞いだ。

 ひとの心の機微も情緒も何も理解できていない、見せかけだけの動きで舞を舞う。

 何故、こんな子供の舞ばかり見ているのだろう?などと、もう自分に問いかけたりはしない。


 あの子供が傀儡くぐつをあやつっているからだ。

 伊都は理解した。


 伊都の苦悩はただひとつ。詩束しづかと、うたのことだけだ。


 舞に対して誇り高い詩束の心をずたずたに引き裂いていた。この自分の手で…。


 詩束が、伊都に対して、これまでにない怒りや憎しみを向ける一方で一心に愛情を求めているのが痛いほど分かった。

 気が強いのは、芯が強いからだ。何事も真剣に取り組んで、一生懸命だった。白拍子の舞も飲み込みが早く、すぐに舞い手として上達した。今では都でも評判の舞い手だ。詩束はいつも輝いていた。伊都に激しい怒りや恨みをぶつけているうちはまだ何処かで安心できた。しかし、詩束の意識が伊都に向かなくなった。そして、突然輝きが消えていることに気がついた。


 あゝ、詩束もまた薄皮の内側に閉じ込められてしまったのだ。

 しかし、詩束は、まだ子供だ。伊都みたいに自分に起こっていることが明確には理解できないだろう。


 そして…。

 誰よりも母に甘えたいはずの譜がたったひとりきりになってしまった。


 しかし、何もしてやることができない…。


 それでも伊都は、目を逸らさずにずっと見ていた。


 あの子供は、いったい何なのか?果たして“ひと”なのか?

 子供相手に何もできない。あれが普通の子供であるならばだ。並の人間にこんなことができるはずがない。


 あの子供は“ひと”の皮を被った『怪物』だ。

 薄皮一枚の外側の傀儡を操っているあの『怪物』は、おそらく操られる相手も気が付かずにいつのまにか“ひと”の内側に潜むのだ。

 あの『怪物』の声は、耳を塞ぎたくなるほどひどく籠っていて、頭を突き抜けるほど不快な音だ。これまでに一度も感じたことのないひどい振動が伝わってきて、その度に頭痛と嘔吐を催す。


 こんなふうに、詩束も自分が操られていると気が付かないうちに、見たくもない現実の光景を見せられているのだろうか?壊れてしまわなければよいが。


 譜もひどく憔悴して、いつも稽古場の神様の前で泣いていることを知っていた。時折声をかけてくるが、傀儡の伊都には譜の声が聞こえないのだろうか?あのひどい不快な子供の声しか聞いていない。

 『怪物』に操られた伊都が譜を無視する。無視される譜が深く傷つく。

 『怪物』に操られた伊都が冷酷に譜を皮肉る。

 譜が隠れて嘔吐している姿を伊都は、幾度となく見かけた。おそらく譜はもう限界だろう。と、伊都の心も壊れかける。


 いっそのこと死んでしまいたい…。


 しかしある日、譜があの子供の前に立ちはだかった。ひどく怒っていた。


 「お前は、いったい何なのだ?私から母を奪い、そしてお姉ちゃんを奪った。それだけでは飽き足らず始めての友達を殺した。私の目の前で殺した。何故、手鞠ちゃんを殺した」と、譜は怒鳴った。

 あの子供は、呆気に取られて、暫く黙り込んだ。

 「お前は何を言っている?」と、子供は首を傾げた。「…て言うか、お前が私のことをお前と言うな」

 「黙れ黙れ。私はもう泣かない!手鞠ちゃんを殺した報いを受けさせてやる」譜は怯まない。

 「お前の言っていることがさっぱり分からないなぁ。今まで何処かに出かけていたようだが何があったのだ?何か変なモノでも食ったか?ふふふ…それとも狐にでも化かされたのかな…」と、子供が言う。

 「狐に化かされた?」譜は笑った。「そうだな。本当だ。狐に化かされていたのか。そうか、それだったらすごく納得できる。お前は九尾の狐。伯母様から聞いたことがあるわ。玉藻前の話しを。作り話だと思ったけど、本当の話しだったのね。それが今お前に取り憑いているのか?」と、譜が食い下がった。

 子供が大声で笑った。

 「なんだ?お前は本当に幼い子供だな」と、まだ笑っている。「玉藻前だと…ははは…九尾の狐だ?…お前は…ただのバカだ。まったく…ふふふ…そうだと言ったら…?もう、お前には何もできないな…ふふふ。この家は私のものだ。お前、もうこの家を出ていくといい。あの、何て言ったかな?鼓笙こしょうかな。おのバカな貴族の使用人でもなったらどうだ…ふふふ…鼓笙の屋敷には大勢の使用人がいた。お前を喜んで受け入れてくれる」

 譜が真っ直ぐに子供を睨みつけた。

 「うるさいなぁ。前から思っていたけど、お前よく喋るよね。よく喋るのだけど、ぶつぶつ呟いているから何言っているのか全然分からない。頭に入ってこない。私の母とお姉ちゃんをどうやって取り込んだのか分からないけど…」

 「うるさいうるさい」感情的に子供が遮る。「上から喋るな。もうお前に何もできないな。私は詩束と名乗って高貴な貴族様の前で白拍子を舞おうかな。そして、全員私の従者にしてやる…ふふふ…楽しいだろう」

 「従者…?なんでそんなことができるの?本当にお前は玉藻前なのか?」と、譜は呆然とした。

 「私が妖怪?本当にお前は幼いなぁ…ふふふ。そんな下等なものではないな。だけどそんなこと私には容易いこと…ふふふ」


 その言葉は、伊都にも聞こえていた。

 やはり、鼓笙様は関係なかった。この子供に目をつけられていたのは詩束だった。始めからこの家はこの子供に狙われていた。伊都は、薄皮一枚の中で必死にもがいた。

 この薄皮は抜け出せそうで抜け出せない。返ってこの薄さが伊都を疲弊させた。だけど、詩束と譜がいる。諦めるわけにはいかない。

 …譜、もうその子供に構ってはいけない。もっと傷ついてしまう。


 しかし、譜は負けていなかった。

 「お前が何者かは知らないけれど…私がお前を阻止する。必ず…。どんな目に遭ってもこの家は私の家だ。お前には渡さない」譜は宣言した。


 伊都はずっと譜を見守った。

 譜は頑張ったと思う。しかし、譜が何をしてもあの子供には敵わなかった。暫く譜は耐えていた。

 しかし、譜には協力者がいる。こんな虚構のような誰も信じられない話しを信じてくれる頼もしい味方がいた。鼓笙だ。

 鼓笙は、白拍子の話を一切持って来なくなった。子供に舞の場を与えなかったのだ。


 子供はひどく苛立った。


 幾日過ぎただろうか。

 鼓笙が宴の場を与えなくなってからというもの子供は稽古をあまりしなくなった。朝、適当に稽古をした後は詩束を連れ立って、よく都に出かけた。

 そして、その日もまた詩束を連れて、都に出かけて行った。

 だが、都から戻って来た子供が妙に苛立ち、稽古場を行ったり来たりしている。共に出かけた詩束は稽古場の隅で無表情に座っていた。その隣で伊都は、いつまでも稽古を始めようとしない子供を座って待っていた。


 すると、突然子供が騒ぎ始めた。


 「なんだ、あの者は?いったい何なのだ?あんな女子おなごを見たのは始めてだ。私を見た、たった一瞬であの者は私の全てを見抜いた。あんな女子おなごがいたら何もかも台無しになる。始末しなければ、あの者は必ず私の前に立ちはだかる」稽古場を行ったり来たりしながら子供が呟く。「おい、詩束!」

 突然名前を呼ばれた詩束が子供へと視線を向けた。その表情は何処かぼんやりとしていて、全てを諦めているような顔をしている。

 「譜が跡をつけていたことに何故、お前は気が付かなかった。譜があの者との会話を聞いていたら厄介だ。私が去った後、譜が、あの者と話していた。お前は私が命じた通りにちゃんと盗み聞きしたか?盗み聞きはすごく重要だ。皆、私に関する重要なことは、必ず私のいない所で話すのだ。だから盗み聞きはすごく大切なことなのだ?お前はちゃんと聞いたか?」

 無表情に詩束が答える。

 「聞いた」

 「あの二人は何の話しをしていた?」と、子供が尋ねる。

 「あの子の名は月子と言った。月子は戒のことを忘れていた。でも譜が、戒と月子の会話を一文一句覚えていた。戒が、戒の目を見たものを縛る力を持っていることを話していた。譜はすごく納得していた。戒と目が合うと、戒に縛られるのか?と、何度も聞いていた。譜は大丈夫かと月子が聞いていた。譜は大丈夫と答えた。譜は子供だから戒には相手にされていない。だから戒とは目が合わない。と譜は言った」詩束が淡々と話す。

 「そうか…。それは良かった。やはり幼いなぁ。相手にされていないから…だと思っているのか。それでいい。それにあの者への呪いは一応効いたのだな。私のことを忘れているということは効いている証だ。よし…」

 子供が安堵した。


 そういうことだったのか…。

 伊都は思い返す。女将があの子供の白拍子の衣装を持って来て、伊都の跡を継ぐのは戒だと言った時、伊都の怒りが頂点に達していた。それまで子供の顔をろくに見ていなかったのに、あの時始めて子供の顔をまともに見た。子供の瞳に、自分の怒りを焼き付かせるためにわざと睨みつけた。

 あの時、私は、この薄皮一枚の中へ閉じ込められてしまったのだ。そうだ、あの時…。沢山の細い手に掴まれたような幻覚を見た気がした。

 伊都の悔恨が胸を締め付ける。

 あんな子供、相手にしなければ良かったのだ。あんなふうに苛立っていなければ、あの子の顔をまともに見ることもなかった筈だ。まんまと罠に嵌められた気分だ。


 「他に何か話していなかったか?」と、子供が尋ねた。

 「話していた。詩束が戒のことを捨て子だと話していた。と、言っていた」と、無表情に詩束が答える。

 「お前は平気な顔をして、よくそんなことが言えるな。今夜は食事抜きだ」と、子供が怒鳴る。「他には?」

 「月子が、もう譜とは会えない。と言っていた。でも、月子がいなくなっても寿院じゅいんがきっと力になってくれる。と、言った」と、詩束が話す。

 「そうか…。そうなのか?あの者はいなくなるのか?譜とは会えないのだな。それは私には良いことに違いない。後はその“じゅいん”というやつを警戒していればいいのか。“じゅいん”だな。先手を打って“じゅいん”の家を壊してやろうか…。これでいい…ふふふ。盗み聞きとは本当に効果的だ」


 その日稽古場には、開かれた板戸から陽射しが差し込んでいた。その中で、幾日も掃除をしていない降り積もった埃が舞い踊っていた。


 伊都は、ただ黙って戒と、詩束の会話を聞いていた。


 それから暫くして、譜が稽古場に戻ってきた。

 譜は、引戸を勢いよく開けて、稽古場に上がった。そして、迷わず戒の前まで歩み寄ってきた。

 譜は、ずっと戒を睨みつけている。戒もまたじっと譜を見ている。

 「なんだ?」戒が尋ねた。沈黙を恐ろしく思ったのは、戒だった。

 「やっぱりだ」と、譜が言った。

 「だから何だ?」と、戒が苛立つ。

 「薄々勘づいていた。あの日、女将さんが母の跡継ぎをお前にするように脅したから、母は変わってしまったと思っていた。でも違った。母がお前を怒りのあまり睨みつけたからだ。その時お前は縛りの呪術をかけた。お姉ちゃんもそうだ。お姉ちゃんがお前の首を絞めた後悔から変わってしまったと思った。いや違う。首を絞めた時、お姉ちゃんがお前の目を睨みつけた。その時に呪術をかけた」譜が戒を睨みつけながら言う。

 「呪術などかけた覚えはないが…?ふふふ、だから、それがどうした?それを改めて聞かされても、この状況は何も変わらないなふふふ」と、戒が言う。

 「縛りの術なのだろう?そんなことができる人間がいるなんて、本当にこの世とは恐ろしい。お前が言うように私は本当に子供だと思うよ。この世に『呪い屋』なるモノがあるなんて知らなかった。お前は知っているのか?」と、詩が尋ねる。

 「呪い屋?なんだそれ」と、戒は笑った。

 「知らないんだ。白水家は知っているか?」と、譜は尋ねた。

 「何だ?お前は何が言いたいのだ?」と、戒が言う。

 「知らない?本当に知らないの?」

 「知らない」

 「そうなんだ。でも、お前みたいなやつが存在するんだ。お前が何を言おうと、何をしようと、もう驚かない」と、譜は言う。

 「さて、お前はこれからどうするのだ?お前の母と姉はもう元に戻ることはない。ふふふ…もうお前の居場所はないなふふふ」

 「居場所?私の居場所はここよ。お前の居場所ではないよね」

 「お前、面倒くさいな。つべこべ言わずにさっさと出て行けよ」

 「私とお前はただの子供同士だ。お前と喧嘩したところで負けない」

 「子供同士?何を言っている?」

 「だってそうでしょう。私はずっとお前を見ている。けれどお前には縛られない。お前、私には術をかけられないのだろう。始めっから私はずっとお前を見ていた。お前とずっと目が合っていた。今もだ。ほらっ。術をかけてみるといい」

 戒が黙った。

 「私が気が付かないとでも思った?ずっと不思議だった。女将さんが変わってしまったのが始まりだった。そして母が変わって、お姉ちゃんが変わった。あまりにも不思議な変わりようだった。皆お前を中心にがらりと変わってしまった。でも、私だけが変わらない。理由は分からない。でもお前の術が掛からないのなら、私がここで尻尾を巻いて逃げるわけないじゃない」と、譜は強気で言った。


 戒は黙っていた。

 しかし、その沈黙のなかで後戻りできないほどの怒りをつのらせていた。

 譜は気づいていなかった。


 「お前、舐めすぎだ」

 戒が真っ直ぐ譜を見た。その顔はまさに鬼のようだ。

 譜は一瞬怯んだが、母と姉を思うと、怯むわけにはいかない。

 譜もぐっと力を込めて睨み返した。

 「想像力のないやつだ」と、戒が言った。

 「………?」

 「ふふふ…私が詩束に「死ね」と、たった一言命じれば詩束は何もしないと思うか?分かっているだろう。詩束はすぐに死ぬんだ。それくらい子供のお前でも分かるよな。ふふふ…今すぐ命じてやろうか?」

 力を込め過ぎて、ぶるぶる震えていた譜の眼孔がゆっくりと、緩んでいく。そして、瞳孔が忙しなく動き始めた。

 「お前、本当に面倒くさいから、変わりに詩束を罰してもいいよな。ふふふ…」

 譜の表情が途端に変わっていく。

 「やめて…卑怯者…」

 「私は始めっから卑怯者なのだよ」 

 「やめて…」

 「だったら、まず、お前は鼓笙の所へ行って、宴の話しをたくさん持ってくるように頼むくらいするだろう。取り敢えずそれで詩束が生き延びる…ふふふ…どうする?」

 「分かった。お姉ちゃんには手を出さないで」

 「とびきり位の高い者の宴だ。この都を動かせるくらいの者がいい。その者を私の従者にしたらどうなるだろうな。考えたでけでも楽しいな…ふふふ」

 「えっ?それは無理だ。鼓笙様がどれほどの人か何も知らないのね」

 「そうだ。私は何も知らない。そんなことは鼓笙が考えるだろう。詩束を死なせたくないのであれば…ふふふ」


 勿論、その会話は伊都にも聞こえていた。

 この『怪物』は、もしかして、とんでもないことを考えているのではないのか?まさか朝廷を手中に収めようとでも思っているのか?

 恐ろしい。

 子供が考えることは本当に恐ろしい。

 しかし、それが実現するとは到底思えない。だとしたら…本当に詩束の命が危ない…。


 誰か…誰か助けて…。

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