第2話

 波乱が起きるかと予想された高校生活も、入学初日以上の事件は起きることなく、あっという間に一か月が経過した。一か月も経てば江坂渚沙への畏怖や好奇の視線も落ち着き始め、今では特別親しい相手こそ居ないものの、かといって輪の外側に排斥されている訳でもなく、当初に比べれば平々凡々で穏やかな高校生らしい日常を送っていた。


 冬生は渚沙に比べると、友人が多くできた方なのだろう。


 今ではクラスの大半の生徒と朝の挨拶くらいはする間柄だ。挨拶程度――と思われるかもしれないが、存外、大きいものだ。しかしながら、一人暮らしを始める際に両親に宣言した通りアルバイトを始め、そのせいもあってか放課後の友人との遊びにはあまり参加できていない。


 つまるところ、広く浅くというのが今の冬生の人間関係であった。


 そんなある五月上旬の朝。冬生が口を隠しながら小さな欠伸を噛み殺して登校すると、それを視認した新島梓が自席から小走りに駆け寄ってくる。


「おはよう!」

「おはようございます。今朝は天気が良いですね」

「ね。五月末には梅雨になるんだろうけど、この時期のこの天気が一番好きだな」


 冬生が鞄を机の脇に置いて着席すると、新島は窓の外を一瞥しながら机の前に膝を突く。


 数多くの広く浅い友人ができた冬生だったが、目の前の新島は、その中では珍しく深い付き合いの友人と言えるだろう。様々な縁あって会話する機会が多かったせいか、気付けばこんな間柄だ。他に友達が居ない訳でもないのに、たまに、わざわざ自席を離れてこうして来てくれる。嬉しいと思う反面で気が引けたりもする。だが、それを伝えるのも野暮だろうか。


「そういえば昨日のドラマ、観た? 二十一時の」

「ああ、以前もおっしゃってた。……すみません、バイトが入ってて」


 新島は随分と多趣味らしく、アニメや漫画、映画やドラマとサブカルチャー全般に幅広く手を伸ばしているようだ。その中でも取り分けて面白かったものをおすすめしてくれるのだが、生憎、彼女の目の前に居るのはこのクラスでも取り分けて時間と金が無い女だ。


 冬生が努めて申し訳なさそうな顔で頭を垂れると、新島は少々残念そうにしつつ、しかし仕方が無いという事情も知っているからもどかしそうに歯噛みした。


「スマホでも視聴はできるようですが、よく考えるとインターネット回線も通っていないので。通信料の問題が」

「うぅん……そう言われると同情が勝る。知り合いに廃品のテレビが無いか聞こうか?」

「私は合理主義者ではありません。実益よりプライドを優先する場面がしばしばあります」

「つまり?」

「極めて惨めな思いをしそうなので遠慮しておきます」


 『貧乏だから廃品のテレビをください』と友人経由で聞いて回れば、どんな目を向けられるかは想像に難くない。一時の恥も、飲み込めないものは飲み込めない場合がある。


 新島は可笑しそうにクスクスと笑った後、少々寂しそうに「了解」と頷いた。


 そんなやり取りをしていた時だった。


 不意に、教室の喧騒が一段階静まり返ったような気がした。


 冬生は気のせいかと忘れようとしたが、目の前の新島が不思議そうな目で冬生の肩越しに何かを見ていたから、余計な口は開かずに振り返ってその原因を確かめた。


 背後には、登校してからずっとスマホを弄り続けている江坂渚沙の姿がある。


 相変わらずの美貌と、今日はいつもより少しだけ眠たげ。それはいつもの光景で、誰かが何かを注目するようなものではない。


 普段と違うのは、彼女の隣に酷く緊張した面持ちの男子生徒が立ったことだった。


 男子生徒の名前は手越。入学初日に渚沙へ話しかけようとしていた美形の男子だ。毛髪は真っ黒な無造作ヘアで、制服は着崩している。間違っても優等生には見えないふざけた言動を度々するが、かといって横柄ではなく、冬生の目には比較的真っ当に見える人物だ。そんな彼が今は真面目な表情をして江坂渚沙に近づいたから、なるほど、この雰囲気も頷ける。


「あのさ、ちょっと……真面目な話があって」


 ざわ、と空気が変質したような気がした。渚沙は少々驚きの目を向けている。


 冬生は少し嫌な予感がして視線を玲子――渚沙の家族事情を公に暴露した中辻玲子の方を盗み見る。案の定、手越に好意を寄せている節がある彼女の顔は剣呑だった。冬生と同じようにそれを危惧したらしい眠たげな顔の取り巻き、小沢とばっちり目が合った。


 仲良しではないが、それなりに会話をしたことがある関係だ。『どうにかしてくださいよ』『善処する』とアイコンタクトを取って、冬生は視線を打ち切った。


「場所、変えた方が良い?」


 渚沙がスマホをポケットに戻して訊くと、手越は固唾を飲みながら頷く。


 そうして二人で教室を出ていったから、教室に緊張と弛緩が入り乱れた空気が漂う。野次馬根性でこの出来事の結末を見守らんとする者や、腹立たしそうな者など、反応は多種多様だ。


 しかし、時間が経てば段々と喧騒も戻ってくる。ほっと、一息吐いた新島が声を潜める。


「凄いね、江坂さん。この一か月で……に、三回目?」

「教室で観測できる限りでは三回目の告白ですね。裏でも何回かあるかも」

「はー、凄い。美人だもんね。優しいし」

「存外、危惧していたほど家庭の事情は関係ないんでしょうね」


 冬生が安堵に微笑して呟くと、言葉尻を捉えた新島がにやりと笑う。


「なに、心配してたんだ?」


 自分の迂闊に気付いた冬生は苦笑して新島の顔を一瞥し、責任転嫁しておく。


「貴女のお人好しが伝染ったのでしょう」


 「へっへっへ」と満更でもなさそうに新島が笑い、冬生は良い友人を持てた幸運に感謝する。


 するとその幸運に水を差すように冬生のスマホが内ポケットの中で鳴動した。むー、という振動音を聞いた新島が先に眉を上げ、冬生は心当たりを探りながらそれを取り出す。


 着信だった。発信者は綾瀬由紀子。母である。


 冬生は細めた目で時刻を一瞥した後、指を着信拒否に置いて視線を揺らす。唇を噛んでぐっと目を瞑り葛藤するも、やがて荒々しく息を吐いて席を立った。


「すみません、ちょっと電話してきます。長くなるかもしれません」

「はーい。時間にだけ気を付けてね」


 新島が自身の席に戻るのを見送り、冬生は廊下に出て、切れる気配のない着信に応じた。


「――もしもし、冬生です」

「あ、冬生ちゃん? やっと出た! ごめんね、こんな時間に」


 安堵の吐息混じりにそう挨拶してくる由紀子に、冬生は「いえ」とやや事務的に応える。


 始業前だから速やかに終わらせてほしいと伝えようか悩むも、辛うじて思い留まる。諸々の言葉を呑み込むに当たって軽い頭痛を覚え、ぎゅっと目を閉じながら廊下の中庭側に面した窓に肘を置いた。「それで、どうされました?」と話を促す。


「生活はどう? 順調?」


 冬生の生活を心配してかけてくれたようだ。


 隣の教室に担任が入っていく様子を見た冬生は軽い焦燥を覚えながら応じる。


「問題ありません。報告通りにアルバイトも始めましたし、生活に不便も無いです」

「そう……でも、そろそろお家に顔を出したら? お父さんも心配してるし、週末に一回とまでは言わないけど、一か月に一回くらいは会いに来てくれると安心できるんだけど」


 冬生は唇を噛んで目を細め、新緑に迫り行く中庭の木々を見詰める。


 溜息が出そうになるのを寸前で止め、指先で窓枠をトントンと叩く。言葉を選んだ。


「すみません、お母さん。一応、確認をさせてください。私が一人暮らしを始めた理由はご存知ですよね?」


 感情の起伏を押し殺して訊くと、向こう側で狼狽える気配があった。


「それは分かってるの。冬生ちゃんが私達に怒ってる気持ちは分かるし、私達が悪い。でも、やっぱり親だから……娘が無事にやってるか顔を確かめるくらいはしたくて」

「ではお母さんが会いに来てください」

「お、お父さんも……」


 冬生はガシガシと後ろ髪を掻いて噛み付かん勢いで言い返す。


「娘の顔を心配する父親が、不倫をした挙句に自分から離婚を切り出しますか? 目を覚ましてください。陰口なんて言いたくありませんが、あの人は私達を置いて出ていったんです。過失じゃない。決断です。自分の意思で家族を捨てた」


 気付けば息切れしていたから、自分が半ば怒鳴っていたことに気付く。


 すると由紀子は困ったような気配を覗かせつつ、「でも」と食い下がる。


「お父さんも反省してるし……やり直したいって言ってるから」

「私の気持ちの整理が付く前に再婚をしたのはお母さんですよね? 私は嫌だと言いました」

「でも、お父さんを愛してるから……」


 危うく窓を叩き割ってしまいそうだったから、冬生は吹き出すように笑って唇を噛む。


 身体の芯が熱かった。じわりと汗ばむ。自分が幼稚だということは理解しているのに、感情の整理がつかない。それでも感情任せに怒るなんて真似はしたくなくて、深呼吸した。


 すると冬生の様子を察した由紀子が慌てて譲歩をする。


「半年に一回でいいから、会いに来てくれると嬉しいの! 私もお父さんも、冬生ちゃんが学校で上手くやれてるのかとか、お友達が居るのかとか心配で……そういうのって、会って確認したいじゃない? だから、ごめんね。私達を安心させてほしいだけなの」


 父の弘道のことは未だに許すことができない。ハッキリと言えば、嫌いだ。


 しかし、由紀子に対して抱いている悪感情がそれに比肩するものかと訊かれると、答えは否だ。弘道と再婚した事実に対する怒りはあるものの、彼女を安心させたいとは思える。


 冬生は悩み抜いた末、頭痛が消えない頭を押さえながら渋々と妥協した。


「……分かりました。では今度、友人を連れて一度そちらに帰ります」

「ほ、本当に⁉ 連れて来てくれるの?」

「ですが、こちらにもこちらの都合と事情があります。ですから、『安心したい』というお母さんの言い分に対して、友人を連れていくことで応えます。それで納得をしてください。帰るのはその一回です。それ以降、定期的に電話くらいはかけますが、顔を出すのはこちらの都合が合う時だけ。催促は止めてほしいです。それでよければ、今度、連れていきます」


 それでも食い下がるならば徹底的に抗議する構えだったが、


「もちろん、それで大丈夫! ありがとね、楽しみにしてるわ」


 存外にあっさりと譲歩を貰ったから、冬生は肩の力を抜いて一息を吐く。


 アンガーマネジメントとはやはり有効な技術なのだろう。鉄火の如く赤熱した感情が少しずつ冷めていくのを感じ、すると一転して淡い自己嫌悪を覚え始める。


「すみません、感情的になって言い過ぎました」


 我ながら言い訳がましくて嫌になるが、由紀子は穏やかな声でそれを赦す。


「大丈夫よ。私達が悪いんだもの、気にしないで」

「……確かに、お二人に思うところはありますが、それでもお母さんは愛していますからね」

「私も。ありがとう。――それじゃ、お勉強頑張ってね。冬生ちゃん」

「ええ、お身体に気を付けて。失礼します」


 指が通話終了のアイコンをタップすると同時、全身から一気に力が抜けた。風で倒れる看板の如く体勢を崩し、くるりと廊下の壁にもたれる。スマホを持ったまま天井を仰いで嘆息した。


 しばらく黙って上を見詰めていると、他クラスの担任が教室に入っていく様が見えた。


 もうそんな時間か――動き出そうとするも力が入らず、もう少しこのままで居る。


 さて。約束をした以上は近い内に家へ友人を招く必要がある訳だが、どうしたものか。


 素直に家に招いて来てくれそうな友人は指折り数える程度。その中でも貸し借りを気にしなくて良さそうなのは新島くらいのものだが、彼女をあの家に招くのは気が引ける。


 当然だ。不倫した父親が居て、それを許した母親を恨む娘が居る。


 まずは隠すべきか否かの問題が発生するし、隠すのだとすれば隠し通せるか、隠さないのだとすれば彼女がどのように感じるかの問題がそこから這い出てくる。


 どちらにしても、最善の策にはなり得ない。


「どうしたものか――」


 その言葉で弾みをつけて壁から背中を引き剥がし、教室へと歩き出そうとする。


 すると、廊下の向こう側から肩を落とした手越がとぼとぼと歩いて戻ってきた。


 尋ねるまでもなく、告白は失敗に終わったのだろうと冬生は察する。そして彼が教室に吸い込まれていくと、しばらくして今度は退屈そうな渚沙が戻ってきた。彼女はちらりとこちらを見ると、黙っているのも感じが悪いと思ったのか「どうしたの」と尋ねてくれた。


「廊下の空気が好きで」

「……友達居ないの?」

「貴女にだけは言われたくないですね」


 冬生はスマホをポケットに戻して前の扉から教室に戻る。一瞬、担任かと思った生徒達が身構えた後に『なんだ』とでも言いたげな表情で興味を失っていくが、やや遅れて渚沙が後方の扉から入室すると、手越との一件で興味が尽きないクラス中の視線がそこに注がれる。


 相変わらず人気者だ。良くも悪くも。――冬生はそっと着座して教科書を取り出した。




 放課後になっても答えは出なかった。母との約束をどう守るか、という問題の答えだ。


 結局、新島を友人として招く案は棄却した。


 彼女は友人であり、こういった物事に手を貸してくれる人間だ。だからこそ、その厚意に甘えたくないという冬生の一抹の偽善が作用した。


 そうなると代案が必要になるが、今考えているのは、面倒事に巻き込まれても気に留めなさそうなクラスメイトを見繕い、事情を説明して金銭などの対価を渡して付き合わせること。


 これは極めて現実的ではあるが、問題点は『家庭の事情を吹聴されないか』『金銭に余裕がない』の二点。人の口に戸は立てられないし、行為そのものも道徳的でない。


「どうするか」


 冬生は終業後もしばらく自席で腕を組んで考え込んでいたが、どうしても答えは出ず、仕方が無いので家に帰ることにした。鞄を担いで立ち上がり、級友に別れを告げて教室を出る。


 気を抜くと足でも引っ掛けそうなくらいぼんやりと廊下を歩く。すると、一階へと続く階段近くに備え付けられた女子トイレから、ややヒステリックな声が聞こえてきた。


「だからさ、前も言ったけど――もう少し自分の立場を弁えてくれない?」


 ヒステリックながら、内側に理性と打算を感じさせるその声は中辻玲子のものだった。


 また彼女か、と冬生は呆れた顔で溜息を吐く。そして恐らく、詰められている相手は渚沙だろう。原因は今朝の手越から渚沙への告白か。今や玲子が彼に好意を抱いていることは周知の事実。加えて、輪の中心に居る自分より渚沙が人気な事実もあって、許せないのだろう。


 以前に冬生と話した時は面倒見のいい姉御肌な人物だと感じたが、やはり感情的になるとよろしくない部分が露呈する。軽い助け船を出しに行こうか――冬生は足音を殺して近寄る。


 すると、近付いている途中にこんな罵声が続いた。


「言ったからね、私は。自分の母親が人殺しの詐欺師だってよく理解して行動して」


 指をさして念押しをしながら中辻玲子が女子トイレを大股に飛び出し、その背中を取り巻き二名が同情気味な視線を背後に向けながら追う。途中で冬生とすれ違った玲子は「おう」と軽く手を挙げて挨拶し「もう済んだから。気を付けて帰りな」と手を振った。


 冬生は渚沙の件に関して何かを言おうとするも、それを察した取り巻きの内、比較的仲の良い方――小沢が肩を掴み、小声で「言っとく」と頭を下げた。冬生は一瞬の葛藤の末、何度か頷いて矛を収めた。「そっちはよろしく」「ええ」と言葉を交わして女子トイレへ向かった。


「災難でしたね」


 言いながら女子トイレに入ると、洗面台に腰を預けた渚沙がくたびれていた。


 腕を組んで天井を見ていた彼女は、疲れた目を冬生に下ろす。


「聞いてたんだ」

「後半から。――まあ、言うまでもないでしょうが、アレは」

「私が男子に好意を寄せられることへの僻みでしょ? 分かってるよ」

「なら結構です。気にする必要はありません。親の罪は貴女の罪じゃない」

「それも分かってる。君に説得されたからね、そう思うことにした」


 どうやら思っていたよりも自分の言葉は彼女の中で比重の重いものだったようで、冬生はどことなくむず痒さを覚えながら無意識に微笑をこぼしていた。


「まあ、彼女が取り分けて気にしている男子はもう拒絶したんですから。しばらくは安穏と過ごせるんじゃないですか?」


 軽く励ますように言うと、しかし、励まされた人間のそれとしてはあまり一般的ではない渋面が返ってくる。その意味をすぐに察した冬生は目を細めて腕を組んだ。


「……他の人からも似たようなことを?」

「ここまでハッキリと直接的なのは初めてだけどね。これくらい分かりやすい方が助かるよ」


 玲子のような人間がそうたくさん居て堪るかとは思ったが、なるほど、彼女ほど騒がしく大胆ではないながらも悪感情を行動に移す人間は他にも居るらしい。冬生は瞑目し嘆息した。


「心中お察しします」

「苦労はお互い様でしょ。君も君で色々大変そうだし」


 言われて冬生は眉を上げ、そういえば、彼女は自分の事情を知っているのだと思い出す。


 ふと何かが脳に引っ掛かって冬生は動きを止め、虚空を見詰めてぴたりと口を閉じた。


 針の穴に糸を通そうとするようなもどかしさ。組んだ二の腕に指をトントンと置いた冬生は、数秒後、まるでスイッチを入れたように論理の回路が繋がったのを感じた。


「……綾瀬? どうしたの?」


 やや心配そうに声を上げる渚沙へ、冬生は組んでいた腕を解いて語り掛ける。


「貴女が整形をするか極端に醜い厚化粧でもしない限り、好意は寄せられ続けるでしょう」


 唐突な話題だ。渚沙は怪訝そうに眉を顰め、やや素っ気なく頷いた。


「…………言われなくても分かってるけど、それが何?」

「つまり、このままでは貴女は卒業までに何度もこうして面倒な目に遭う」

「だろうね。何、もしかして今馬鹿にされてる?」

「いえ、前提の整理です。貴女は――今、厄介な状況に居るという現状の整理」


 そこで一拍を置いた冬生は、やや声を潜めて不敵に笑う。


「ところで、実は私も……少々困った状況でして。相棒を探しています」


 ここまで語れば、渚沙も冬生が何を言いたいのかは察したようだった。


 身構えるように目を細める彼女へ、冬生は唇を舌で濡らし、裏取引を持ち掛けた。




「私と手を組みませんか、江坂さん」




 渚沙は何も言わない。内容を説明しろと表情が語っていた。


 話が早くて助かる。冬生は彼女が焦れるような間を置いてから、まずは利点を説明する。


「私の名前を偽装の恋人として好きに使ってください。そうすれば、貴女に付き纏う厄介事が一気に解消される。告白してくる人間も、それを危惧して釘を刺してくる人も、消える」


 手越からの告白。玲子からの詰問と牽制。見る限り、彼女はそれらに辟易としていた。


 付け入る隙ではないかと考えたが、案の定、彼女は冬生の提案を聞いて真剣な顔で考え込む。顎に手を添えて視線を斜め下に伏せ、少し黙った後、冬生へ視線を上げた。


「……対価は?」


 良い餌を選べたと確信した冬生は胸中で指を鳴らし、今度はこちらの要求を明かす。


「私の事情を知る良き隣人として、私の実家に一緒に来てください。一度で構いません」


 自分で言うのもなんだが、そう面倒で複雑な要求ではないはずだ。長期的に名前を貸し出すこちらに比べて、あちらの代価は一回で終わる。取引としては彼女が得だ。


 しかし、だからこそ、それを冬生の側が持ち掛けてくることに渚沙は疑問を呈する。


「――悪くない提案だね。で、何を企んでるの?」


 やはり突っ込まれたか――と、冬生は口を噤む。しかし、彼女が要求を呑めば、最終的には説明することになる。冬生は噤んだ口を思い直して開き、恩着せがましく言う。


「母が私に、不安だから定期的に実家へ顔を出してくれと言ってきました。正直なところ、拒みたい。でも、母に対して強く当たるのは難しい。そこで母に提示した譲歩案が、一度だけ友人を連れていくこと。ところが……あんな下らない家庭の事情を普通の友人に知られたくない」


 身を切るように恥を晒した甲斐もあり、渚沙はすんなりと飲み込んだ。不敵に微笑する。


「なるほど、内情を知ってる私がうってつけだと」

「渡りに船、地獄に仏――感謝しますよ。勿論、その首を縦に振ってくれたら、の話ですが」

「横に振ったら?」

「渡りにカス。地獄に馬鹿」

「なるほど、それも悪くないね。ちょっと考えさせて」


 彼我の提示する対価を秤に乗せる為、渚沙は腕を組んで考え込んだ。


 急かして心証を悪くするのも得策ではないと判断し、冬生は黙って彼女の回答を待つ。


 廊下を行き交う生徒達の喧騒が遠くから聞こえる、そんなトイレで数十秒の静寂。流石に、そろそろ一度くらいは返答を訊いてもいいかと思った、その時だった。


「言い残したことがあったんだけど、江坂って……」


 少し険しい顔をした玲子が、そう言いながらトイレに入ってくる。


 冬生と、それから呼ばれた渚沙が揃ってそちらを見ると、まるで予想もしていなかった状況を目の当たりにした玲子は驚きに目を開閉する。そして我に返るように目を細めた。


「……まだ、ここに居たんだ。取り込み中?」


 渚沙は面倒そうに目を瞑った後、溜息混じりに答える。


「いや――」

「――ええ。渚沙さんへ交際の申し込みをしていました。今は返事待ちです」


 渚沙の回答を遮って、冬生が代わりにそう答えた。


 驚愕と動揺に渚沙は目を見開き、何を言っているのと言いたげに冬生を見た。


 そして、それは玲子も同様だった。まるで想像もしていなかった話題に困惑の表情を隠せない玲子は冬生と渚沙の顔を順番に見比べた後、眉を顰めたまま冬生に問う。


「は? …………え、何。そういう感じの?」


 冬生は嘘を連ねるのも本意ではなかったので、肯定も否定もせずに含むような表情で玲子を一瞥する。玲子の顔からは、江坂に吐き出そうとしていた毒気がすっかり抜けていた。


 図らずしも先ほど冬生が提示した対価が有効であることを証明され、それに気付いた渚沙はその顔に真剣な葛藤を覗かす。


 三者が奇妙な構図で沈黙を漂わせる中、それを打ち破ったのは、渚沙の一声だった。




「いいよ。分かった――喜んで。綾瀬と付き合う」




 思わず安堵と達成感から溜息を吐いてしまいそうだったが、喉元まで上った空気をどうにか吸い込んで飲み込む。胸を張って微笑を浮かべ「ありがとうございます」と謝辞を伝えた。


 「いいよ。私も君が好き」と白々しく言って渚沙は玲子を見た。


「そういうことだけど。それで、中辻は私に何か用?」


 大方、言い足りなかった言葉を渚沙に吐き捨てる用件だったのだろう。


 根幹には手越から恋愛感情を向けられ、自分よりも人気がある渚沙への嫉妬。だが、それらが一気に払拭される事態を目の当たりにして、尚も嫉妬の炎を燃やすのは難しい。


 燃料は流されて消えた。


「い、いや……大丈夫。もう、用件は済んだ」


 玲子は動揺から抜け出せないまま、取り敢えずそう答えて去ろうとする。


 冬生は「あ」と玲子の腕を掴んでそれを止め、こう言い含めた。


「昨今はアウティングがどうのと騒がれてますが、私達の性的指向は隠していません。この交際もお好きに吹聴して頂いて結構です。では、お気をつけてお帰りください」


 そう言ってトイレの出口を示すと、玲子は奇妙なものを見る目で冬生と渚沙を一瞥。そして、不気味そうに目を逸らし、無言でトイレを後にした。


 黙ってその背中を見送った冬生と渚沙は、数秒後、同時に顔を向き合わせる。


 しばらく、お互いの顔色を窺った。偽装とはいえ交際相手となった相手に、渚沙は何を言えばいいのか分からない様子だ。しかし、話を持ち掛けた側として、冬生が場を仕切る。


「成り行きでしたが、いいんですね?」


 渚沙は呆れた顔で視線を虚空に流す。


「ここで拒んだら私の一人勝ちだけどいいの?」

「構いませんよ。明日は四人で貴女を取り囲むことになりますけど」


 勿論、構成員は玲子を筆頭に取り巻きの小沢と本田。そこに冬生だ。


 鼻で笑った渚沙は、一息を挟むと努めて真面目な顔で冬生に向き合った。


「吐いた唾を飲み込む趣味は無いよ。ばっちぃからね。約束は守る」


 ふっと微笑をこぼした冬生は、形式的に彼女へ手を差し出して握手を求める。


「では、改めて。よろしくお願いいたします。渚沙さん」


 その手を見た渚沙は少々面食らった後、腹を括って手を差し出し返す。


 だが、冬生の手を握り返そうとした寸前、躊躇いがちに手を止めた。


「こちらこそ。ええと……」


 これから嫌というほど表で言うことになる。冬生は目を覗き込んで言った。


「冬生。冬に生きると書きます」


 渚沙は返事をするように握手を返す。


「よろしく、冬生」


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