第22話 月と狼の継承
昼下がりの柔らかな光が廊下を照らす中、女中のレーニスが分厚い封書を携えてアーテル=グラキエスの下を訪れた。封蝋には月と狼をかたどった紋章が刻まれており、ルーナエ家から課された試練の記憶が蘇り不思議な感覚を覚える。
「アーテル様、この手紙は大鷲で直接運んだもので、誰にも開封されておりません。ルーナエ家当主テネブリス様からの密書です」
そう言って差し出される封書に、アーテルは軽く息を飲む。大鷲と言えば、ルーナエ家の暗部が伝書役や輸送に用いている魔物だ。人を鞍に乗せ、足に荷を掴ませて飛行するため、地上とは比較にならない早さで遠方からの届け物を可能にしている。それはアーテル自身が商会との取引で使わせてもらったが、こうして自分に送られる形で目にすると驚きを新たにする。
(何か重要な連絡が来たんだね。だって普段なら、もっと地味なルートで手紙を運ぶはずなのに)
「ありがとう、レーニス。読ませてもらうよ」
応接用の簡素なテーブルに座り、封を丁寧に切ると、ぎっしりと綴られた文面が姿を現す。テネブリス=ルーナエ――ルーナエ家の当主であり、王国の暗部を司る家系を率いる大人物。その彼がいったいどんな要件を伝えてきたのか、俺は胸の内で大きく息を整える。
まず目に飛び込んできたのは、テネブリスがアーテルの手腕を高く評価しているという文言だった。先日、領内に余った軍需品を買い上げ、シルヴァリス家へ空輸して売りつけた作戦が大成功を収め、その一環としてルーナエ家の暗部の協力を得て大金を稼ぎ出した。テネブリスはその行動力と発想力を見逃さず、十二歳の少年にしてこれほどの才能があるとはと感嘆しているらしい。
続いて、文面にはルーナエ家の現状が詳述されていた。どうやら今、ルーナエ家には後継者がいないという。かつて嫡男であった母スアーウィスの兄が前王の巡行に同行していたときに、局地的な地震に巻き込まれ亡くなっており、それ以外に有力な血縁者も残っていない。
「なるほど、母上の兄……。そんな事故で亡くなっていたなんて」
(前王は王権強化のために国内を巡行していたが、道中で地震が起きて帰らぬ人となったそうだ。それにスアーウィスの兄も巻き込まれたのか……)
アーテルが脳内で情報を整理する。その結果、ルーナエ家にはテネブリスという当主が健在だが、直接血筋を継げる後継者がいない状態になっていたらしい。本来であればスアーウィスの兄を後継者に据えたり、スアーウィスを中心に次代を作ったりする可能性があったが、どちらも亡くなってしまったのだ。
だからこそ、テネブリスはアーテルを養子に迎えたいと誘いをかけてきている。アーテルは当主の孫であり、近い血筋を持っているのは事実。剣術や魔法の素質、商才まで見せたアーテルは次代の当主として極めて有望だ。そんな論調が手紙には丁寧に綴られていた。
手紙を読み終えた俺は、無言のまま深呼吸をする。脳内ではアーテルが興奮ぎみに問いかける。
(すごい話だね。ルーナエ家の後継者だよ? 暗部を率いるなら、情報も大鷲も使い放題じゃないか!)
――確かに俺が引き継げば、あの情報ネットワークと資金、諜報員を自在に動かせるんやろうな。グラキエス家の後継者争いからも外れるし、メリットだらけや。
俺は素直にそう思う。辺境伯家では第一夫人フルームと第二夫人ルブラが派閥を張り合い、フラウスとティグリスの後継者争いが激化するのは時間の問題だ。そこに三男のアーテルが介入すれば必ずしも得になるとは限らない。しかし、アーテルがルーナエ家に鞍替えすれば後継者争いに関係なく大きな権限を確保できるだろう。
しかし、一方で気になるのはネーヴェの存在だ。妹をグラキエス家に置いたまま、アーテルだけルーナエ家に行くというのはあり得ない。しかし、ネーヴェを連れて行くとしても父親である辺境伯の許可なしには難しいだろう。
(妹を置いていくわけにはいかない。もしルーナエ家の後継者になったとしたら、僕が館を出た後、ネーヴェがどうなるか想像もつかないよ)
――せやな。あと、父上が帰還すれば後継者争いが本格化する。そのタイミングで急に俺がルーナエ家に行きますなんて言うたら、どうなる? ここで得た発言権がすべて無駄になるかもしれへん。
そう、アーテルは既に商会との取引で辺境伯家に多額の利益をもたらしている。三男としての発言権も獲得しつつある以上、今すぐにグラキエス家を捨ててルーナエ家に養子入りするのは、勇み足というか、中途半端になってしまう恐れがある。
手紙には、前王の巡行の詳細も書かれていた。王国を安定させるための旅だったが、局地的な地震に巻き込まれ、前王とスアーウィスの兄が同時に亡くなった。テネブリスはルーナエ家を切り盛りしてきたが、そろそろ高齢化もあって、次の世代を育てたいという思惑があるらしい。
(ルーナエ家には大鷲だけじゃなく、古くから築かれた諜報ネットワークや人材がいるんだろうね。それを受け継げば、黒幕として大きな力を得られるのかも)
アーテルは冗談めかしてそう言うが、実際にはそれが冗談で済まない強大な力を持っている。もしルーナエ家の力を受け継げば、グラキエス家とは別次元の影響力を得るだろう。
結局、今すぐルーナエ家の誘いに乗るのは早計すぎる。脳内で検討を重ねた結果、アーテルと俺は辺境伯が帰ってきたときに交渉しようという結論に落ち着く。数週間後か数日後か、魔族との戦いから戻ってくるであろう父親の許可なしにネーヴェを連れ出せるわけでもないし、グラキエス家の立て直しに貢献している最中に去るのも筋が通らない。
――まずは父さんと話をする。俺がルーナエ家に行くかどうか、それを認めてくれるかどうか。ネーヴェを一緒に引き取れるか。全部、そこをクリアせなアカンよな。
(うん。父上がどう反応するかはわからないけど、アーテルが既に財政面で貢献している事実は大きい。何もしていない三男なら一蹴されて終わりだろうけど、今ならちゃんと交渉に応じてくれる可能性が高い)
それに後継者争いへの影響も無視できない。アーテルが離脱するなら、フラウスやティグリスとどう関わるのかも問題になるし、ネーヴェの将来も絡んでくる。そもそもフルームやルブラが文句を言い出すかもしれない。いずれにせよ、当主不在では承認の問題がつきまとう。辺境伯がいなければ正式に認められないだろう。
養子としてルーナエ家へという魅力的な提案を前に、俺は一時的に浮き立った心を落ち着かせる。暗部を自由に使えるなら、まさしく黒幕として君臨できるかもしれない。しかし、そこにネーヴェがいない未来は望まない。グラキエス家の後継者争いをどう収めるかも含め、やるべき交渉は山積みだ。
手紙を読み終えて封を丁寧に閉じると、アーテルはレーニスに言葉をかける。
「テネブリス様にこう伝えてほしい。父上が戻られるのを待って、正式にお返事したいと。今すぐの結論は出せないので申し訳ない、とも一言添えてくれるかな」
「承知いたしました。では、大鷲で返書を送る段取りをいたしましょう」
レーニスの一礼に俺は微笑んで応える。ネーヴェの顔が脳裏をよぎりながら、どういう選択が最善なのかと自問自答が尽きない。
(後継者争いを抜け出せるのはメリットだけど、妹を置いていくわけにはいかない。まず父上との話し合いだね。それまでにフルームやルブラの動向も見極めなきゃ)
――せやな。今は商会の連中や辺境伯家への貢献で、多少は発言権を確保しとるわけや。むしろ、あまりこっそり行動すると、何か企んでると疑われるかもしれん。
二人三脚での思考を重ね、俺は近い将来の辺境伯との交渉を念頭に置く。目を上げれば外の空がうっすらと茜色に染まり始めている。魔族との戦いが終わり、父親の帰還が迫る今、グラキエス家の後継者争いは爆発寸前だが、自分にはもうひとつの選択肢――ルーナエ家への養子入り――が提示されている。
まるで岐路に立つかのような心境。かつては「暗殺から逃れたい」「妹を守りたい」と躍起になっていたが、今やルーナエ家の後継者という大きな選択肢まで舞い込んできた。十二歳の子供が背負うには重すぎる話だが、それも黒幕ルートを回避しながら自ら道を切り開こうとしたアーテルの運命かもしれない。
そっと部屋の扉を開くと、廊下を行き交う使用人たちの姿が目に入る。外では兵士の帰還が続き、邸内がどことなく慌ただしさを増している。父上である辺境伯が帰ってきたときに、いったい何が起こるのか、そしてルーナエ家の誘いをどう活かすのか。
(妹の表情を曇らせないためにも、最善の答えを見つけるしかないね)
――そうや。父上が戻った時が勝負やで。
俺は静かに廊下を歩き出す。大鷲が運んできた密書は、アーテルの未来を大きく揺るがす内容だったが、決断を下すのはまだ先。フルームやルブラとどう折り合いをつけるか、ネーヴェをどう連れ出すか――多くの課題が待ち受ける。そうして足音が遠ざかるなか、薄暗い夕闇に邸内の灯りがゆっくり点され始める。
それは、まるで館の運命に深く影を差す後継者争いの序曲と、もうひとつのルーナエ家後継者への道が同時に動き出す、予兆とも見えたのだった。
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