3章 1話
ぐらりと馬車が揺れる。
ラルディムは外の様子を見ようと窓掛けに手を伸ばした。
「やめたほうが良いですよ」
書簡に目を落としたまま、ロガレルがやんわりと止める。
「物騒な話で脅したいわけじゃないですが、一応それは暗殺防止の覆いです。貴方の乗ってる馬車を特定させたくない」
「あぁ……そうか」
そういう世界だった。
外を見ようとして叱られるのはこれで二度目。
ラルディムは小さく笑って、また椅子に身を沈めた。
「長く離れていたから忘れてしまっていたよ」
これから二人は王都に戻る。
ラルディムにとっては、逃げ出した日々に戻るための道のりだった。
命を狙われ、時には奪い、隣に立つ人間を疑い、あるいはこちらから陥れるのがあの城の仕組みだ。絢爛な外壁に覆い隠された陰惨極まりない場所だと、ラルディムは身をもって知っている。
明日にはもう一度思い知らされているかもしれない。
そう悪いものではないと思い込みたくて、何か鮮やかな思い出を探そうと記憶を辿るも、何一つとしてろくな出来事はなかった。
生家に帰るというのに、ここまで気が進まないのはむしろ笑えてくる話だ。
ロガレルも硬い口調で口を開く。
「……貴方がいた頃よりも、かなり状況は悪いです。必要以上の警戒をしてください」
「私が警戒してどうにかなる程度のことなら良いのだけれど」
軽口のような自虐には反応せず、ロガレルは厳しい表情で目線を上げた。
「城についてからは、恐らく俺と貴方で行動できることは少なくなります。絶対にひとりにならないよう、必ず信用できる人間を側に置いてください」
いつもとは異なるひりついた雰囲気の彼に、ラルディムは身をこわばらせる。
「……信用できる人間が私にそれほどいると思う?」
「それは……俺にもそれほどはいません。俺とジスク、領主家から数名、ごく一部の南部の臣下。それから……」
ロガレルが言い淀む。
ラルディムはすぐにその先を理解した。
「うん。ザミスは信用できるね」
「……人格に信用は置いていませんが、一応あいつはこちらの派閥です。とはいえ一緒に行動するに適した相手ではありませんから、俺のいない時はジスクと行動するようにしてください」
「……なんだか迷惑をかけてしまって申し訳ないな」
「貴方が死んで困るのは、貴方以上に我々ですから」
釘を刺されたわけだ。
ラルディムは気まずげに目を逸らす。
「死んでも良いなんてもう思っていないよ」
「それなら結構です」
それだけ言うと、ロガレルはまた書簡に目を戻してしまった。
普段よりも鋭利な彼の様子に、自分という存在がどれほどの影響力を持っているのかを思い知らされる。
取るに足らない自分だが、世間はそうは扱ってくれない。
憂鬱だ。
膝の間に顔を埋める。
「……城まではあとどのくらいかな」
「もう数刻もかからないかと。迂回しましたから、長旅でしたね」
「いや……むしろ案外早く着いてしまうものだと思って」
覆われたままの窓に目を向ける。
次に自分が目にするのは、あの灰色の城塞になるのだろう。
馬車に揺られるだけの楽な数日だったが、目的地に近づくほどに気が重くなっていくのを感じた。
自分が決めたことだというのに、何を今更。
心の中で自嘲して、ラルディムは微かに笑いを零した。
「忙しくなるね、ロガレル」
「……ええ、ラルディム様」
後戻りのできない瞬間が、もう目の前に近づいていた。
────────────────────────
一面に広がる海を見つめる。
何の感傷があるわけでもないのに、ハクトはただその青色に目を奪われていた。
「海は初めてですか?」
聞き慣れない声に振り向けば、船の漕ぎ手の青年がこちらを見ていた。
日に焼けた顔に人懐っこい笑みを浮かべている。
「まぁ……」
曖昧に返したのにも関わらず、青年は気を悪くした様子もなく楽しげに言葉を続けた。
「へぇ、それじゃあなたは運がいいな」
「なんで?」
「ここは世界で一番美しい海なんですよ」
青い風に髪をなびかせながら青年は言う。
「ここは人の世界と神の世界が交わる場所です。浅い青と深い青、それから空の青さえここで混ざり合って、一つになっている。最初に見るのがこの神秘の海だなんて、本当に羨ましいです」
彼の言葉に、ハクトは何故自分が海を見つめていたのか、その理由を知った。
なるほど、どうりで。
思わず笑みをこぼす。
「最初だろうと二回目だろうと、同じものを見たことに変わりはないでしょ」
青年は何故か一瞬ぽかんとして、それからすぐに首を横に振った。
「いやいや、そんなことないですよ。海は僕らの故郷なんですから。最初に見た海が、自分の心の還る場所になるんです」
「……随分宗教的な言葉を使うんだな」
「そりゃあ、海ほど神に近いものもないですから」
「そういうのはクリュソの信仰?」
「あー……正確には、多分違います」
青年は他の兵をちらと見て、彼らが聞いていないことを確かめてから、気まずげに笑った。
「僕の両親はポレット人なんです。だから多分、そっちの信仰かな。神様は同じみたいだけれど、クリュソとは若干違うみたいで」
「ポレット……」
確か数年前に滅んだ国だと、ルジームが言っていた。
ハクトは微かに目を細める。
それを見た青年は、ハクトが同情で困っていると思ったのか、慌てたように首を振った。
「あっ、親の故郷ってだけですし、僕はポレットに特別な思い入れがあるってわけじゃないですよ」
「そう」
簡単な答えだけ返して、ハクトはまた海を見遣った。
ロベッタを出てからどうも世界は繊細になってしまったようだ。
国だの宗教だの、煩わしいのは好きじゃない。
それでも、とハクトは胸の内で呟く。
それでもこの場所に残るのであれば、煩わしいあれこれとの付き合いは避けられないだろう。
それを踏まえて残る価値があるのかどうか。
心の奥ではとうに決まっていることを、ハクトはもう一度思案した。
クリュソ国のハクトとして生きることを選ぶのは、果たして賢い選択だろうか。
「……あなたも、兵士なんですか?」
青年が不意に尋ねてくる。
考えを読まれたようでどきりとしたが、彼は別の何かに思案を飛ばしているような顔をしていた。ハクトに向けられている視線には戸惑いのような影があって、思わず首を捻る。
「一応そうだけど、どうして?」
「いえ……ただ、その、不思議だと思って……」
不思議とは、一体何を示唆したいのか。
さっきまでと打って変わって歯切れ悪く口ごもる彼に、ハクトは無言で説明を促した。
「……あなたは、そういう人間に見えないから」
「どういう人間?」
青年はそれには答えず、ただ曖昧に笑った。
そういう態度は好きじゃない。
「……つまらないこと言わないでよ」
ハクトはそう言って海に向き直った。
「君にオレがどう見えていても、オレが変わるわけじゃない」
「それは……そうですね」
「どういう人間だって、戦わなきゃいけない時はあるわけだし……」
船縁に乗せた腕に顔を沈める。
結っていない髪は鬱陶しく風に遊ばれて、面倒なことばかりだなと目を閉じた。
「オレは兵士でもそうじゃなくても戦うし、人を殺すよ。でもどの立場にいてもそれは自分自身のためだ」
「兵士なら、神や女王陛下のために戦うものなのでは?」
「じゃあ君はそれに命をかけられるのか?」
ハクトは緑色の視線をまっすぐに青年に向けた。
たじろぐように青年は目線を揺らす。
「それは……できるできない以前の話ですよ。そういうものじゃないですか」
「何故? 君の人生を決められるのは君だけでしょ」
「……疑問を持ったら生きられなくなりますよ」
顔を海の底に向けながら、青年は呟くような声で言う。
しかしその言葉が波に呑まれかき消されることはなかった。
「疑うことをやめて生きるくらいならオレは死んでやる」
この言葉が青年に宛てたものではないことに、ハクトは自分自身で気がついていた。
海に、あるいはその向こうに向かって吐き捨てる。
「顔も知らない奴らに、オレの人生を左右されてたまるか」
自分達は神の顔も知らないのだ。
あの薄布の奥にどんな顔が隠されているのか。あれが本当に神であるにせよないにせよ。あんな奴のために何をする気もなかった。
青年が小さく笑い声をたてる。
ハクトは振り返らなかった。
「やっぱりあなたは面白い人だな。兵士には見えない」
「……あっそ」
「でも、あなたみたいな人が本当の意味で戦士なのでしょうね」
乾いた笑い声を返す。
「オレはただの人間だよ」
誰が何と言おうと、そして何が起きようと、そうあるべきなのだ。
そうでなくてはならないのだ。
「あなたの名前を聞いても?」
青年の声は何かを面白がるような明るさを持っていた。
ハクトは肩をすくめる。
「ハクト。君は?」
「イジェルです。またこの海を渡るときは声をかけてくださいね、ハクトさん」
「……またがあればね」
ハクトはひらひらと手を振ってみせた。
この青年と深く関わることはこの先ないだろう。
だが縁が切れることもない。
そんな緩やかな確信があった。
────────────────────────
「ああして見るとやはりまだ子どもですね」
ロルフの言葉に、ルジームは薄く笑みを浮かべた。
「お前も、そういうところはまだ若いな」
「それはどういう意味ですか」
顔を顰めるロルフに眉を上げて、件の少年に目を移す。
一行は小さな船に乗って海を渡っていた。
それほど長い距離ではないが、神域に至る海路だ。初めて海を見るというハクトの目には、余計に意味を持って映るのだろう。若緑色の目を水面に向けて、身じろぎもせずに海風を受けていた。
ルジームは笑い混じりに口を開く。
「そう顰め面をするな。褒めているんだよ」
「そうは聞こえませんが」
「年を重ねても偏屈にも偏狭にもならないところが、お前の良いところだ」
「はぁ……」
「わかっていないだろう」
「わかりませんよ」
ロルフが拗ねたように口を尖らせる。
長く人生を共にしているような気がしていても、この青年もやはりまだ二十代の若者だ。純粋に物事を捉え、時には危ういほど無垢に他者を考えている。
当時とは関係が異なるとはいえ、自分の指を切り落とした少年を何の抵抗もなくあっさりと受け入れてしまうところは、美点であり心配になる部分でもあった。
「お前はもう少し悪人になった方が良いな」
笑いながら言う主君に、ロルフは心外そうに眉を寄せた。
「貴方の手足として、私に不足がありますか?」
「おや、大きく出たな」
「ことこれに関しては私も自信家になりますよ」
「参ったな。そう言われてしまうと、不足はないと正直に言うしかなくなる」
「初めから揶揄わないでください」
揶揄ったつもりはないのだが。
ルジームは笑って、それからまた海の向こうへと顔を向けた。
既に視界には第一の王都が映っている。
「……さて。陛下になんと言い訳しようかな」
呑気な口調でそんなことを呟くルジームに、ロルフは苦笑いを浮かべた。
「いったいどれについての言い訳ですか?」
「多すぎて検討する気も起きない。だがここの選択が肝心だ」
「……先代の陛下でしたら、まず間違いなく魔術の存在を容認されなかったでしょう。今上陛下がどうなさるかですね」
魔術の有用性を、現状のこの国にとってそれが必要であるという危機感を、どこまで女王が解してくれるだろうか。
逡巡するように目を伏せたロルフに、ルジームは明瞭に答える。
「あの御方は理解するとも。しかし理解したところで、変革にはやはり不都合も多い。天秤をどうこちらに傾けさせるかだ」
「それでは尚のこと、神の子たる陛下に神秘の侵犯を認めさせるのは難しいのでは?」
クリュソという国の成り立ちを考えれば、秘術は神秘の一つとして神の管轄下に置かれ続けるべきであろう。
信仰を持たない魔術師の少年という存在は、この国にとって非常に危険な存在だ。
しかしルジームは確信めいた笑みを口元に浮かべた。
「我らが新女王は、神の子である前に研究者でな」
────────────────────────
「クリュソの女王というのは、どういった人物なの?」
ラルディムが思いついたようにロガレルに尋ねる。
ロガレルは緩く首を振った。葦色の髪が彼の表情を隠す。
「さぁ……あの国は秘匿性が高いですからね」
「本質的なことは聞いていないよ。外側のことで構わない」
「それすらも対国外の公的な情報ではわからないんですよ」
「公的な情報ではと言うなら、君はもっと知っているのでしょう?」
ロガレルは苦笑を浮かべた。
「やけに知りたがりますね」
「知っておくべきことだもの」
微かな音を立てて馬車が止まる。
城に着いたのだろうか。
とはいえ、どうせ安全確認や入城手続きでしばらく外には出られないのだ。ラルディムははやる気持ちを抑えるように自分の手首をきつく握りしめた。
「……私が城や国に戻ると決めた時点で、かの女王と対峙することは避けられない。多くを知っておかなければ」
「急ぐことはないんですよ、ラルディム様」
「焦りは良くない。けれど失った時間を取り戻す程度の加速は、私には必要だよ」
ロガレルの灰色の目が、何かを測るようにじっとラルディムを見据える。
薄暗い馬車の中で、色が薄いはずの彼の目は、何故だか妙にはっきりと見えた。
「ロガレル、そんなに心配してくれなくても大丈夫だよ」
ラルディムはゆっくりと微笑んでみせる。
「私は自分の弱さをよくわかっている。無理も無茶もしないさ」
「……貴方のその言葉にはどうも信用を置けませんね」
「では私が無茶をしたときには君が助けておくれよ」
そうしてくれるんだろう、と笑えば、ロガレルは困ったように髪をかき上げる。いつもの彼だった。
「全く、仕方ありませんね。貴方の好奇心にお応えできるかはわかりませんが、知ってる限りのことはお話ししましょう」
「ありがとう、ロガレル」
知っている限りではなく話せる限りだろう、という指摘は今は飲み込む。
ロガレルが何かを秘密にするのは今に始まったことではない。
そして彼は、意味のないことはしないのだ。
「クリュソ国の女王の選出の仕方は完全に国外に秘匿されています。ですから、この話は不十分なものであるということを覚えておいてくださいね」
そう前置きしてから、ロガレルは
「前にもお話ししたように、クリュソの女王は人ではなく神の子として扱われます。国民の前に姿を見せることはほとんどなく、臣下の前に現れるときも黒布で顔を覆っているとか。王権の補強に使われているのは黒華教と、女王自身の持つ神的な何かの作用でしょう」
「……魔術や神術とは言わないの?」
「俺はその存在には懐疑的です。が、貴方の話もある。実際に女王が魔術や神術を有している可能性も考慮しておくべきですね」
目で見たもの以外は信じないという主義。
世間を狭めているようで、これが一見不安定に見える彼の天才性を支えている地盤だった。
ロガレルがハクトに会ったのならばどうなるのだろうと、ふとそんな考えが浮かぶ。
魔術や神秘がロガレルの世界において当然のものとなったら、そしてハクトにとってそれが不可解な孤独ではなく有用な現実になったのなら。
きっと面白いことになっただろう。
選ばなかった選択肢を思って、ラルディムは微かに笑みを浮かべた。
「魔術はあるよ、ロガレル。君にとっては残念なことだろうか?」
「はは。面白くなるのなら何だって構いませんよ」
ロガレルはからりと笑った。
自信があるのだろう。世界がどう変わっても、自分の手で世界を扱えると。
「では神秘の存在が真実であると仮定して、クリュソではそれを基準に一般市民から女王が選出されています」
「市民から?」
思わず聞き返す。
「王家は存在しないのかい?」
「はい。次の女王を育てることが決まった際、適齢の女子の中から神力の強い少女を何人か選び、その中でとりわけ優れた資質を見せたものが女王になるとか。その選考基準に関しては、俺もまだ調べがついていませんね」
「……それなら、女王は人の子でしょう」
ラルディムは眉を寄せる。
本当に神の子なのだと信じているわけではないが、市民の中から一人を選ぶのでは設定の辻褄が合わない。
ロガレルは肩をすくめた。
「神が宿るのだと」
「宿る?」
「神を宿した女王が、神の名代として次に宿る少女を選ぶ。選ばれた少女は研鑽を積み、神の器になる。まぁ今代の女王は、先代が急死したこともあって不十分な状態だそうですが。神の子というのは子供という意味ではなく、神の小さな分身としての子なのだと思いますよ」
「……子は親の分身かい?」
「俺や貴方好みの制度ではないことは確かですね」
ロガレルは笑って言う。
「何にせよ、そういう閉鎖的で特異な空間から女王が生まれているということですよ」
「選ばれた少女には、本当の親がいただろうにな」
過ぎった考えが口をついて出てしまう。
その情緒的で実用性のない言葉に、ラルディムは自分で驚いたように口に手をやった。
「ごめん、そういう問題ではないね」
「……いえ」
ロガレルの返答は暗いものだった。
失言だったろうかと顔を見ても、何かに閉ざされたようにそこから何かを読み取ることはできない。
「……相手を人間扱いしては駄目なんですよ、ラルディム様」
少しの沈黙の後、ロガレルは重々しく口を開いた。
「例え神の子が本当は人の子であろうと、貴方と同じ年頃の少女であるとしても、彼女を人間扱いしないほうが良いんだ」
「それは、どういうこと?」
「貴方はこれからずっと対立していく相手が同じような人間だと考えて、戦い続けられますか?」
それは意外な言葉だった。
自分がそうできるかはわからない。
わからないが、きっとできるだろうと思える。答えられる。
だが、ロガレルがそうはできなかったということに、ラルディムは返す言葉を見失っていた。
「貴方はそういう現実に傷つかないほど鈍感でも、好戦的でもないでしょう」
そう言って笑うロガレルに、ラルディムは曖昧に頷くことしかできなかった。
確かに自分は傷つくだろう。悩みも苦悩もするだろう。
だがそれと同時に、自分は必要だと感じたら死や殺人を容認することも、卑怯な脅迫もできる人間だった。
ロベッタで確信したことだ。
悪や悲しみに目をつぶらなければ生きていけないほど、優しい人間ではなかった。
「……ロガレルも傷ついたの?」
彼は賢く強い人間だ。
自分のように傷ついたり迷ったりして揺らぐなんてことはないと、そう思っていた。
ロガレルは虚を突かれたような顔をして、それからまた声を上げて笑い出す。
「はは、俺がそんな殊勝な人間に見えますか。そりゃ嫌な思いくらいはしますが、それより重視してるものが俺にはありますから」
この言葉は本当だろうか。
顔を顰めるラルディムに非難の意図があると思ったのか、ラルディムが真意を尋ねる前に、ロガレルはいつもどおりの悪戯っぽい笑顔で言葉を継いでしまった。
「今更俺に道徳を求めないでくださいよ。貴方が悲しんでいても俺が動けるんだったら、そのくらいでちょうど良いでしょう?」
それは逆ではないのだろうか。
ロガレルがどういう人間であるのかを、今日まで深く考えてこなかったことに気が付く。
ここで知らなければいけないのではないだろうか。
そうしなければ、自分はずっと彼のことを誤解して生き続けてしまうだろう。
今だけは誤魔化されてはいけない。
問い詰めようと口を開こうとした時、間の悪いノックの音が空気を割るように響いた。
発しかけた言葉が宙に消えてしまう。
「ようやく準備が整ったようで」
ロガレルが窓掛けの隙間から外を見て、馬車の扉に手を掛ける。
「ここからは別行動になります。既にジスクが着いているので、そのまま裏手から彼と入城してください。俺は正門まで回ります」
「……わかった。ありがとう」
後悔と情けなさが心臓に広がるようだった。
「どうかお気をつけて。ま、万が一はないと思いますがね」
「君の方こそ。君よりはまだ私の方が剣を使えるんだよ」
「それを言われると痛いな」
ロガレルは楽しそうに言ってから、少し眉を下げる。
「貴方にとってどこよりも危険なのがご実家とは、笑えませんね」
「そういう生まれだからこそ、できることもあるというわけだ」
できないことばかりの今に目を背けてでも。
そうでなければ、ここに戻った意味がない。
馬車の外は暮れかけの陽光に包まれていた。
────────────────────────
王城を見るのは何年振りだろうか。
黒く陰って見えるその荘厳な姿に、ラルディムは嘆息をもらす。
昼の光の下では白く、夜には黒く聳える堅固な城。
外敵からの防衛のために作られた高い城壁は、ラルディムにとっては中に入ったものを逃さないためのものに見えた。
馬車が城の裏門を超えたあたりで、コンコンと窓が叩かれる。
ラルディムは窓掛けを少しずらして、相手を確認してから窓を開いた。予想通りジスクだ。
「ご無沙汰しております、殿下」
「ジスク。出迎えありがとう」
窓から身を乗り出して周囲を見遣るも、彼以外の姿はなかった。
城の近くでここまで無人であるのは、間違いなく作為であろう。ジスクが父やロガレルからどれほど信頼されているのか、ラルディムにもよくわかった。
ジスクがぎょっとしたように身を引く。
「殿下、危ないですよ」
「え? あぁ、すまない」
「警護の話だけではなく、そもそも馬車から落ちる危険がありますから……」
「はは、心配しすぎだよみんな」
ラルディムは声を上げて笑った。
こうして笑うのは随分と久しぶりのような気がする。
つられたのか何かがおかしかったのか、ジスクも口元に小さく笑みを浮かべる。
いつも張り詰めていたような彼の印象が揺らいで、ラルディムは目を瞬かせた。
「殿下よりも陛下の方が気を揉んでいられるようだ」
「……父上が、どうかされたの?」
「いえ。会えばわかりますから他言無用で」
またいつもの無表情に戻ってしまったが、それでも口調には悪ふざけのような響きが残っていた。
彼らしくないのか、こちらが彼の本質なのか。
何にせよ彼がそんな姿を見せてくれるような心当たりはなく、不思議な気分になる。
「ここにはジスクだけ?」
わかってはいたが確認のために尋ねる。
ジスクは首を縦に振った。
「そうであることを願ってます」
「というと?」
「私以外がいれば、それは良からぬ手合いということになりますから」
気を抜くなと言われているわけだ。
ラルディムはひりつくような緊張を感じた。
よく理解しているはずだったが、現実として捉えるのはまた違う。
幼い頃はこの城の孕む悪意を理解していなかった。そして理解できるような歳になった頃には逃げ出していたのだから。
この城は知らない場所だと思おうと、心の中で決める。
「……殿下にご相談が」
ジスクが言いづらそうに口を開く。
思い当たることがなく、ラルディムは首を傾げた。
「どんなこと?」
「陛下の警護に関してですが、やはりザミスをお側に置くことが一番安全であるように思います」
ひやりと冷たいものを首筋に当てられたようだった。
無意識のうちに唇を噛み締めて頷く。
「父の名代としてここに来ている以上、私一人では手が回らないこともあります。あれの人格には些か以上の問題がありますが、絶対に裏切ることがないと信用できるのもあれだけなのが現状です」
「……彼が納得するだろうか?」
「しないでしょう。ですが命令には逆らわない男です」
ラルディムの顔を見て、ジスクが薄茶色の目をついと細める。
「……もちろん無理にとは言えませんが」
ラルディムは慌てて笑みを浮かべる。
「はは、そんなに酷い顔してた?」
「……殿下とあれの間に根深い問題があることは理解しています」
ザミスのあの目を思い出し、底冷えするような恐怖が足元から迫り上がってくる。
こればっかりはどうにもならないのかもしれないと思いつつ、誤魔化すように苦笑を浮かべた。
「まぁでも、私も彼もお互いに変わっただろうしね。彼が加害者で私が被害者であるというような、そんな単純なことでもない。断る理由はないよ」
「では、そのように手配しておきます」
ジスクはそれだけ言うとまた厳しい顔で前に向き直った。
この城に戻った以上、対峙しなければならないものは数多くある。ザミスもその一つというわけだ。
馬車から降りジスクの後ろに着いて歩く間も、少しずつ重苦しい現実が近づいてくるようだった。
────────────────────────
さて、どうしたものだろうか。
ロガレルは口元を隠すいつもの仕草で、思考の奥にゆっくりと身を沈めた。
王と父がラルディムと自分をどう扱うつもりかわからない以上、下手に動くより相手の出方を待った方が賢い選択ではあるはずだ。
だが何もせずに待つというのは自分のやり方ではない。
何も捻らずに考えれば、二人はラルディムが自分の影響下から外れるようにと徹底的に分断してくるはずだ。
「対抗すべきか、或いはその方が良いのか……」
迷いをそのまま口に出す。
ラルディムの権威を借りずとも好きに動けるだけの権限は既に持っている。近い距離を保つ必要はロガレルにはなかった。
しかし、だ。
あの人を本当に王にするのであれば、出方には気をつけなければならない。
補助もなく彼が王位に就くにはあまりに障壁が多く、しかし積極的に擁護するにはロガレル自身に敵が多すぎた。
表向きにはジスクをラルディムの擁護者として立てたいのだが、あれも中々腹の底の見えない男だ。忠節と正義感には信用を置いているが、むしろそれ故にラルディムの側に置く人間として信用に足るかの判断がつかない。
馬車を降りながら溜息を吐く。
「全く、面倒しかないなこの城は」
「今回面倒を持ち込んだのは他でもない君じゃないかな?」
この地で聞くはずのない声を耳にして、ロガレルはばっと顔を上げた。
灰色の目を大きく見開く。
「どうして、貴方がここに?」
「おや、君がそれを言うのか。大ごとにしてくれたおかげで、私まで呼び出しを食らったよ」
「それは……」
「狙ってやったのかと思っていたけれど、その様子を見るにそうではないね。君にもまだ未熟があって安心したよ」
戸惑えば良いのか怒れば良いのかわからず眉を寄せてから、謝るべきなのかと思い至る。
「あぁ……ご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした」
「思ってもないことを口にするものじゃないよ。どうせなら会えて嬉しいくらいのことは言ってくれ」
「予定外の再会に、嬉しいも何もあるものですか」
ロガレルは首を振って、拗ねたように呟く。
そんな子どもらしい姿に、彼はにこりと微笑んだ。
「久しく会えずすまなかったね、ロガレル。我が従弟殿も無事到着したかい?」
そう白い髪をなびかせる彼は、この国に生きるもう一人の王族だった。
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