加藤 凪咲(1)

 「シャワー室、使いたいです」。加藤凪咲かとう なぎさは個室のカードキーと引き換えに、ネカフェのフロントでシャワー室の使用申請をしている。

 最近のネカフェはアメニティも充実していて、女性専用フロアや、アミューズメントコーナーがあったりもする。

 運悪く隣の部屋に、鼾のうるさい人や、一晩中オンラインゲームでタイプ音を刻み続ける人が入ってしまうと、寝不足は確定なのだが。

 諸々我慢するしかない事情が彼女にはある。そもそもココは、大なり小なりワケアリの人間が寝泊まりする場所なのだ。


 もともとは母と二人で、団地に暮らしていた。凪咲が十歳のときに、母が勤めていたスナックのお客さんが、当時中学一年生だった息子を連れて転がり込んできた。そして、いつしか四人家族に。


 「——家族、か」。目覚めの朝シャンで全身を清めながら、凪咲は、虚ろな表情で呟いた。


 一人っ子の凪咲は、生まれた時から母と二人きりだった。父親の顔は知らない。母が再婚するまで、男性の出入りは何度もあったので慣れていたけど、正式に家族になるパターンは初めてだった。

 ちゃんと戸籍上に父が加わったことが嬉しかったし、兄ができたことも新鮮で、ウキウキしていた。


 それから十年が経って、成人式の前撮りの日。上品かつ、どこか妖艶におめかしした、凪咲の晴れ姿。自然と所作もたおやかになる、不思議なものだ。

 それを見た……おにぃは、耳まで赤くして、固まっていた。その反応に、凪咲はすこし戸惑ったけど、気に留めないようにした。


 母は若い頃の無理が祟ったのか、だいぶお酒で内臓を悪くしており、すい臓がんと闘った末に、まだ四一歳という若さで逝ってしまった。立派に成人した娘を見て、安心しちゃったのかな。


 葬儀からしばらく経って、徐々に母の不在を実感した。根が明るい凪咲なぎさは、普段は気丈に振舞っていたけれど、ちょっと職場で嫌なことがあったときとか、些細なことでも愚痴を言い合えた母がいないことは、大きなダメージであった。ときどき、居間の仏壇の前で、こっそりと涙する。

 そして翌朝、腫れた瞼を見ては後悔していた。鏡とにらめっこしながらメイクで誤魔化していると、おにぃが「凪咲はかわいいよ」と、声をかけてくれた。


 凪咲は、兄がいてよかったと思った。もしも一人っ子のまま、母を失っていたら……天涯孤独だったはずだろう。

 痛みを分かち合える家族を遺してくれて、ありがとう。そんな風に、素直に思っていた。


 母が亡くなって、二年ほどが過ぎたある日。父は私たち兄妹きょうだいを居間に呼び出して、家を出て行こうと思っていることを、理路整然と伝えてきた。

 目立った遊び人ではないが、もともと色男である義父に、まだまだ次のチャンスがあることくらい分かってはいた。

 だけど本当に新しい相手ができてしまったんだと思うと、血が繋がっていないだけに、父を遠くに感じてすこし寂しかった。


 父は荷物をまとめると「なにかあったらいつでも連絡をよこすように」と、「お前たちも早く人生のパートナーを見つけて、俺にいい報告してくれよ」って微笑んで、足取りも軽やかに出て行った。

 古びた団地に残された、凪咲とおにぃ、二人きりの暮らしが始まった。





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