10 武家の女として、あなたの母として

 鬼孔きこうが湧き、そして消えた。


 主殿の奥に座していても、血腥い音と臭いを空気の中に感じた。どうやら鬼導丸きどうまるが破れ、全てが終わったのだろうことも察せられた。ならば鬼導丸にくみした深紅みくれは、ここで消えるのだ。


 最期の瞬間を、深紅は大鬼として迎えることになる。鬼頭きとうに嫁いだ日には、まさかこのようなことになるなど想像すらしなかった。


 よき妻よき母よき女主人として、幼少期から定められた轍の上を進んでいくのだと思い疑わなかった。己の特異なに薄々気づいていたとしても、人としてのささやかな幸せの中、天寿を全うするのだと確信していた。いいや、ただ信じたかっただけなのかもしれない。


 大鬼になった日、つまり初めて俗鬼ぞっきを口に含んだ時。生温かい肉塊に歯を突き立てようと決めたのは、息子の血筋を疑う夫に失望したからであり、鬼導丸に促されたからでもある。


 しかし、心の片隅で、微かに期待してもいた。鬼を食べてもこの身体に何も起こらなければいい。そうなれば、己は純粋な人間だと証明されたことになる。鬼を食って鬼格が上がるのは、無論のこと鬼だけなのだから。


 深紅は板床に敷いた畳の上に座し、腿に乗せた懐刀を撫でる。最期くらい、人間として迎えたい。ならば武家の妻らしく、自らの手で命を絶つのだ。


 騒ぎが収まりしばらく経った。そろそろ誰かが深紅を探しに来るだろう。それより前に、潔く逝こう。決意を固め、鞘を引く。刃が擦れる硬質で冴えた音が室内に響いた。瞑目し、おもむろに懐刀を持ち上げる。切先を心臓の辺りに突き立てた、その時だ。


「深紅様!」


 女の高い声が飛び込んだと同時、鋭い痛みが手に走り、懐刀が吹き飛び床を滑った。目を開く。眼前には、怒りを露わにした真均まさひとがいた。


「まあ、真均。どうしたの」

「それはこちらの台詞です。なぜ自刃など」

「ああ」


 深紅は薄く靄がかかったかのような意識の中、床に転がる刃を見た。どうやらあれは、真均に叩き落とされたらしい。視線を前へと戻す。片膝を突いた真均の背後に、手を揉みながら娘が立っていた。彼女の名は確か。


奈古女なこめ?」


 呼ばれてびくりと肩を揺らし、奈古女は頷く。


「は、はい。あの、深紅様。いったいこれはどういう……」

「見ての通りよ」


 深紅はふわふわとした気分で事実を告げた。


「死のうとしたの」

「どうして」


 奈古女の声に、首を傾ける。


「どうしてって……もう何もかも終わりだもの。武家の女はね、散り際を心得ているの。あなたも覚えておくのよ」

「武家の」


 奈古女が小さく呟き、真均がいっそう顔を険しくした。


「何が武家の女だ。おまえは大鬼。母上を食いその人格を写し取っただけの偽物だ。母上の顔で、母上の声で、武家を語るな!」


 鼻先を突き合わせた距離で激昂され、深紅はぽかんと息子の顔を眺めた。切れ長の目、細く高い鼻梁、険しい表情の作り方。見慣れた顔の造形に、思わず頬が綻んだ。


「殿にそっくりねえ」

「愚弄するか、大鬼!」


 真均の顔が瞬時に紅潮する。深紅は再び首を傾けてから思考を整理し、息子の大きな勘違いに思い至る。


「ああ、真均。まだ知らなかったのかしら。あなたはちゃんと、殿の子なのよ。鬼頭の嫡男なの」


 真均の口から、呆けたような声が漏れた。深紅は手を伸ばし、目の前にある額を撫でる。激情から生まれた小さな角が、確かにそこにある。


「だって、あなたには普段、角がないでしょう。半鬼ほど血の濃い鬼だというのなら、角を持って生まれてくるはずだわ」

「だが、三つ角は角を隠すことができた」

「真均、鬼の強さは遺伝しないの。考えてみて。人間が学んだこと、体験したこと。それらは一つも子どもに受け継がれないでしょう。それと同じ。親が食べた人の数なんて関係ないわ」


 真均の瞳が揺れる。では、この角はいったい何なのか。息子の疑問が手に取るようにわかり、深紅は淀みなく答えた。


「私自身が、鬼だったの。何代前の誰が鬼であったのかわからないのだけれど、私は薄く鬼の血を引いていた。でも、兄弟には角がない。私のこれは、先祖返りなの。つまり私はね、鬼に食われて大鬼になったから角を得たのではないわ。最初から鬼であった深紅が俗鬼を糧として、やがて大鬼になったのよ」

「馬鹿な」

「大鬼になる前は、あなたと同じだったの、真均。普段は人間と何も変わらない。でもね、心が弱ると、ここに角が出るの。昔からそう。ごめんなさいね。あなたにも、私の鬼の血が伝わってしまったのね」


 ——ああ、鬼の血が伝わってしまったのね。


 深紅は以前、全く同じ言葉を真均に漏らしてしまったことがある。元服の折、池の水面に映る自身の角を呆然と見つめていた真均に向けて。思えばあの一言が、真均に己の父親に関する誤認を植えつけたのかもしれない。


「ごめんなさい、真均」


 自然と言葉が零れ落ちた。目の前にある額を撫で、頬をさすり、何歳になっても愛おしい我が子を指先に感じた。しばらく放心したようになされるがままになっていた真均が、不意に我に返り顔を背けたのがどうしようもなく切ない。真均は、歯を食いしばって言った。


「母上。俺はあなたが憎い。あなたは父上を裏切り、鬼導丸と通じ、鬼頭の館を混乱に落とした」

「そうね、ごめんなさい」

「謝って済む問題ではない! いったい何人の郎党や家僕が命を落としたか。父上や、清高きよたかが、なぜ……」

「ごめんなさい」


 真均の鋭い眼差しを受け止め、深紅はただ、謝罪の言葉を述べる。彼は一生、母を許さないだろう。それだけのことをしてしまったのだ。罪の重さは理解している。しかし、深紅にはどうしても譲れない願いがある。


 腕を伸ばし、真均の肩を軽く押しやる。立派に成長した身体だが、ほんの僅かな力を込めただけで、後ろに傾いだ。


「さあ、部屋を出て。私はあなたの母として命を終えます。大鬼として皆の前に引き出され処罰されるのは嫌よ」

「何を」

「真均、憎いとはいえ、母の最期の願い、聞き入れてくれないかしら」


 真均は全身を凍りつかせて動かない。深紅は視線を上げ、奈古女に向けて言った。


「奈古女、真均を連れて外へ出て。息子を、頼みます」

「み、深紅様……」


 戸惑い、深紅と真均を交互に見る奈古女。煮え切らない娘の澄んだ瞳を、強い意思を込めて見つめれば、彼女はやがて落ち着きを取り戻し、口元を引き結んで頷いた。


「わかりました。若殿、行きましょう」


 二度三度と促され、仕舞いには腕を引かれてやっと、真均の硬直が解けた。それと同時に奈古女の手を振り払い、前のめりになって叫ぶ。


「綺麗ごとを! おまえのような女が、鬼頭の一員として死ねると思うか。おまえなど、鬼孔の中で生きながら鬼に食われ、死ぬに死ねない苦痛に悶え苦しみ、そして」


 その時だ。


 ぱん、と高い音が響き空気が震撼した。全てを見ていた深紅ですら何が起こったのか理解するまでに時間がかかったのだから、真均はいっそうわけがわからなかっただろう。


 半ば口を開いて見上げれば、奈古女が真均の頬を張った姿勢のまま、立ちすくんでいた。ゆっくりと、真均の顔が上がる。二人の視線が重なると、奈古女の顔面から血の気が引いた。


「あ、あ、あの。すみません。でも!」


 奈古女は下ろした手を真均の肩にかけて血の滲むような声音で言った。


「若殿、だめです。心にもないことを言わないで。確かに、深紅様は道を誤りました。でも、あなたを産んでくれた母親です。この世に一人しかいないお母さんなんです。そんな大切な人が、罪を悔やみ、人として、あなたの母親として人生を終えたいと望んでいるんです。こんな別れ方をしたら、一生後悔します。だから」


 奈古女の頬に、一筋の煌めきが流れた。


「一緒に行きましょう。外へ」


 しばらくして、奈古女に鋭い目を向けていた真均の身体から力が抜ける。彼は大きく息を吐き、深紅へ目を向けることなく廊下に出た。


 戸を閉じる間際、奈古女が気丈を装いながら、深く頭を下げた。その姿を見届けて、深紅の胸には言い知れぬ安堵が満ちた。


 ――ああ、よかった。


 気を取り直して懐刀を拾う。切先が胸元の布を薄く裂く。死の間際だというのに、奇妙なほど穏やかな心地だった。


 その静謐を揺るがすように、がたり、と廓下で物音がする。真均が、懸命に押し殺していた感情を爆発させて、声を上げた。


「母上! まだだ。待ってくれ。俺はまだ、あなたに何も訊いていない」

「若殿、だめです。深紅様を、逝かせてあげて」


 ――そう、本当によかった。


 ふと頬が緩む。真均に寄り添ってくれる人がいることが、この上なく嬉しいのだ。


 深紅の中に流れる薄い鬼の血を、しかと受け継ぎ生まれてしまった真均。その上、出生に纏わる疑惑により心無い噂に振り回されて、孤独を募らせていた。そんな息子を守ることができるのは、同じ血を引き数奇な運命をたどる深紅のみだと思っていた。しかしそれは、母親の驕りだったのだ。


 真均は中途半端な鬼だったが、自らの力で居場所を得ることができた。彼を胎の中で殺めようとしたのは間違っていた。無事に生まれてよかった、健やかに育ってくれてよかったと、今ならば心から思える。


 子は、親が思うよりもずっと強い。母の力などなくとも、自力で道を切り開くことができる存在なのだ。それを悟れば、一抹の寂しさが生まれるのも確か。しかし深紅はもう、この世界から消えていく。胸の疼きはすぐに去るだろう。ああ、でも。


「もう少しだけ、あなたの幸福を見届けたかった。でも、私にはその資格がないわね」


 ――どうか、幸せに。


 刃が突き刺さる直前、深紅は己の命を捧げて願った。


 やがて真均の腕の中に収まることとなったその亡骸は、慈母のごとく笑みを浮かべていた。

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