第二十二章 繋がり始めた運命

 博多の正午である。


 西中洲のカフェー『サンパウロ』にて、万葉子は古御門物見と向かい合って座っていた。


 冷やし珈琲を口にする。珈琲の香りがすっと鼻の奥を抜けていき、喉の渇きを癒やしていく。女性店員が珈琲を運び、店の片隅に座る少年がなにやら歌を口ずさむ。



 待てど暮らせど来ぬ人を

 宵待草のやるせなさ

 今宵は月も出ぬそうな


 ……



(竹久夢二だ……)


 少し昔の流行歌を、良い喉で歌っている少年は、寂しげに物憂げに、小雨の降りしきる外を睨んでいる。


 誰を待っているのか。その誰かはカフェーに来てくれるのか。万葉子は名も知らぬ少年の心に思いを馳せながら、しかしもう一方では、ひどく残酷な光景を脳裏に広げていた。


 事件のことを考えていたのだ。

 父の事件と、古館の事件。

 このふたつは、やはりどこかで繋がっているのか。


(もしも。……もしもだけれど)


 万葉子は空想を始めた。


(お父様が殺したとされる、桜の花びらを口に入れていた男性が、深瀬氏であり。殺したのが滝野川氏だったとしたら。そして滝野川氏はなんらかの理由があって、お父様にその罪を着せた。それからしばらく姿をくらました滝野川氏は、三年後のいまになって博多に登場した。それもお父様の名前を騙って、古館氏を殺害するために)


 証拠もなにもない。

 本当に空想である。

 だからこそ、どうせ空想なのだから、と万葉子はさらに考えを進めた。


(そうだとしたら、古館邸にやってきた犯人があれほど腕が立つのも納得ね。拳銃の扱いがたくみで、勝負度胸も十二分の実戦帰りなんだもの。……つまり滝野川氏は、深瀬久弥氏と、お父様――橘実明と、古館孝允氏と。三人に対してなにか恨みがあった。だから深瀬氏を殺して、お父様に罪を着せて、古館氏を殺して)


 そこで空想は中断した。


(だったらどうして、お父様だけ殺さないの? 恨みがあるなら殺せばいいのに)


 恐ろしい発想だが、どうせ空想、と思ってますます考える。


(それに、なぜお父様の名前を騙るの? 襲撃の予告状を出したのはなぜ? 窓の外から、古い拳銃でガラスを割って、それでどうやって古館氏を殺したの? いくら凄腕でも、二十六年式拳銃でああも遠くから撃っては殺人は難しいと、古御門さまも田ノ上警部も太鼓判を押していたもの。……それにそもそも、桜の花びらが深瀬の口に詰まっている理由は? ……ああ、もう、だめ……)


 空想は完全に断絶してしまった。

 破綻要素があまりにも多すぎる。


「古御門さん、万葉子さん」


 そのときだ。

 伊吹総七郎が店内に入ってきた。


「古館邸に入る段取りが取れました。今日の午後一時に古館邸に来て欲しい、とのことです」


「ありがとう、伊吹。よく手続きをしてくれた」


「僕と古御門さんの仲じゃないですか。粉骨砕身、努力いたしますよ」


 伊吹総七郎はニコニコ笑った。


 古館が殺された理由を探るには、やはり古館自身のことを調べねばならない。


 そう判断した古御門物見は、古館邸を調べるために伊吹総七郎に依頼したのだ。


 伊吹総七郎は古館からの信頼も厚かった。


 古館邸で働いていた者たちも、伊吹総七郎の頼みなら聞いてくれると古御門物見は判断したのである。


「よし、善は急げだ。いまから古館邸に向かおう」


 万葉子たちは、カフェーを出ると、目の前にある電停から路面電車に乗って、浜町へと向かった。


 ごっとん、ごっとん――ゆっくりと電車は、博多の町並みを西へ向かっていく。

 やがて電車は橋を渡った。左手に福岡県庁が見える。だが、三人は下りない。さらに線路の上を走る。


 渡っている最中、万葉子はふたりに先ほどの空想を語った。

 滝野川がもしかすると、すべての犯人かもしれない、と。

 証拠もなにもない、ただの妄想ですが、とも付け加えた。


「どうぞ、浅知恵だとお笑いください」


「笑うものか。手前が万葉子さんを笑うはずがない」


 真剣な顔で古御門物見は言った。


「確かに、桜、という単語からよくふたつの事件を結びつけたものだと思うが、その推測はまるで的外れでもあるまい。三年前の橘子爵の事件と、今回の事件は、やはりなにかが繋がっている予感がする。根が同じ、奇妙な無念を感じるのだ」


「古御門さんにしては、発想が幽霊的ですね。予感とか、感じるとか、そんなもので事件が

繋がりますか?」


「繋がらねば、それまでだが。……古館邸に行けば、答えも得られるだろう」


「私もそう思います。あの古館という方は、なにかを隠していた気もしますから」


 しかし、と万葉子は思う。

 すべての事件の真実が明らかになったとき、万葉子は父に対してどんな感情を持っているだろう。


 お定の事件で、父に対して失望を感じた自分なのだ。

 万葉子は事件を解決したいと望む一方で、真実を知るのが怖いと思いつつもあった。




 古館邸では、古館の部下である帯原やおシゲが待っていた。


「旦那さまの遺族の方が、明日にはこちらにいらっしゃるはずなので、そうなる前に調べてください」


 と、帯原は言った。


「伊吹さまを信頼してお任せしますが、なにとぞ、我々が調査に協力したことは他言無用に願いますぞ」


「もちろんです。秘密はぜったいに厳守しますよ。ねえ、古御門さん、万葉子さん」


「当然だ」


「もちろんです」


「……安堵しました。噂とはまるで違いますな」


「噂?」


「古御門さまは、悪魔。橘さまは、殺人犯の娘。そのような噂ばかり耳に入っておりましたが、お二人とも立派な方で」


「手前のことはどう呼ぼうと構わんが、万葉子さんは殺人犯の娘ではない。いや、仮に殺人犯の娘だったとしても、万葉子さんは素晴らしい女性だ」


「古御門さま」


「手前の、大切な妻だ」


 古御門物見は、かつてないほど強い調子で言った。


 万葉子は赤面した。だが、少しだけまつ毛が濡れた。


 人前でも、そしてニセの父親が出てきたあとでも、そう言ってくれたのが、本当に嬉しかった。


(古御門さま、ありがとう。……でも……)


 私のなにを、そこまで愛してくださるの?


 そう思った。

 それは、出会った直後から抱いていた疑問でもあったが。


 しかし、捜査に来た状態でそんな話など、できるはずもない。

 万葉子は黙した。伊吹惣七郎は、やっぱりニコニコしていた。


 帯原は、眼を細めて、


「左様でございますか。良いご夫婦で」


 それから帯原は、万葉子たちを二階へ案内してくれた。

 



 万葉子たちは、古館邸の調査にとりかかった。


 特に調べるべきは、古館の机の中にある書類であった。

 古館はなぜ殺されたのか、古館はどうしてニセ橘子爵に殺害予告をされたのか。

 攻略の鍵は、きっと古館の持っている書類の中にあるはずだ。そう思って三人は書類の山を次から次へとめくり始めた。特に古御門物見は、ものすごい勢いで紙をめくっていく。


「ひゃあ、すごいですねえ、古館さんは。噂には聞いていましたがこれほどとは」


「どうされたのですか、伊吹さん」


「金儲けですよ。世界戦争が起きた直後に、戦争に関わる株を大量に購入しています。化学関連や製鉄関連、石炭関連、輸送関連。なにせヨーロッパの企業が戦争のために生産できなくなりましたから、日本の企業が世界中に進出して大儲けしましたからね。ううん、しかし缶詰会社の株に目をつけているのなんか、特に見事です。かと思ったら戦争が終わる直前に売り抜いて、ずいぶん儲けています。やるなあ」


「くだらない話をするな。株取引程度のことでいいなら古御門家もやった。正しい取り引きならばなんの問題もない」


(そうだったんだ。だから裕福なのね、古御門家)


 骨董商としてろくに仕事をしている気配がないのに、生活のすべてに余裕があるのはそういうことだったのか。万葉子は心中でうなずいた。


「しかしねえ、それにしても辣腕らつわんですよ。戦争で活発に動いている製鉄所や化学企業の近くに呉服屋や飲食店を開いて大儲けしています。なにしろ会社員がグンと増えましたからね。そりゃあ、服屋や飯屋の類は儲けます。


 ……と、そこまではいいとして――その後、古館さんったら、質屋や金貸しまで営み始めている。その上、この書類、見てください。筑後のほうで、現地のやくざ者とつるんで、賭場とばの経営にまでいっちょ噛みしています」


「伊吹さん、お詳しいですね……」


「まあ、これでもいちおう経営者ですからね、あはは」


「手前たちも、やくざのようなものだろう。人様をこき下ろせる立場でもない――いや、しかし賭場の運営か。となると古館氏は、金絡みでなにか揉め事に巻き込まれていたのか?」


「でもそうすると、あの犯人が、私の父を名乗った行動が意味不明になりますよ」


「それもそうだな。ふむ……」


 考え込む古御門物見のかたわらで、万葉子はなお机の中を調べていたが、そろそろ書類の調査は終わり始めていた。


 古館がどうも、阿漕なやり方で儲けていた人物なのは分かった。


 戦争が起きた世相を利用して、表で裏で、相当の利益を得ていたらしい。


 これについて万葉子はあまり良い感情を持たなかったが、事件と関係があるのかどうか。そこがどうしても分からない。


(古御門さまの言う通り、お金に関する揉め事なのかな。父の名前は利用されただけ? ……お父さまの事件は新聞でもずいぶん報道されていたから、悪い意味で有名だもの。それを犯人が利用して、名乗りに使って……)


 万葉子はまた空想を繰り広げた。

 しかし今回の空想は、なにか違う気がした。

 父の名前が偶然に使われた? そんなはずはない。それは違うと思うのだ。なにか、きっと、別の理由が――


「古館氏の机の中は、これくらいですね。他に書類も、妙なものもない」


 伊吹総七郎が、少し暗い顔をして言った。


「どうも、決定的、と言えるようなものはありませんね」


「その通りだ。しかし」


「しかし。……なんです? 古御門さん」


「……いや。それよりも、もっとこの屋敷の中をよく調べよう。他になにか手がかりがあるかもしれない」


 古御門物見がそう言ったので、万葉子も伊吹総七郎も、屋敷の中をずいぶん調べた。例の縄がぶら下がっていた二階の窓のあたりも、目を凝らして眺めてみた。だが、怪しいところはなにもない。


 これはいよいよ手詰まりか――


 万葉子たちはさすがに疲弊しながら、一階に下りてきた。


「まあ、まあ。お疲れ様でございます。どうですか、皆さま、ひとつお紅茶でも」


 おシゲが、言ってくれた。


 断る理由もなく、万葉子は「それでは、ありがたく」と申し出を受けようとして、ふと一階の奥を見ると、ドアが開いて台所が見えた。


 そして台所の食器棚までがチラリと見えて――


「ああッ」


 万葉子は自分でも分かるほど血相を変えた。


「古御門さま、あれをご覧くださいませ。あの棚の中にあるものは」


「む。……すまない、台所に入らせてもらっていいか。いいな、入るぞ」


「あれ、お客様がそんな。男子厨房に入らずとも申しますのに」


「あはは、古御門さんにそんな言葉は通じませんよ」


 万葉子と古御門物見は、台所まで到着し、食器棚の中に入っていた『それ』を見つけた。


 間違いなかった。

 ポイゾナーズ・カップ、そのものであった。

 それも、模様から見て、橘家で購入し、あのお定の事件で使用されたものと同種類のものだった。


「古御門さま。ポイゾナーズ・カップはそんなにたくさん、あるものですか?」


「全世界で確認されているのが、二百十七杯。……だが、お定が使ったあのポイゾナーズ・カップは本来、八杯で一式ワンセットとなっているのだ。だから、あのとき使われた七杯のカップは同じ金メッキ模様だっただろう。……一式の中から一杯だけ無かったのは、紛失したものだと思っていたが……ここにあった! 間違いなく、このポイゾナーズ・カップは橘家にあったものの仲間だ」


(繋がった! お父様と、お父様を名乗る殺人犯と、古館氏が!)


 万葉子は、おのれの鳥肌をさすりながら、おシゲに向かって、


「あのう、あの。……おシゲさん。あのカップは、いつ頃から古館家このいえにあるものでございますか?」


「いやあ、どうでしたか。……三年か、四年くらい前に、旦那さまがご友人から戴いてきたものだったと記憶しておりますが」


「その友人とは――父、でしょうか?」


「まだ確証はないが、おそらく」


 古御門物見は深々とうなずいて、


「あのカップにはここから先、決して誰も手を触れるな」


 と、古館邸の部下たち全員に指示した。


「あの骨董品アンティークは、証拠だ」


 と、言ったうえで、古御門物見は、


「伊吹、田ノ上警部に連絡をしてくれ。このカップの件と、もうひとつ。先ほどの書類から、手前がひとつ不思議に思ったことがあるのだ。その件を調査にかかる。頼むぞ」

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