第十九章 悪魔男爵と白髪鬼
正門から入ると、庭は野球ができそうなほど開けている。
もともとは黒田藩に仕えていた家老の屋敷があった土地だったが、そこを古館が買い上げて、屋敷をつぶして洋館を建立したとの話だった。
「このあたり一帯には、よくある話なんですよ」
と、万葉子たちに同行した伊吹総七郎が解説した。
「維新以降、黒田家に仕えていたお侍さんが力を失って、その土地屋敷を東京からやってきた役人やら、あるいは新興の事業家やら成金が買い上げてしまうんです。ここから見えているあの屋敷は筑豊の石炭で儲けた商人、あっちの屋敷は八幡製鉄のお偉いさんです」
「ふうん。じゃあ、古館さんもそんな感じで屋敷を建てたのね。でもどうしてその人は博多にやって来たのかしら」
と、こちらは静の発言である。
橘子爵とは生前に何度も会っていたのだから、もし本当に生きているならわたくしもお会いしたい、ということで一行にくっついてきた静であった。
「なんでも、アジアにも炭鉱にも近い博多にさまざまな商機を見出した――ということらしいですが、別の噂もあるんですよ」
「と言うと、どんな噂かしら?」
「例の米騒動で、手持ちの会社がずいぶん焼き討ちされたものだから、これは危ないと思い東京から博多まで逃げてきたのだ、という話です。博多では米騒動は起きませんでしたからね」
そのとき屋敷の正門が開いて、五十歳ほどの老紳士が姿を現した。
「これはどうも、古御門男爵ですな。お話は田ノ上さんよりうかがっております」
「古御門物見だ。あなたが古館孝允氏か?」
「いいえ、私は旦那様にお仕えする
帯原に案内されて、万葉子たちは洋館に入っていった。
館の中は、入るなり左手にふたつの部屋があり、廊下の奥にもまた部屋がある。
柱も壁も模様から作りから、すべてが西洋かぶれであった。まあ凄い、と万葉子は内心舌を巻いた。かつての橘家も立派な邸宅だったが、和洋折衷のうえ七割が和風だった。ここまで完璧なる洋風の屋敷はなかなか、東京でもお目にかかれない。
「やあ、古御門先生。ご出馬ですな」
古館屋敷の一階では、田ノ上が待っていた。
「失礼ながら、一足早く参上しとりましたよ」
「警部、話は電話でした通りだ。橘子爵を名乗る者から手紙が送られてきて――」
「ええ、話はうかがっとります。まあ恐らく
「ちょっと怖いおじいさんですよ。皆さん、覚悟してくださいね」
伊吹総七郎が、低い声で言った。
万葉子は、思わずつばを飲んだ。
一階廊下をいくらか進むと、奥の部屋にたどり着く前に、左側に階段があった。
その階段を上り、踊り場で半回転して、また階段を上っていくと、左右にドアが登場する。帯原は右側のドアを開けた。すると、
「おおう!」
と、野太い声が聞こえてきた。
二十畳をゆうに超える広い部屋の中央に安楽椅子が置かれ、長い白髪の老人が腰かけているのだ。
「おいでなすったか。
気障ったらしい言い回しで、古御門物見を出迎えた老人は、にやにやと笑いながらも、眼光だけは稲妻のように鋭い。
(まるで
と、万葉子は第一印象で思った。
古館孝允のくちびる、その奥には牙が生えているような気がした。
「すべて話は聞いておるぞ。悪魔と呼ばれている骨董商、古御門物見男爵。そのご内儀になる予定で、こちらも女傑の片りんを見せ始めている才媛、橘万葉子嬢。はっは、はっは、実はわしも、お二人と一度会ってみたいと思っていた。それに、そちらが、竹原子爵の娘で、いまは実業家の人妻となった九十九静さん。……で、よいかな? 伊吹君」
「ええ、それで合っていますよ。お久しぶりです、古館さん」
「なに? 君とは少し前に会ったばかりじゃろうが」
「あれは昨年の冬でした。もう半年前の話ですよ」
「いかんな、君。それは若者のおごりだよ」
「と、言いますと」
「これくらい年齢を重ねると、半年前なんて三日前も同然じゃ」
「これは失礼。ところで古館さんの本当の
「心はいつでも二十五歳じゃ。はっは、はっは。……さて、冗談はさておき、悪魔男爵」
「その呼び方はもう決定なのかな、古館氏」
「わしはもう決めた。……悪魔男爵よ、君の内儀に奇妙な手紙が届いたと聞いたよ。まずはそれを見せてもらおうか」
言われて万葉子は、少し迷ったが、古御門物見がうなずいたので、手紙を古館に渡した。
古館は手紙を一瞥し「なるほど、わしの名前がある」とうなずいたが、
「しかし、妙な手紙だよ、こいつは。実はな、万葉子さん。わしは君のお父上、橘実明子爵と会ったことが、確かにある」
「本当ですか!」
「東京にいるころな。もう五年、いや六年も前だな。華族の集まりに呼ばれて顔を出したときに、名刺を交換し、話をした。……だが、それでおしまいだ。よくある話じゃないか。それなのに、この手紙ではわしが悪党にされておる。なにかねえ、こいつは」
「それでは古館氏は、橘子爵の事件について、まったく心当たりはないと?」
「ない」
古館は断言した。
「わしがなぜ、橘子爵をそんな、落とし穴に追い落とすような真似をしなければならんのか。理由がいっさいなかろうが。それに橘子爵は、確かに亡くなったのじゃろう。どうかね、万葉子さん」
「それは……確かです。父は亡くなりました」
「ならば、その手紙はやはり悪戯よな。おおかた、わしの成功を妬んでいる同業者あたりが書いたものではないかな。万葉子さんのお父上を追い込んだのは古館だ、という噂を博多中に流すために」
古館の推測は、いちおう筋が通っている。
父が本当に死んでいる以上、その父の名前を使って、古館の名声を失わせるために、何者かが画策したと考えるのは、自然ではある。
だが、
(なにか違う気がする。うまく言えないけれど)
三年前に起きた父の冤罪事件と、この古館孝允という老人。
そしてこの奇妙な手紙は、繋がっているような気がして仕方が無いのだ。
(そう言えば、父が殺したとされる謎の人物。口の中に桜の花びらが詰め込まれたまま、笑っていたという軍服の男性。あの人のこともまだなにも分かっていない。もしかして古館さんは、あの人となにか関係が?)
しかし軍服の男の姓名さえ分からない状態では、古館に尋ねることもできなかった。
「古館さんが、なんの心当たりもないとおっしゃる以上」
田ノ上が、困ったように眉根を寄せながら、
「この話はここでおしまい、ということになりますか」
「そういうことよなあ」
と、古館があごひげを撫でた瞬間である。
「旦那さま、旦那さま。おシゲです。旦那さま」
トトトトトン、とドアが激しく叩かれた。
「なんじゃ、客人が来ておるのに騒々しい」
「すみません。しかし旦那さま。いま玄関のあたりを掃除しようと思って向かったところ、門に妙な手紙が挟まれていまして」
「なに、手紙。……持ってこい」
古館が指示すると、ドアが開いて、三十歳くらいの女性がおずおずと入室してきた。
この屋敷に仕えている女性らしい。名前はおそらくおシゲというのだろう。おシゲは、手紙を古館に差し出した。古館はそれを受け取り、黙読すると、すぐに古御門物見へと着き出した。
万葉子たちは、全員で手紙を覗き込んだ。
『古館孝允へ
我こそは子爵、橘実明
貴殿の罪、知らぬ存ぜぬは通らぬ
世界戦争の流れに乗って金儲けした極悪人
私に無実の罪を着せた男
いまこそ天誅
必ず天誅
古館屋敷に血の雨が降る
こんや八時、必ず参上し貴殿を撃つ
万葉子、邪魔をせず待っていておくれ
古館はかならずや、この父が殺す』
「お、お父様っ……!?」
万葉子はがく然とした。
「万葉子さん。この手紙の字は、橘子爵のものか?」
「わたくしなら分かります。似ている気がしますわ。子爵の字に」
「静さんまでがそう言うのかあ。となると真実味が増すなあ……」
「し、しかし、いつ手紙は玄関に置かれたんだ?」
田ノ上は窓のほうへと急ぎ歩いた。
屋敷の二階はほぼ全面が窓ガラスで、外を見ることができる。
古館邸の正門は、ガラス越しに見ることができたが、いまは誰もいない。
そもそも、このあたり一帯はあまり人気のある場所でもないが。
「わたくしたちが先ほど玄関にいたときは、手紙などありませんでしたわ」
「僕らがこの屋敷に入って、古館さんと会って話をして、せいぜい十五分くらいの間に――」
「お父様が、あの場所にやってこられたと? まさか!」
万葉子も、ガラス越しに正門を眺める。
手紙を門に挟んだのが父ということは絶対にありえない。
父は死んだはずだ。自分がこの目で確かめた。
ならば、いったい誰が!
誰がこんな、手のかかることを!
「……馬鹿なことじゃ」
古館が、小刻みに震えていた。
驚くくらい、顔面を蒼白にしている。
先ほどまでの、温厚かつ大物な様子はもう微塵もない。
「橘子爵が生きているはずがない。生きているはずがないのだ。そうじゃろうが、万葉子さん。なぜ、こんな手紙が――け、警部。田ノ上警部。警察に連絡せい。今夜八時じゃぞ。八時に、ニセ子爵がここに現れる。わしを驚かす不届き者じゃ。絶対に捕まえるんじゃぞ、捕まえて、殴って蹴って、吊して叩いて――そう、拷問じゃ。拷問にかけてやれい!」
――――――――――
次回の投稿は、明日、土曜日の14時5分に行います。
また昼間ですがよろしくお願いします!
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