第十五章 連日連夜の殺人事件

 数分後、田ノ上率いる警官隊が現場に駆けつけてきた。


 正確に言えば、警察は博覧会の会場にやってきたところを、待っていた伊吹総七郎の案内によってミュラー邸にやってきたのだ。


「なんということだ、ミュラー夫人! 畜生、我々がもう少し早ければ!」


 田ノ上は愕然とし、アデリナの夫であるミュラーに深い哀悼の意を示した。

 ミュラーはまだ、茫然自失としている。


 そこへ、


「参った、また取り逃がした!」


 長門が勝手口から戻ってきた。

 その姿がまた、壮絶であった。


 軍服から勲章まで、血でびっしょりと濡れている。

 アデリナの返り血であることは明白だった。古御門物見は長門に近づき、


「団長。なにがあった。詳しく説明してくれ」


「ああ、無論説明しますとも。先生方と別れて、会場の南側で怪人を探していると、やつが会場の外に向かっていくのが見えた。そこで自分は追いかけていったんですが、怪人め、なんと、ミュラー君の家に入っていったのです。しかも、入り口を外から破って鍵を開けて」


「……なるほど。それで?」


「ちょうどそこへミュラー君もやってきたので、それっとばかりに我々は家に飛び込んだ。すると廊下の奥で、怪人青外套が刀を振りかざし、アデリナさんを斬殺したわけです。


 怪人はそのまま勝手口を開けて外に飛び出していったので、アデリナさんはミュラー君に任せ、自分が怪人を追いかけました。ところが面目ない、逃げられてしまって――こうして戻ってきた、というわけであります」


「青外套が、人を殺すっちゃあ……。小官はあの怪人、なぜだか殺人はしないような気はしていたんですがね。どこまでも愉快犯で」


「だが現実に人を殺している。愉快犯どころではない」


「アデリナさん……」


 万葉子はがく然として、アデリナの遺体に近づいていく。

 開いた瞳孔、真っ青な肌、飛び散った鮮血。薬指には鉄の結婚指輪。

 

 万葉子は屋内を見回した。

 左に、右に。


 入り口のあたりには割れたガラスが散乱していた。

 青外套が割ったガラスだ。その光景を見た万葉子は、思わず片眉を上げた。


(おかしい)


「気がついたか、万葉子さん。この景色が妙であることを」


 古御門物見が、万葉子にしか聞こえない声で語りかけてくる。


「はい。……いま、私は、犯人の立場を空想してみたのですが、家の外側からこのガラスを犯人が叩き割ったのであれば、ガラスはどうして外側に飛び散っているのでしょう」


「その通りだ。青外套が外から割ったのであれば、ガラスは屋内に向かって散っていないとおかしい。あれだと内側からガラスを叩いて破ったことになる」


「なぜ、こんなことに。アデリナさんが叩いたのでしょうか」


「そんなことをする意味はなにもないと思うが……。しかしアデリナさんでないとすると、あとは怪人青外套がガラスを内から割ったことになる」


「それこそ、意味が分かりませんが……」


「古御門先生、お話中のところ申し訳ありません」


 田ノ上が話しかけてきた。


「今回、先生に来ていただいた最初の目的を果たしていただきたく」


「青外套が持っている刀の件か。……見た。あれは徳川時代の後期に作られた新々刀しんしんとうだ。切れ味はかなりのものだと思うが、それほど貴重なものではない。さやのほうも見たが、そちらはもっと安物だ。どこにでもあるような木製の鞘を、恐らく青外套本人が青塗りしたものだろう。塗り方が雑だった。ついでに言えばあの外套マントも、よくある外套を素人が青く染めただけだな」


「なるほど、さすがは先生。となると、刀や鞘や外套の購入先から、青外套の正体を突き止めることは難しそうですな」


「染料から突き止めることも、難しそうですね」


「恐らくな。どこにでもある青い染料だった」


 怪人青外套。

 外見の派手さとは裏腹に、見つけ出すのは相当、困難なようだ。


「……アデリナ……」


 ミュラーが、突っ伏して、涙を、ぽたり、ぽたりと流し始めている。


「ミュラー君、泣くな。泣いても細君さいくんは帰ってこない。我々の手でなんとしても青外套を捕らえるのだ!」


「長門団長、ドイツ語でないとミュラーさんは分かりませんよ」


「お、そうか、そうでしたな。奥さんの言うとおりだ」


「ミュラーさん」


 万葉子は涙を流し続けているミュラーに、なにかドイツ語で慰めの言葉を口にしようとした。


 しかし、どうしても言葉が出てこない。なにを言っても嘘のように思えてしまう。万葉子は息を震わせて、ようやくつぶやいた。


「Die … Gerechtigkeit … siegt immer ……」


 ミュラーは、はっと顔を上げた。

 かと思うと、どこか怯えるような顔で万葉子たちを見回してから、また顔を伏せた。


 いまは、どんな言葉もきっと通らない。万葉子は古御門物見のところに戻って「いまは帰りましょう、古御門さま」とだけ言った。古御門物見はうなずいた。万葉子たちは、田ノ上に断りを入れてから、いったん帰宅することにした。


 はるか西の彼方から流れ込んでくる、わずかな夕陽が須崎裏町の路地を照らしていた。


「万葉子さん。先ほどは、ミュラー氏になんと言ったのだ」


「正義は必ず勝つ、と」


 ――この世界は悪に満ちている。

 ――しかし正義は必ず勝つんだよ。

 ――万葉子は正義を貫いて生きなさい。必ずだ。


 お定の一件で、正だったか邪だったか、本性が定かならぬ父の言葉だが、それでもなお万葉子は胸の内に秘めている。信念とするに足る言葉だと思うからだ。考えるだけで、勇気が湧いてくる。


(怪人青外套。必ず捕らえてみせる)


 やがて、待機していた伊吹総七郎と静、ふたりとも合流して、万葉子たち四人は下店屋町へと戻り始めた。


 夜が世界が訪れた。

 町の一軒一軒に吊された軒燈けんとうが、蛍のようである。


(願わくばこの光が、自分の向かう先を照らし出してくれますように)


 万葉子は願わずにいられない。




 翌日、万葉子は朝から古御門物見と散歩をしていた。

 朝食が終わるなり、夫が、


「海辺のほうを散策しないか」


 と誘ってきたからだ。


「いいですね。でも、ここから海に行けるのですか?」


「歩いて二十分ほどだ。……手前は平気だが、そうか、万葉子さんには少し苦しいか」


「いいえ、私も平気です。これでも労働を経験した身ですから、足腰には自信があります」


「頼もしいことだ」


 古御門物見は目を細めた。

 万葉子は夫の、こんな表情がすっかり好きになっている。


「では参ろうか」


「はいっ」


 こうして夫婦は下店屋町からまっすぐ北上し、やがて西に向かって橋を渡る。昨日、激闘の舞台となった博覧会会場が見えてきた。だが古御門物見は会場に入らず、その手前で右折し、さらに北上を続けた。すると、


「あぁ……」


 急に視界が開けて、西に向かってまっすぐ伸びている長い砂浜と、紺青の海が現れた。


 万葉子は深々と息を吸い込み、吐き出した。海辺にやってくるのは何年ぶりのことだろう。しばしの間、うっとりと景色に見惚れてから、潮風に身を委ね心の不安をひととき忘れる。それから少し経って、足元の砂を一握して遊びつつ、


「素晴らしいですね。博覧会の裏にこんな海辺が広がっているなんて」


「いいところだろう。手前もこの砂浜は気に入っている」


 古御門物見は笑顔も見せず。

 だが上機嫌なことは声音で分かった。


「博多に来てから、町のほうばかりうろついていたが、やがてこの砂浜があることを知ると、よく来るようになった」


「古御門さまは、博多のご出身ではないのですよね?」


「横浜の出だ。もっとも古御門家自体は、徳川時代の間ずっと、大坂で商いをやっていたのだがな」


「初めて知りました。古御門家と古御門さまご自身の昔を、もっと教えてください」


「もともと古御門家は無念にまつわる骨董品や逸話を集めることを家訓として続いてきた。事件や戦いが起こるたびに出向いては、無念骨董をかき集めた。特に戦争が起きれば、負けるほうによく肩入れして、無念骨董を集めることに躍起になっていたらしい。大坂に住んでいたのも、大坂の陣で豊臣方の味方をしたのがきっかけだったらしい」


「筋金入りですね。けれども、そんな古御門家が、どうして華族となったのしょうか」


「それが実は、馬鹿な話さ」


 古御門物見は、珍しく苦笑いを浮かべて、


「幕末のころ、古御門家は長州藩が負けると思って接近し、親しく交流したり銭を工面したりしていた。それがいつの間にか長州が勝利し、新政府となってしまった。古御門家は働きを評価され男爵家になったというわけだ」


「長州が負けると思っていたのですか。それなのに勝って、華族になってしまった……」


「いわゆる勲功家族だな。人々は古御門家を羨んだらしいが、当時の古御門家当主はそれこそ残念無念、計算違いを先祖に詫びたということだ」


「おかしい。男爵になったのにご先祖さまに詫びるなんて」


 万葉子は思わず笑ってしまった。

 古御門物見も、目を細めて、


「そういうことだ。その後は横浜で骨董商をやっていたが、手前の父親が日露戦争が終わった際、これからは大陸に近い博多に無念骨董が集まると踏んで、一家総出でこの町にやってきたわけだ。……妙な一族だろう?」


「摩訶不思議な運命を背負っていますね。橘家は戦国時代に槍一本で成り上がり、幕末まで続いた由緒ある武門の大名家――と自分では思っていましたが、古御門家と比べると、ただの大名だったと思ってしまいます」


「大名だったのだから、ただの、というのも妙だがな」


「ごもっともです」


 万葉子は、また笑った。


「無念骨董を集め続けた古御門家。そして当代の古御門物見さまも、これから無念骨董を集めていくわけですね」


「無論だ。それが手前の使命だと思っている」


「私も」


 そのお手伝いがしたい。

 あなたの妻として。


 そう言おうとしたときである。


「キャアアアアアアア!!」


 女性の悲鳴が聞こえた。


 西のほうからだ。万葉子と古御門物見は目を合わせてうなずき合うと、声のしたほうへ駆け始めた。


 途中、博覧会会場の裏手を駆け抜け、さらにミュラー夫婦の邸宅前にたどり着く。邸宅の前には、警察官がふたり控えていた。警察官は、古御門物見の姿を確認すると、


「これは古御門先生。いまの悲鳴はなんでしょう」


「この家から出た悲鳴ではないのか?」


「違います。我々がずっと見張っていましたが、怪しいことはなにも。ミュラー氏も、事件以降は長門氏のご自宅に宿泊しておりますので」


「では、いまの悲鳴はいったい」


「古御門さま、悲鳴はもう少し西のほうから聞こえたように思います。それも、恐らく海辺の家から」


 海辺で出した悲鳴だから、途中に障害物がなく、少し遠くにいた自分たちにも届いたのだろうと万葉子は推測した。


「もう少しだけ、西に向かいましょう」


 万葉子の言葉に、古御門物見は「よし」と首肯し、再び駆け出した。

 万葉子も続く。すると五分と経たないうちに、あばら屋と人だかりを発見した。


 近づいてみると、十数名の人だかりは近隣の住民らしい。誰もが仰天した面持ちをしていた。人だかりの中には警察官もいた。古御門物見と顔見知りらしいその警察官は、古御門物見を発見するなり「先生」と近づいてきて、


「お早いお着きで。さすがですな」


「いや、偶然近くを散歩していただけだ」


 住民たちがいっそう、ざわついた。……ありゃ、古御門骨董店の店主だよ。……悪魔の骨董商だ。……でも殺人事件にゃ強いらしいぜ。すぐに犯人を見つけるとか……隣の綺麗な女は誰だい?……事件があったらすぐに出てくるあたりがなんだか怪しいねえ。……


 聞こえよがしな噂話だったり悪口だったり賞賛だったりを、万葉子は内心不快に思っていた――あなたたちが、古御門さまのなにを知っているの!――と、叫びたかったが、古御門物見本人は知らぬ顔の半兵衛で警察官と話をしているので、必死にこらえた。


「いったい何事なんだ、この騒ぎは」


「二十分ほど前、この近隣に在住する漬物屋の井上サトという女が、このあばら屋から妙な臭いがすると気がつきましてね。あばら屋の主は白井義助しらいぎすけという三十歳の男です。井上サトとは顔見知りだそうで……


 そこで井上サトは『白井さん、どうしたとね、なんか臭うよ』と言って引き戸を引いてみたそうです。すると――この通りです」


「む……」


「古御門さま……」


 あばら屋の中には、鉄臭い血の香りが立ち込めていた。


 床の上に血が広がり、その中心部で男がつっ伏して倒れている。


 男の前には頭蓋骨ほどもある石ころがいくつか転がり、その横には日本刀が、そう紛れもなくあの怪人青外套が使っていた刀と鞘が転がっている。そして机の上には手紙が置かれていた。


『我 近頃 世間を騒がせし 青外套の正体也 ドイツ妻殺害の罪を悔いて自害するもの也 白井義助』


 白井義助、という男が青外套の正体だったのか?

 そしてアデリナ殺害を悔いて自殺してしまったのか?


 何か釈然としないものを感じながら万葉子は、じっと白井の遺体と脇に転がる日本刀を見比べる。そして気が付いた。


「古御門さま。この男性は『サンパウロ』にいた酔っ払いです」


「なに? あの店に? ……そうか、あの男か!」


「ええ、間違いありません。店員さんと揉めていたのを覚えています。三十歳だったのですね。もっと上かと思っていましたが……」


「青外套……カフェー……酔っ払い……刀……血まみれ……」


 古御門物見は腕を組んで、つぶやき始めた。

 明らかに脳細胞を働かせている様子だ。


 万葉子は、年齢の割にあまりにも深い皺が顔面に刻み込まれている白井を見つめながら、なにか巨大な謎が、壁となって自分の前に立ちはだかる感覚を覚えた。

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