第2章「キャンバスの向こう ―美意識の黎明―」
モンマルトルの小さなアパルトマン。
その一室に、パリの芸術界を代表する面々が集っていた。
煙草の煙が渦を巻く室内で、アブサンの緑色の液体が揺れていた。
ゴーギャンが、窓際に立ちながら、ため息混じりに切り出した。
「印象派も、もう限界なのではないかね」
その声には、どこか苛立ちと焦燥が混ざっていた。黄色い光を放つガス灯の下で、彼の浅黒い顔には深い陰影が刻まれている。
ロートレックが、車椅子に座ったまま鋭く反応した。
「そうとも! もっと大胆な表現が必要だ」
彼は興奮した様子で、手にしたアブサンのグラスを大きく揺らした。その仕草は、まるで見えない敵と戦うかのようだった。
「色彩の革命を起こすべきだ!」
その時、若いピサロが立ち上がった。彼の目は異様な輝きを放っている。
「光と影の戯れだけでは、もう魂を描ききれない。我々は、もっと奥深くまで迫らなければならない」
ゴーギャンが、壁に掛けられたモネの絵画を指差した。
「見たまえ。確かに美しい。だが、これは表面的な美しさに過ぎない。我々が求めているのは、もっと本質的なものだ」
暖炉の火が揺らめき、芸術家たちの影を壁に投げかける。誰かが「原始的な力を!」と叫び、別の者が「色彩を解き放て!」と応じた。
ロートレックは、テーブルに広げられたスケッチブックを力強くめくった。
「見るがいい。私が追求している新しい表現を」
そこには、大胆な線で描かれた人物画があった。現実の形を歪め、感情を極限まで押し出したその絵に、一瞬の沈黙が訪れる。
「これだ……」
ゴーギャンが、震える声で呟いた。
「形を歪めることで、かえって真実が見えてくる」
ピサロは、自分のスケッチブックを取り出した。そこには、原色の組み合わせだけで構成された風景画が描かれていた。
「色彩を理性から解放する。それこそが、我々の次なる挑戦ではないか」
議論は夜を徹して続いた。芸術家たちの情熱は、まるで実体を持つかのように部屋中に充満していた。彼らの言葉の端々には、時代を変えようとする強い意志が感じられた。
ローズは、その様子を静かに見つめていた。かつて美術修復師だった記憶が、この瞬間が歴史的な転換点であることを告げていた。彼女の目の前で、芸術の新しい地平が切り開かれようとしていたのだ。
(これが、フォーヴィスムとエクスプレッショニスムの産声なのか……)
しかし、その認識は胸の中にしまっておいた。今、この瞬間を純粋に体験することこそが、大切だと感じていたから。
21世紀の美術修復師として学んできた歴史が、今、目の前で生まれようとしている。その感動と共に、新たな使命感が芽生えていた。
「でも、みなさん」
ローズが口を開く。周囲の視線が集中する。
「色彩だけじゃない。形の持つ象徴性、線の持つ力強さ。そういったものすべてが、魂の表現になるのではないかしら?」
一瞬の沈黙の後、部屋が興奮の渦に包まれた。
「素晴らしい洞察だ!」
「ローズ、君は単なるモデル以上のものを持っているよ」
「それこそ私たちが求めていたものだ!」
芸術家たちの賞賛の声。しかし、剛志の心の中では、別の感情が渦巻いていた。
(俺は……いや、私は、ただのモデルじゃない。この世界で芸術の創造に関わる存在になれる)
その夜を境に、ローズのサロンは、パリの芸術界で重要な位置を占めるようになっていった。
◆
昼下がりのアトリエ。
剛志は、真剣な面持ちでキャンバスに向かっていた。
(色の配置が違う。もっと、こうすれば……)
絵筆を持つ手には迷いがない。美術修復師として培った技術と感性が、そのまま創作にも活きていた。
「見事な筆さばきだね、ローズ」
背後から声がする。振り返ると、そこにはゴーギャンが立っていた。
「ポール! いつからそこに?」
「しばらく見ていたよ。君の絵には、独特の魅力がある。技術的な正確さと、大胆な表現が共存している」
その言葉に、剛志は複雑な感情を覚えた。
(ああ、そうか。これが俺の――いや、私の絵なのか)
キャンバスに描かれた風景画。そこには、日本の伝統的な美意識とフランスの近代絵画の手法が、不思議な調和を見せていた。
「実は、私……」
言いかけて止まる。心の中で葛藤が起きていた。
(俺は本当は男だ。しかも、未来からやってきた日本人の男なんだ……)
そんな真実を、誰が信じるだろう。そして、それを明かす必要があるのだろうか。
「私、絵を学びたいの。もっと深く、芸術というものを理解したいの」
結局、言葉を選びながらそう言った。
ゴーギャンは静かに微笑んだ。
「いいとも。喜んで教えよう。だが、君にはもう、誰にも真似できない個性があるようだがね」
その言葉は、剛志の心に深く刻まれた。
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