【TS転生パリ芸術短編小説】「モンマルトルの残響 ~永遠を描く者たちのミューズ~」(9,860字)

藍埜佑(あいのたすく)

第1章「異邦の薔薇 ―転生の夜明け―」

 その日、宮崎剛志の意識は突如として闇に沈んだ。


「モンスィユール・ロートレック! お待たせいたしましたわ」


 次の瞬間、甘い声が響く。だが、その声の主が自分だと気づくまでに、剛志は数秒を要した。


 19世紀末のパリ、モンマルトルの人気娼婦ローズとして剛志が目覚めた瞬間だった。


 大きな姿見に映るのは、まさにベル・エポックを体現したような女性の姿だった。


 自然な輝きを放つ金髪は、緩やかな波を描きながら肩まで伸び、後ろで優美に束ねられている。その巻き毛は、パリの最新流行を意識した束ね方で、数本の髪が意図的に頬にかかるように演出されていた。髪の色は、北フランスの貴族を思わせる明るい金色で、室内の柔らかな光を受けては、まるで絹糸のように煌めいていた。


 顔立ちは、フランス人形を思わせる優美さだった。高く通った鼻筋、深みのある碧眼、薔薇色に染まった頬、そして艶やかな唇。それらが絶妙なバランスで調和し、官能と気品を同時に漂わせている。特に印象的なのは、長く濃いまつげに縁取られた瞳。その中に宿る知的な輝きは、単なる美女としてではない、深い魅力を感じさせた。


 深紅のイブニングドレスは、当代一流の裁縫師の手によるものだった。胸元から腰にかけての曲線を美しく際立たせる仕立ては、まるで彫刻のように完璧で、ドレスそのものが芸術作品のようだった。生地は上質なシルクサテンで、光を受けるたびに微妙な陰影を生み、深い赤色が様々な表情を見せる。


 ウエストは極細に絞られ、スカート部分は扇のように広がっている。裾には黒の刺繍レースが施され、そこに金糸で薔薇のモチーフが繊細に描かれていた。背中は大胆に開かれ、なめらかな肌の曲線を露わにしている。その肌は磁器のように白く、どこまでも滑らかだった。


 首には一粒の大きなルビーのペンダントが輝き、その深紅の色がドレスの色と呼応していた。手首には、繊細な細工の施された金のブレスレットが、さりげない華やかさを添えている。


 全身から漂う雰囲気は、どこか異国的で神秘的だった。それは、東洋の血を引く剛志の面影が、西洋的な美しさと溶け合って生まれた、独特の魅力だったのかもしれない。


 鏡に映るその姿に、剛志は言いようのない違和感と共に、不思議な親近感も覚えていた。それは、まるで自分の魂が新しい器を見出したかのような感覚だった。


「ああ、ローズ! 今日も君は薔薇のように美しい」


 アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレックの声が響く。その小柄な体躯から放たれる芸術家としての眼差しに、剛志は思わず身震いした。


 熊本県出身の32歳、美術修復師という経歴を持つ男が、なぜこのような状況に置かれているのか――。理解を超えた現実に、剛志の精神は混乱の渦に投げ込まれていた。


「ムーラン・ルージュでのポーズ、覚えていてくれたかな?」


 ロートレックの問いかけに、剛志は咄嗟に頷いた。記憶の中には、確かにローズとしての生活が存在している。だが、それは明らかに剛志本人のものではない。二重の意識が重なり合い、その狭間で剛志は苦悩していた。


 アトリエの壁には、ローズをモデルとした未完成のポスターが掛けられていた。官能的な曲線を描く女性の姿。それは間違いなく、今の自分の肉体だった。


「では、始めようか」


 ロートレックがイーゼルの前に座り、パレットを手に取る。その仕草には芸術家特有の緊張感が漂っていた。


 剛志は深く息を吸い込んだ。


(冷静に考えろ……。これが夢なのか現実なのか、それとも別の何かなのか。だが今はとにかく、この状況を受け入れるしかない)


 ゆっくりとソファに腰かけ、ドレスの裾を優雅に広げる。その仕草は、まるで本能的なものだった。


「完璧だ! その表情、その佇まい……まさに今わたしが描きたかったものだ」


 ロートレックの筆が、キャンバスの上で踊り始める。


(これが1890年のパリ……。俺が研究してきた印象派全盛期の、まさにその只中……)


 剛志の頭の中で、美術史の知識が次々と反芻される。この時代、このモンマルトルの地で、芸術の革新が起きようとしていた。その革新の中心にいた芸術家の一人が、目の前でキャンバスに向かっているのだ。


「ねえ、ロートレック。私の絵は、いつ完成するの?」


 思わず出てきた言葉に、剛志は自分で驚いた。

 女性らしい柔らかな声音。

 流暢なフランス語。すべてが自然に溢れ出てくる。


「芸術に完成などないさ。永遠に追い求めるものだよ、ローズ」


 その言葉に、剛志は何か大切なものを見出したような気がした。


 その日から、剛志の――いや、ローズとしての新しい人生が始まった。



 1890年のムーラン・ルージュは、パリの夜の喧騒を一身に集めたような場所だった。


 建物の外では、巨大な赤い風車が夜空に向かってゆっくりと回転している。その翼に取り付けられた無数のガス灯が、モンマルトルの夜を赤く染め上げていた。


 館内に一歩足を踏み入れると、そこは別世界だった。


 天井まで届きそうな背の高い鏡が壁一面に張り巡らされ、シャンデリアの光を幾重にも反射している。ガス灯と油灯が織りなす温かな光は、室内に官能的な陰影を生んでいた。


 舞台では、キャンカン・ダンサーたちが、フリルの付いた真紅のドレスをはためかせて踊っている。純白のペチコートが重ねられた裾は、踊るたびに大胆に持ち上がり、黒いストッキングに包まれた脚線美を惜しげもなく披露していた。彼女たちの衣装は、当代一流の衣装デザイナー、ジャック・デュシャンの手によるもので、それ自体が芸術品と呼べるほどの美しさだった。


 客席には、パリの上流階級の紳士たちが陣取っている。シルクハットに燕尾服という出で立ちの銀行家たち、ボヘミアンを気取った芸術家たち、そして労働者階級の男たちまで、身分の違いを超えて、この空間で交わっていた。


 テーブルの上には、アブサンのグラスが並ぶ。緑がかった液体に水を注ぐと、真珠のような白濁が広がる。「緑の妖精」と呼ばれるその酒は、甘いアニスの香りを漂わせながら、人々の理性を徐々に溶かしていく。


 寄せては返す煙草の煙は、高級な英国産タバコと安価な仏産タバコが入り混じった独特の香りを放っていた。その煙は、シャンデリアの光を受けて、幻想的な模様を空中に描いている。


 オーケストラの奏でる音楽は、オッフェンバックの軽快な旋律。その調べに合わせて、客席からは時に下品な野次も混じった歓声が上がる。フランス語、英語、ドイツ語が入り混じった声が、館内に響き渡っていた。


 剛志――今やローズとなった彼女は、その喧騒の中で、時代の空気そのものを肌で感じていた。


(これが、あの印象派の画家たちが描いた世界か……)


 美術修復師として、何度となく目にしてきた絵画の中の世界が、今、生々しい現実となって目の前に広がっている。デガの描いた踊り子たちの躍動感、ロートレックが捉えた人々の表情、それらが確かな手触りを持って存在していた。


 ステージ脇では、次の出番を待つダンサーたちが、小さな声で噂話に興じている。彼女たちの多くは労働者階級の出身で、夢見がちな目で客席の紳士たちを窺っていた。


 「ル・シャポー・ド・パイユ(麦藁帽子)!」


 酔客の声が、どこか懐かしいメロディーと共に響き渡る。アブサンで上気した顔を紅潮させた中年の紳士は、ぐらりと体を揺らしながら立ち上がり、当時パリ中で流行していたこの歌を歌い始めた。


 「ああ、麦藁帽子よ、君は夏の恋人……」


 その歌声は、まもなく周囲の客たちの声と混ざり合っていく。テーブルを囲む労働者たちが手拍子を取り始め、その横のブルジョワジーの男たちも、普段の威厳を忘れたように声を合わせる。客席の隅では、アカデミー・フランセーズの会員と思しき髭面の老紳士までもが、杖を突きながらリズムを取っていた。


 「麦藁帽子」の歌は、いつしか「ラ・マルセイエーズ」に変わり、今度は愛国心に火をつけられた客たちが、さらに大きな声で合唱を始める。その声に混じって、どこからともなく「ア・ラ・ペピニエール」の陽気なメロディーも聞こえてきた。


 その混沌とした空間の中で、剛志は圧倒されながらも、不思議な高揚感を覚えていた。ここには、21世紀の美術館では決して味わえない、生の芸術が息づいていた。


「ローズ! 今夜も相変わらず美しいね」


 常連客の銀行家が、にやけた表情で近づいてくる。


(こんな奴らの相手なんて……できるわけないだろ!)


 剛志の中の男としての矜持が激しく抵抗する。しかし、ローズとしての記憶と本能が、その抵抗を少しずつ和らげていく。


「ごめんなさい。今夜は具合が悪くて……」


 柔らかな微笑みと共に、巧みな言い訳で切り抜ける。

 それもまた、ローズとしてのしなやかな所作だった。


(このままじゃいけない。何か、別の道を見つけないと)


 その時、ふと目に入ったのは、壁に飾られた絵画だった。印象派の画家たちの作品。その中に、自分――ローズをモデルとした作品もある。


(そうだ。芸術なら……。これなら、俺にも)


 美術修復師として培ってきた知識と感性が、新しい可能性を示唆していた。


「ねえ、みんな」


 いつもの常連の芸術家たちに声をかける。


「私のアパルトマンで、サロンを開かないかしら? 芸術について語り合える場所を作りたいの」


 その提案は、予想以上の反響を呼んだ。


「素晴らしいアイデアだ!」

「是非とも参加させてほしい」

「ローズのサロンか……。これは面白くなりそうだ」


 芸術家たちの目が輝きを増す。その瞬間、剛志は確信した。これこそが、自分の進むべき道なのだと。

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