挿秧
あれからというもの、伍ノ山では
山は
水の滴る艶やかな黒髪から垣間見える白肌。
その奥に危うさを孕んだ曇りなき
俺の元へ駆け寄り、
───そして
『また一緒にお話ししてください!』
無邪気に放たれたその言葉。
それは今や、俺の脚をあの場所へ向かわせる呪詛と化していた。
「……今日も来ていない、か。」
当然だろう。蒅のまとう、あの妙な気配を感じたのはあれっきりだ。
ここ数日、暇さえあればこの社へ足を運んでいるが、まだ一度も会えていない。気配を感じ取ってから見に来くればいいものを、何故かこの目で確かめずにはいられなかった。
ここまでくると全て俺の夢か妄想だったのかと不安になってくる。仕方が無く、あの時共に気配を感じていた七宝柑の元へ確かめに向かった。
「よお、七宝柑。」
昨晩の宴で飲みすぎたのか、少し機嫌の悪そうな七宝柑が布団に横たわっていた。
「……何だあ?五色米ではないか。こんな朝っぱらからどうした。」
「もう昼時だ、お前もそろそろ起きねえと、木の根がからからに乾いていたぞ。」
七宝柑の山になる柑橘の実は、毎朝たっぷりと水をやらねばならない。雨の降っていない日はかなり大変だと聞く。
「応、そうだったか……。さっきから頭が痛くてかなわんので、水を撒く元気が無くてなあ……。五色米、頼む。代わりに水を撒いてはくれないかあ……。」
「まったく、早く花筏に頼んで治してもらえ。……まさかまだ許してもらえてねえのか?」
「御明答だあ……わっはっは……。」
「呆れた奴だ。仕方が無い、水撒きは俺がやっておいてやるから、安静にして早く治せよ。」
「痛み入るぞ、五色米!……して、そういえばお前は何故こんなところまでやって来たんだ。わざわざ俺を起こしに来たわけでもないだろう。」
「嗚呼、そうだった、実はお前に尋ねたいことがあってな。」
「ほう、何だ、言ってみろ。」
「以前、水涸に困ったお前が俺の山に来た時があっただろう。その時のことを覚えているか。」
「応、確かに、そんなこともあったなあ。話をしていたら錦雨が降り始めた時の話だろう。」
「その時、妙な気配を感じとったことは、覚えているか。」
「……はて、そんなこともあったような、無かったような……。すまん、よく覚えておらんなあ。」
「……はあ、いや、そうか。お前はあの後すぐに帰っていたからな。無理もない。具合が悪い時にすまなかったな、楽にしてくれ。」
俺は曖昧な七宝柑の答えに釈然としないまま、漆ノ山の水撒きに出かけた。
漆ノ山の真ん中にある大きな湖から水を汲んでいると、鼻の頭に冷たい雫が落ちる。
湖には細雨が降りそそぎ、水紋が幾つも重なった。
「おお、これはついている。天が味方してくれたようだなあ。」
僥倖に悦んでいると、ある事に気が付いた。この雨の匂いには嗅ぎ覚えがある。
あの妙な雨が降った日……蒅と初めて出会った日、雨上がりの池の近くで鼻の奥を撫でたあの匂いだ。
まさかと思い西の空を見やると、恵曇は伍ノ山まで漠々と広がっていた。
───……蒅だ。
俺は汲んだ水を放り、伍ノ山へと帰った。
そして、例の古びた社へと向かう。
蒅のまとうあの妙な気を、確かに感じ取りながら紫陽花を飛び越え、社の裏に辿り着いた。
「……蒅……!」
そこには、拝殿の軒下で座っている蒅がいた。
「あっ!五色米さん!!」
俺に気が付くと、表情を明るくして大きく手を振る蒅。
俺は逸る心を抑え、ゆっくりと歩み寄った。
「久しぶりだな、元気にしていたか。」
「うん!元気いっぱい!五色米さんは元気ですか?」
「勿論。俺が病に伏せば、雨どころか槍が降ると言われるくらいだ。」
「槍!? じゃあ五色米さんには元気でいてもらわないと困りますね!」
「はっはっは、違いねえな。」
話していると、蒅が何かを思い出したように荷物を漁りはじめた。
「えっと、えっと確かここに……あった!五色米さん、はいこれ!この前のお礼、持ってきました!」
「おいおい、気を使わなくてもいいんだぞ。」
蒅が濃紺の風呂敷を開いて見せると、中からは丸々とした薩摩芋が出てきた。
「へえ、薩摩芋か。秋でもないのによく太ったもんだ。」
「あき……?よく分かんないけど、うちの村じゃ芋は一年中採れますからね!とびきり大きいのを持ってきました!」
「はっはっは、そうかそうか、有難うな。嬉しいぞ、蒅。」
いくつなのかは分からなかったが、得意気に芋を見せびらかす蒅が幼子のように見え、つい頭を撫でた。
蒅は、一瞬驚いたような顔をしたが、満更でもない様子で、照れくさそうに笑う。
「へへへ、喜んでもらえてよかった……。五色米さんの手、大っきいですね。」
言いながら、俺の手に自分の手を重ねる蒅。
「………………。」
「……五色米さん?どうかしました?」
「嗚呼、いや、何でもない。お前の手は……小さいな。」
「僕は普通ですよ!五色米さんが大きいだけです!」
「はっはっは、そうだったか。」
それからは、俺の山で採れる作物や鬼の仲間がいること、村の民草のことなど、他愛も無い話をして雨が上がるのを待った。
「あっ、そういえば、五色米さん。」
今迄ひっきりなしに質問していた蒅が、俄に話を振ってくる。
「今日、どうして俺が此処にいるって分かったんですか?」
「…………なに、香雨が降ってきたから、お前のことを思い出したんだ。また迷い込んで、濡れているのではないかと思ってな。」
嘘では無い。妙な気を感じると言っても怪しまれるだろうし、ましてや暇さえあれば見に来ていたなどと言えるはずもない。
「え!俺のこと、心配して来てくれたってこと、……ですか……?」
「……そうだな。それと……。」
「それと?」
「お前がこの間言っていただろう。また一緒に話してくれと……それを覚えていた。」
それを聞いて、蒅は琥珀色の瞳をしばたたかせ、口を魚のようにはくはくと動かす。
「……蒅、どうした。声が出ていないぞ。」
「はっ……そ、その、嬉しくて、びっくりして……。実は僕、あれからまた此処に来ようとしてたんですけど、うまく辿り着けなくて……。だから、今日はやっと五色米さんと話せて嬉しかったです!」
そう言って、頬を染めながら「えへへ」と笑ってみせる蒅。
───まただ。
こんなにも無垢で素朴な笑顔だというのに、その根底には、おぞましいほどの何かが犇めいているような気がしてならなかった。
そしてきっと、俺はそれに惹かれている。
「……では、またこうやって話すとしよう。」
「……!いいの!? ……っあ、じゃなくて、良いんですか!?」
「はっはっは、慣れない言葉は使うもんじゃあねえよ。これからはもっと楽に話すといい。」
「あ、あはは、敬語、慣れてないのばれちゃった……。ありがとう、五色米さん!……でも、何時来れば、五色米さんと会えるんだろう。」
「好きな時に……といっても、難しいか。俺は今日みたいな雨の日に、よく暇しているぞ。」
「僕も、雨の日は水がすぐ濁っちゃうから、大体さぼ……お休みしてる!」
「そうか、それなら雨が降った日はここを見に来よう。」
「うん!二人だけの秘密の合図だ!わくわくするね!」
「はっはっは、すると、これは密会だな。」
かくして、俺と蒅の密会が始まった。
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