稲荷神

王水

田起こし

古くより米は神に授かった神聖な作物として、作られ、食されてきた。

「稲」は「命の根」を意味するとされ、その神気を含んだ命や力に我々はあやかっている。


──と言うのがこのに浸透する教えだ。


勿論、全くの出鱈目ではない。ただし、ここで言うとはこの五色米を指す。俺の霊力を蓄えて育った稲穂には、その力が宿っているため、食べれば力が漲り、強い身体になる。この山の米を食べた者は、その恩恵に感謝し、俺を神として崇拝するようになった。


今朝も民草共が、俺のことを崇め奉るため、拠点とする稲荷神社へ沢山の供物を抱えて来る。


「よお、皆、息災か。」


「これは五色米様、おはようございます。おかげさまで村の者は皆、病もなく元気に働くことができております。」


「それは何よりだ。……しかし、またそんな大層なものを…、供物などいいと、何時も言っているだろう。」


「いえいえ、こうやって健やかに過ごせているのも、五色米様のお力あってのこと……どうかこれからも、我らの村を宜しくお願いします。」


そう言うと、麓の村の者達は角を揃えて礼をし、にこやかに山を降りて行った。


───嗚呼、堪らんなぁ。


斯様に頼られ、必要とされ、縋られることこそ、俺の生き甲斐だった。

枯棺の手により、住処を追われた可哀想な者共。俺に護られることでしか生きてはゆけぬ、憐れな命。此奴らの命運は俺の掌の上だ。それを実感する度、背筋に歓喜の波がよせる。


そう愉悦に浸っていると、後ろからむしゃむしゃと何かを食い荒らすような音が聞こえてくる。


「これまた大層な供物じゃあないか、五色米!お前の山の者は皆、信心深くて見上げたものだなあ!」


俺に供えられた供物を勝手に頬張っているのは七宝柑。幼い頃から共に育った、腐れ縁のある鬼だ。


「おい七宝柑、食うならしっかり手を合わせろよ。皆がよく働いて用意した物ばかりだ。」


「わっはっは!花筏に会って、お前も随分丸くなったものだなあ。昔ならば五発は殴られていただろうに。」


「何だ、殴ってほしいと言うのなら、殴ってやっても構わねえぞ。」


「いいや、止めておこう。今のお前に殴られたら頭が飛んでいってもおかしくない。」


「はっはっは、手加減くらいしてやるさ。俺とお前の仲じゃあねえか。」


「それは有難い!わっはっはあ!」


七宝柑は俺に丸くなったというが、それは此奴も同じだった。昔は互いに尖り、よく啀み合っていたものだ。手を組むようになって花筏に出会ってからは対立せず協力関係にある。

───と言うより、今では気の置けない仲だ。


「ところで七宝柑、こんなところまで一体何をしに来た。」


伍ノ山と漆ノ山は、少し離れた場所にあり、顔を合わせる時は間に位置する捌ノ山に集うため、七宝柑がこちらに脚を運ぶことはあまりないことだった。


「応、それなんだが…近頃、漆ノ山では日照りが続いて、水涸れが酷くてな。伍ノ山は特に、今からが代掻きの時期だろう。心配で様子を見に来たというわけだ。」


「そうだったか。こちらで恵雨の兆しが無いということは、お前たちの山にも降っていないのだろうと思っていた。そして、お前の言う通り塊返くれがえしはもう終わり、水がないと田起こしができん。どうしたものか……。」


「雨乞いをしてもいいが、どうも俺はあれが苦手でなあ。雨乞いの上手い天泣松がに行ってしまったのは痛かった。」


「はっはっは、お前は昔っから晴れ男だったからなあ。ただでさえ雨乞いの術は成功率が低い。」


「そこでだなあ、五色米……。」


七宝柑が何かを頼む時の眼で俺を見詰めた。


「……さては、花筏に頼めず、俺に雨乞いの術をかけろと催促しに来たか。お前、この間の宴で随分羽目を外していたからなあ……花筏も立腹だったぞ。」


「わっはっは!話が早くて助かるぞ、五色米!花筏にはきちんと謝りに行ったんだが、何せ六回目だからなあ!なかなか許して貰えんのだ!」


「まったく、少しはその酒癖の悪さをなおした方がいいぞ。」


「わっはっはあ!考えておくとしよう!」


「しかし、そうは言っても、俺も雨乞いの術が得意な訳では無い。成功するかは分からねえ…ぞ…。」


会話の最中、ぽつりと一粒の雨が頬に落ちる。

それと同時に、山へ新たな客が入ってくる気配がした。


「……どうやら無駄足だったみてぇだな、七宝柑。」


「わっはっは!まあ良い!これで落葉の心配も無くなった!……ところで五色米、この妙な気は、お前の知り合いか。」


「いいや、全く知らねえな。今から様子を見に行くとしよう。七宝柑、お前は山に戻り、もしもの時に備えておけ。」


「わっはっはあ!お前が押し退けられるとは思えんが、一先ず戻るとしよう。幸運を祈る!」


七宝柑はそう言ってくるりと身を翻し、漆の山へ飛び去った。


肆ノ山、參ノ山の隣にあるここへは、思わぬ来客も多い。我が山の平穏を脅かす招かれざる者であれば消すことも厭わないのだが、今回は少し様子が違う。

真っ直ぐにこちらへ向かう訳でもなく、ふらふらと山の麓を彷徨っているようだ。


そしてこの不自然に降り始めた狐雨。


「……雨を呼ぶとは、天狐でも迷い込んだか。」


呟きながら、山裾にある神社の方へと向かった。


橋の下をくぐり、獣道のような茂みの中を進むと、大きな川へ出た。水面から頭を出している岩を足場に、向こう岸まで渡り、暫く行くと古びた社を見つける。境内の周りには、鮮やかなはなだ色の紫陽花が所狭しと咲き競っていた。


「……はて、こんなところに紫陽花の群れなどあったか。」


見覚えのない花絶景に見惚れていると、石段の方から足音が聞こえてきた。あの妙な気を纏った主は、どうやらこの先に居るようだ。


苔のむした濡れ石をゆっくりと踏み、拝殿を目指し上っていく。

最上段に辿り着いた時、その主の姿を目にした。


参道の奥、まだ降りやまぬ袖笠雨そでがさあめの中をくるりくるりと舞う青年が一人。


沢山の札を貼りつけた珍しい帽子に、癖のついた黒髪を結びつけ、花紺青はなこんじょうの羽織りをはためかせている。


かかとの高い洋靴は庭水を踏みちらし、行灯袴

を濡らしていた。しかし、そんなことに構う様子もなく喜色をあらわにする姿は、どこか夢想的で俺の目を奪う。


「……ほお。これまた、雨が良く似合う天狐だなあ。」


感嘆の溜息とともに、そんな言葉がこぼれ落ちる。


その声を聞いて、ぴたりと動きを止めた主は、此方を見るなり目を輝かせた。


「えっ…お、大っきい鬼さんだ…!この神社の神様、ですか!? 」


「はっはっは、神様なんて、大層なものじゃあねえよ。俺は五色米、この山を治めている鬼だ。」


「五色米さん!僕は蒅です!紫陽花の剪定をしていたら何時の間にかここに迷い込んじゃって…、帰り道も分からず、途方に暮れていたところです!」


「そうなのか?俺には、嬉々として雨と共に舞っているように見えたが……。」


「はっ……すみません!良い雨が降っていたので、つい…。水を被ると心が踊ってしまう性分なんです。で、でも、帰り道が分からなくて困っていたのは本当で……!」


「はっはっは、おかしな奴だ。なに、怒っているわけではない、そう縮こまるな。」


蒅と名乗るその男は、思ったよりも話の通じる者らしい。妙な気は依然として感じられるため、何か特別な力はもっていそうだが、敵意やはかりごとは無さそうだ。


「して、蒅とやら……。」


更に探りを入れようと蒅に問いかけたその瞬間、雨模様が一変し、篠突く雨が降り始めた。今日はやけに雨が言葉を遮る日だ。


「わあ、まずい!これ以上濡れると梵兄に怒られちゃう…!あ、あのっ…少しだけこの社で雨宿りをさせてくれませんか…?御願いします、五色米さんっ…!」


蒅は俺の元へ駆け寄り、珠のような雨雫をしたたらせながら、いたいけな瞳で縋ってきた。


───……ぞくり


蒅の見せたその表情に、俺の胸はひどく昂り、激しい高揚感が身を焼いた。


「……嗚呼、勿論だ。風邪をひく前に早く入るといい。」


俺はいつもの笑顔をはりつけ、内心を悟られないよう社の中へ蒅を誘う。


「ありがとうございますっ、五色米さん!」


安堵しながら実直に感謝を口にする蒅。

しかし俺は、その笑顔や言葉の裏にある何かを、そこはかとなく感じ取っていた。


「さて、どうするか……この様子だと、まだ止みそうにねえなあ。」


「じゃあ、その間ゆっくりお話できますね!」


「はっはっは、前向きでいいじゃあねえか。それじゃあ、蒅。まずはお前さんのことについて教えて貰おうか。」


「良いですよ!僕の村にも社があるんですけど……」


蒅はそれから数時間、住んでいた村や食べていたもの、共に暮らしていた家族について淀みなく話した。隠す様子もなければ聞いていないことまで話すところを見ると、枯棺の手の者では無さそうだ。何処からやって来たのかはとんと検討がつかなかったが、この話はいい酒のつまみになりそうだ。七宝柑にでも話してやるとしよう。


そう考えているうちに雨は上がり、社の窓から細い光が差した。


「あ!雨、やんだみたいですね!良かった、これで帰り道を探せる!」


「おう、良かったなあ、蒅。

……して、帰り道のことなんだが……俺が思うに、紫陽花を辿ってきたのなら再び紫陽花を辿って山を下ればいいんじゃあねえか。」


「あっ、そっか!そうしてみます!きっと今頃梵兄がかんかんに怒ってるから、もう帰らないと……。五色米さん、今日は本当に有難うございました!また一緒にお話ししてください!それじゃあ!」


そう言うと、蒅は社を飛び出して行った。


「おうい、一人じゃあ危険だ。俺も山を下りるまでは共に……っと、……はて。」


蒅を追って外に出たが、もうそこに蒅の姿はなく、あの妙な気は一切感じ取れなくなっていた。


寂しさをまとった社の端では、涙のような雨だれが紫陽花を穿つ。心做しか先よりも清らかに見える池の水から、涼暮月すずくれづきの匂いがした。


と言い残し去った蒅との再会は、何時になるのか未だ分からない。

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