2_子鹿狩り
少女の指差す先へヴィーリが振り向くと、二股に割れた木の裏から子鹿が顔を覗かせている。つぶらな瞳を二人へ向け、興味深そうに見つめている。幸運なことに、二人は獲物を見つけることができたのだ。
「あの子、こちらを見ているわ。人間が怖くないのかしら?」
「本当だ……この森は農民が来ないから、人間のことを知らないのかも」
「なら、近寄っても逃げたりしないわよね……」
リーズはゆっくりと、手を振りながら子鹿へと近づいていく。子鹿はその様子を不思議そうに眺めているが、立ち去る様子はない。
「危ないよ、リーズ」
「大丈夫。大丈夫よ……ほら、こっちよ。ほら」
リーズは十歩ほど子鹿へ寄ると、次はそちらが歩み寄る番だとばかりに手招きする。
彼女の意思が通じたのか、子鹿は木から身を乗り出したものの、それ以上近寄ってこない。リーズはしばらく鹿を誘い続けたが、それ以上に距離を縮めることはできなかった。そこで、秘策を使うことにした。
「こっちへ来て。ほら、美味しいパンをあげるわ」
リーズは懐から柔らかな白パンを取り出して、子鹿へちらつかせる。これは彼女が間食のために用意したもので、その香ばしい匂いにヴィーリも思わず釣られそうになる。子鹿も同じ気持ちなのだろう。ゆっくりと、ゆっくりと彼女の方へ歩み寄り始める。
「よしよし、その調子……いい、ヴィーリ? 鹿がこちらに来たら、一気に仕留めるのよ」
「……わかった」
少しでも軽くなるよう、背負ったものを地に降ろしてヴィーリは身構えた。槍を握りしめ、いつでも飛び出せるように――鹿が暴れたら、リーズのことを守れるように、身を屈めて脚に力を溜める。
一方の子鹿は彼の姿や鋭い目つきには気づかないようで、リーズの傍へ近づいて行く。
リーズは子鹿を更に誘い込むべく、パンを少しだけ千切って口元へ運んでみせた。パンを口の中に入れ、ゆっくりと、笑顔で咀嚼する。これは食べられるものだ。これはとても美味しいものだと、子鹿に語りかけているのだ。
彼女の狙い通り、子鹿は警戒心を忘れてパンの下へと駆け寄ってくる。そして、リーズに届くまであと僅かの距離まで寄ってきたその時――
「やああぁっ!」
弩から放たれた矢のように、両手に槍を構えたヴィーリが子鹿へ飛びかかる。木の葉のように広がった槍先が子鹿へ刺さり、ピィー! という甲高い悲鳴とともに赤い鮮血が飛び散った。
「きゃあっ!」
子鹿は苦痛に悶え、そのつぶらな瞳が恐怖に染まる。それでも子鹿は必死に身体を振り回して、襲撃者を振り払いにかかった。その力は凄まじく、ヴィーリはなんとか喰らいつこうと槍を抑えるも、呆気ないほど簡単に、槍ごと振り解かれて地面へ打ち付けられてしまった。
だが彼は痛みを感じることもなく立ち上がると、逃げ出す獲物を追跡せんとばかりにいきり立つ。
「逃がすかっ」
「ま、待って、ヴィーリ」
しかし、彼は追いかけることができなかった。声に振り向くとそこには、地面にへたり込み、頬に鹿の血を付けて、今にも泣き出しそうにしながらも両手を抱えるように震えるリーズの姿があったのだ。
「リーズ、どうした? すぐに追いかけないと逃げられちゃう」
「わ、私、怖くて動けないの……」
「怖い?」
リーズの言葉の意味が、ヴィーリには理解できなかった。自分が槍を突き刺して、子鹿は逃げ出した。今この場においては自分達が狩人であり、子鹿の命運を握っているのだ。傷つけられていないのだから恐怖を感じる必要などない。彼はそう思っていた。それどころか、この状況にある種の高揚感すら感じているのだ。
「怖くなんてないさ! しっかり刺さったから、そう遠くには逃げられないよ。早く行こう!」
「駄目よ……」
しかし、リーズは動くことができないようだ。泣きべそを書きながら、弱々しくヴィーリの服の裾を掴んでいる。
「どうしたのさ。もしかして、血が目に入ったの?」
「ううん。入ってない……でも、私、怖くて…………あんなに血が出るだなんて、思わなかったの。可哀想だわ」
ヴィーリは一瞬、呆れ返ってしまった。彼女は鹿のことを、槍で刺しても血を流すことのない、鉄で出来た生き物とでも思っていたのか。それに、狩猟に行こうと言い出したのは彼女の方なのだ。
「何言ってるんだよ……動物なんだから、刺したら血が出るよ。それに狩猟ってのは、こうなんだろ?」
「でも……」
リーズはヴィーリの顔を見つめ、震えながらも考えをまとめようとしている。だがその目線が左へ逸れて、彼が握る血塗れの槍が目に入ったとき、彼女は思わず目を背けた。
「ごめんなさい、ごめんなさい。……私、その、びっくりしちゃって。分かってたのに、あの鹿の悲鳴を聞いて、怖くなったの」
「リーズ……」
彼は本当のところ、すぐにでも獲物を追いかけたかった。鹿の傷は浅い。もう一突き二突きしてやらねば仕留めることはできないと、右腕に残る感触が伝えている。獲物をむざむざ取り逃がすことが、耐え難い屈辱のように感じられるのだ。
(でも、リーズを置いていく訳には……)
ヴィーリは振り向いて返事をすると、彼女の側へ座り込む。そして背嚢からボロ布を取り出すと、まず彼女についた赤い雫を拭ってから、次に槍にべったりと付着した赤黒い血を取り除いた。彼には、この赤色がリーズを怯えさせているように思えたのだ。だが、それでもリーズは泣き止まない。
こんなときに、どうやって慰めてやればよいのか彼は知らなかった。自分が泣いていたときはどうだったかを思い起こそうとして、最後に泣いたのがいつかすら思い出せなかった。涙を流す彼女を前に何もできない自分が情けなく思えてきて、身を包んでいた狩りの興奮は一気に冷めきってしまった。
「リーズ、えっと……こ、怖くないよ?」
なんとか絞り出した慰めの言葉にも、リーズは返事をしない。声が届いていないのか、言葉選びを間違えたのか、ヴィーリにはまるでわからない。彼はただただ彼女の悲しみを拭ってやりたかったが、それができない。リーズのことが、わからないのだ。
不意に、周囲がざわざわと鳴り始めた。風が吹きだして、枝を激しく揺らしている。ヴィーリはせめて、風から守ってやろうと思ってリーズの背後へ移動して、羽織っていた外套を――随分と汚らしい外套なので、一瞬躊躇したが――リーズの背に掛けてやった。
「ひっく…………あ、ありがとう。ヴィーリ……」
するとリーズは振り向いて、小さく笑みを作ると外套の両端を握り締め、自身を包むようにしっかりと羽織った。それで落ち着きを取り戻したのか、彼女の泣き声は次第に小さくなってゆく。そしてぽつりぽつりと、雫をこぼすように話し始めた。
「私、知ってたのに……狩りをすると獲物はどうなるのかって、知ってたのに」
リーズが話し始めたとき、ヴィーリはほとんど無意識に、彼女の小さな手のひらに自身の手のひらを重ねていた。何と返事をすれば良いかわからなくとも、話を聞いていると伝えたかったのだろう。
「お父様の話を聞いて、狩りってかっこよくて、誇り高いことで……楽しそうって思ったの。さっきだって、パンでおびき寄せて。私、子鹿と遊んでいる気分だったの。でも、あの子すごく苦しそうで、目が、痛い、痛いって」
「リ、リーズのせいじゃないよ。やったのは、俺だから……」
「私の所為なの! 私、立派になったつもりで、ヴィーリに命令して……私が、あの子を――」
リーズの悲しみがぶり返して、再び肩が震えだす。その時だった。風に揺られる枝の音にまぎれて、ひときわ大きな音――草木をかき分けてこちらへ向かうなにかの足音がきこえてきた。音のなる方へヴィーリが振り向くと、そこには先程の子鹿がいた。そして、その遥か頭上で煌めく角が見える――
「え…………」
そしてもう一匹、子鹿の倍は大きいであろう鹿がその前に立っていた。ヴィーリよりも大きいその鹿はひどく興奮した様子で、彼を睨みつけながら頭を下げている。その仕草は決して友好的な挨拶ではない。鹿の頭から生えた角が、その鋭い先端がヴィーリへ向けられているのだ。まるで先程、彼が子鹿へそうしたように。そして、その続きを再現するかのように、大鹿が走り出す。
「リーズ!」
ヴィーリはとっさにリーズの手を引いて、大鹿の進路から逃げ延びた。鹿は曲がることができなかったのか、二人が居た場所を通り過ぎて、その先にある大木へ身体をぶつけた。しかし怯むことはなく、ゆっくりとその身を翻した。
「何? 何? どうしたの?」
「親を連れてきたんだ。逃げないと!」
状況が掴めないながらも、リーズはなんとか彼の動きに合わせて脚を動かした。ヴィーリは彼女を引っ張って、ただひたすらに逃げ出した。茂みへ入り、段差を上り、あの怒り狂う親鹿から少しでも遠くへ逃れようとする。
今や両者の立場は完全に入れ替わってしまった。二人は、狩猟される側なのだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます