狩猟
丸宮亜門
1_少女と召使い
思い思いに伸びた木々が鬱蒼と立ち並び、初夏の眩しい日差しを遮っている。湿った土の香りと草花の青々しい香りが混ざり合い、小鳥がさえずる森の中。その中で唯一人の手で作られた道の上を、ふたつの人影――少年と少女が歩いている。
「それでね。お父様がやっつけたイノシシはね、こーんなに大きかったのよ」
前に立つ少女は両手を精一杯広げて、イノシシの大きさを表現した。手入れの行き届いた艶めく青髪と、その身に纏う可憐な、柔らかな絹で織られた召し物がこの小さなご令嬢の立場を物語っている。
「ふーん……そんなにでっかいなら、半分でも持って帰ってくれたら良かったのに。きっと、美味かったんだろうなあ」
後ろに付き従う少年は対照的に、ぼさっとした焦げ茶色の髪と、汚れて穴の開いた亜麻の服という出で立ち。太くごつごつと育った両手で粗末な槍を握り、背中には背嚢を担ぎ、肩に弓を掛けている。
「もう! ヴィーリったら食事のことばかり。お父様の勇敢な姿を知りたくないの? 鋭い弓矢の一撃で、イノシシをやっつけたのよ」
「それ、リーズが見たのかよ? 旦那様って、イノシシどころか鼠一匹見ただけで大騒ぎじゃん」
「なによ! 確かに、あたしは見てないけれど……でも、みんなそう言っていたわ」
リーズと呼ばれた少女は頬を膨らませて抗議する。
彼に限らず使用人達は皆、どうして父をもっと尊敬しないのだろうか。父はいつだって優しいし、忙しい時間の合間を縫っては本を読んでくれる。使用人に対しても、彼らをぶったり、なじったりする姿を見たことはない。にも関わらず不満や悪口を零すのは何故なのか。彼女は常々疑問に思っていた。
「どうしてみんな、お父様のことを臆病者って言うのよ。お父様は北の異教徒とだって戦ったことがあるのよ。本当なんだから! そのとき公爵様から貰った勲章はキラキラって光って、とっても綺麗なのよ」
「わかった。わかったよリーズ……俺が悪かったよ」
「分かったらいいの」
少女はふふんと鼻を鳴らし、満足げに頷いた。一方少年のほうは小さな溜息をつき、顔にはあからさまな不服の色が浮かんでいる。
彼女の父に対する二人の評価は異なるようだが、ひとまずは父の名誉を守ることができたので、リーズはご満悦だ。先程よりもさらに勢いよく腕を振り、森の奥へとどんどん進んでいく。
しばらく進んだところで彼女はくるりと振り返り、眩い笑みを浮かべて言った。
「でもね、ヴィーリ。今日の狩りが上手くいったら、今度はあたし達が勲章を頂く番よ!」
波打つような髪、宝石のように輝く薄紫の瞳。雪花石膏のように白く透き通る肌と、そこに差すほのかな赤らみ。背に控える陽光に照らし出されたリーズの姿に、ヴィーリは一瞬言葉を失った。
「……どうしたの?」
「い、いや、なんでも……よし。旦那様がやっつけたのより、もっと大きい獲物を探そう」
「うんっ……こほん。では、良きにはからえ!」
「仰せのままに、お嬢様」
父の真似だろうか、リーズはわざとらしく咳払いをして、いかにも尊大な態度で振る舞ってみせる。それに応じるように少年は頭を垂れ、恭しく一礼する。これは彼らが慣れ親しんだごっこ遊びのひとつだ。
彼女の満足そうな様子を見たヴィーリは、槍を力強く握り締めた。そうして二人は、森の奥へと進んでいく――。
初めて足を踏み入れた森という空間に、リーズはすっかり心を奪われた。彼女は蝶を見ては追いかけ、花の香りを嗅ぎ取れば茂みの中へと飛び込んでいく。ヴィーリは危なっかしい少女を追いかけることに手一杯で、獲物を探す余裕もない。もし一瞬でも彼が目を離してしまえば、彼女は瞬く間に消え去るかもしれない。そう思わせるほどに、彼女は元気一杯だった。
「見てヴィーリ。綺麗なお花よ。白くてラッパみたい……持って帰って、庭に植えてもらおうかしら」
リーズは茂みの中でしゃがみ込み、両手で包み込むようにして可憐な花を眺めている。
「そんなの放っておけよ。わざわざ今摘まなくても」
「でも……ほら、ヴィーリもこちらに来て。いい香りでしょう? これが庭に咲いていたら、素敵だと思わない?」
ヴィーリは言われるがままに花へ近づく。すると花弁の奥から甘い蜜の香りが漂い、鼻をくすぐった。それと同時に、ツンとしたミントのような香りもする。その香りがどこから来るのか目でたどると、どうやらリーズの方から来ているようだった。
彼はまた、彼女の服が汚れていることにも気付いた。彼女が茂みの中で何かを探すたびに、この純白の服に泥や草木が貼り付くのだろう。そう考えると、彼はその光景が気に入らないと感じた。何か大切なものが、汚されてしまったように思えるのだ。
「いいから、早く行こう。ノロノロしてたら日が暮れちまう」
「ちょっと、ヴィーリ? もう、引っ張らないでよ」
ヴィーリは少女の腕を掴み、半ば引きずるように茂みから遠ざける。リーズは名残惜しそうに花へ手を伸ばしつつも、彼へ抵抗はしなかった。
「全く、こんな泥塗れにして……」
そのまま彼は背嚢から布切れを取り出して、彼女のショートドレスについた泥汚れ。特に、フリルや手袋にこびり付いた汚れを重点的に落とし始める。
「どうしたのよ。急に」
「こんなに汚れたまま帰ったら、俺が旦那様に叱られちまう」
「この後も汚れるのだから、今綺麗にしても……」
「駄目だ」
地面に膝をつけて、彼は真剣な面持ちで汚れを落としていく。その手つきは熱心で、まるで主人からそう命じられたかのように、献身的に動き続ける。行動の意図がわからずリーズは困惑したが、彼のなすがまま好きにさせてやった。
「これでよし」
「……変なヴィーリ」
この静かな作業がしばらく続いて、ようやくリーズは開放された。ヴィーリは満足げに頷いてから立ち上がり、手についた泥を払う。それからリーズの方へ向き直ると、自身をじっと見つめる眼差しにぶつかった。
彼は途端に、自分が何をしていたのかまるで分からなくなってしまった。なぜ汚れが許せなかったのか、なぜ自分はリーズへ傅いていたのか。その行動はほとんど無意識のもので、彼自身にも理由が見えない。そして彼女の瞳が、その行いを無言で問い質しているように感て、ヴィーリは慌てて目を逸らす。
「え、えーっと……獲物はどこにいるんだ? まだ歩かないといけない?」
「どこにって、それを今捜しているんじゃない」
「えっ……?」
ヴィーリは狩猟の作法に詳しくない。それでも、始まる前から獲物が決まっているということは知っていた。そして彼は、自分でも知っていることは、当然リーズも知っていると信じていた。
「狩りの獲物って、先に用意してるんじゃないの?」
「あらそうなの? お父様は、森の中を歩いているときに見つけたと言っていたけれど」
「いや、でも、ジェラルドは……」
そこまで言って、ヴィーリは口を噤む。屋敷に仕える狩人――ジェラルドが零していた愚痴を思い出したのだ。「ああ、旦那様に隠れてイノシシを運ぶのは一苦労だ」と。
「ジェラルドから何か聞いているの? いつもお父様と一緒に狩りをしているから、言う通りにすれば間違いないわ」
「いや、えーっと……」
ヴィーリはその先を言い淀む。獲物がどこから来たのかをトマシュ――リーズの父親に隠しているならば、きっと娘にも隠しているだろう。にも関わらずその事実を明らかにするのは、良くないだろう。そして何より、期待に満ちたリーズの気持ちを壊してしまうのではないか。
「ああ、そうだ! ジェラルドの奴、鹿の鳴き声そっくりの笛を持ってたんだよ。しまったな、借りてくればよかった」
「まあ、そんなものが?」
「そうなんだ。あのジジイが隠れて笛を何度も鳴らすから、庭に鹿が迷い込んだのかと思って探し回ったことがあるんだよ」
記憶の隅を探し回って、ヴィーリはなんとかその場をやり過ごした。それと同時に、獲物を捕らえるための武器こそあれど、見つけるための方法は何も持ち合わせていないということに気付いた。あの忌々しい鹿笛も、獰猛で無愛想な猟犬も、ここにはないのだ。
「でも、今日は持ってないからさ……足跡や臭いで探すしかない」
「臭いだなんて。辺り一面土ばかりだから、イノシシの臭いなんて分からないわ。それに足跡も。あたし、鹿にもイノシシにもお会いしたことないの」
「俺は見たことあるけど……でも、足跡は覚えてないかも」
少女は辺りをキョロキョロと見渡し、鼻を鳴らして臭いを嗅ぎ取ろうとし、すぐに顔をしかめてしまう。ヴィーリも聞き耳を立ててみたが、鳥の鳴き声と枝葉が揺られる音ばかりで、大きな生き物の気配は感じられない。
二人の顔が自然と向き合い、気まずい沈黙が流れる。リーズの笑顔がみるみる萎れていくのを彼は何とかしたかったが、どうにもできなかった。
少年は目を見開いて必死に獣の痕跡を探したが、駄目だった。広大な森の中にはありとあらゆる箇所に自然の痕跡が存在し、それが獣によって作られたものか、天によって作られたものか、経験も知識もない彼がこれを見分けることは、到底不可能なのだ。
途方に暮れたヴィーリが何と切り出そうか悩んでいたとき、リーズが囁くように声を発した。
「ね、ヴィーリ。あちらを見て。ほら、子鹿がいるわ」
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