第2話
瞳を、開いた。
そこにある海の幻視。
違う。光のある海の色。
「……ラファエル……」
その名を呼ぶと、ネーリのことを覗き込んでいた彼は、優しく微笑ってくれた。
長い間会わない人の顔や、名を忘れていくのだとしたら、ラファエルやフェリックスは十年もの時を経ても、まるで昨日会った人のようにネーリのことを覚えてくれていた。
それってきっと、ものすごい力のあることなんだ。
記憶力だけじゃない。
彼らが凄いのはきっと、何かを思う力、そのものなんだと思う。
「……目が覚めた?」
側の燭台の光をちら、と見てからもう一度、ラファエルの青い瞳を見る。
問いかけるような表情を感じ取ったのだろう、彼は優雅に頬杖をベッドに置かれたクッションに突くと、優しい手で横たわるネーリの柔らかい髪を、撫でてくれた。
「覚えてるかな。ヴェネト王宮の夜会に出たんだ。
君と、僕と、アデライードで。
ここは僕の屋敷で、もう戻ってきた。
……少し疲れが出たみたいだね。熱があるみたいだ」
ネーリは記憶が少し乱れているらしく、説明を受けても、ゆっくり瞬きをしていた。
ラファエルは頭を撫でていた手を動かし、そこにあったネーリの手に重ねた。
「【シビュラの塔】を見てきたよ。目の前に見上げる所まで」
その名前を聞いた時、瞬間的に夢の気配からネーリは醒めた。
不思議なことだが、彼はよく夢を見るけど【シビュラの塔】の夢を見たことがない。
幼い記憶を思い起こすように、その傍らで起きた出来事として夢に過ることはあるが、漠然とそこにあるものとして、あまり夢の中で存在感を持たないのだ。
だからラファエルがその名前を出した時、非常にその名前が唐突で不気味に思え、ネーリは覚醒した。
はっ、とベッドの上で瞬時に上半身を起こすと、少しラファエルは驚いたようだが、彼の背をすぐに支える。
今のこの、セルピナ・ビューレイが治める世界で他国の人間が、そこに至ることが、どんなに困難なことかは分かっている。
「ラファエル……君は、……大丈夫なの?」
驚きに目を見開いて、自分も熱に浮かされているというのに、必死な表情でラファエルの顔を覗き込んで来るネーリに、笑いかけてやる。
「大丈夫だ。別に何も不都合はない。王妃様にちゃんと正面から【シビュラの塔】を見に行きたいのですがと伝えたら、快く許可していただいたよ。僕は別に咎められることはないし、なんともなってない」
何かを言おうとして言葉にならず、数秒後、ネーリは急に力を失うように、ラファエルの腕の中に倒れ込んだ。
「ジィナイース。大丈夫?」
さすがに驚いた。
それは、確かに他国の人間が【シビュラの塔】を見に行くなど、容易いことではない。
しかし正直、運命に恵まれたラファエルに限っては、成り行きに逆らわず、ただ自分に正直でいれば、自然とそこへ至ったという印象が強いため、あの天魔の塔を見に行くために自分が大層な苦労をしたなどと少しも思っていなかったから、ネーリが心の底から心配し、無事に自分が戻ったことに、これほど安堵すると思っていなかったのだ。
ネーリは【シビュラの塔】を巡って色んな気苦労があるのだと思っていたが、何故直前まで彼が危険を冒して自分の足で、それを見に行こうとしていたのかが理解できた。
つまり彼は、それほどあの塔を恐れているのだ。
(でも)
ラファエルは不思議だった。
今やネーリとヴェネトの運命は、王妃により切り裂かれ、遠く隔っている。
勿論良い運命とも隔ったが、それは悪しき運命とも、彼は切り離されたということなのだ。【シビュラの塔】が三国を壊滅させたことは事実だが、ネーリとは全くそれは関わりが無い。ラファエルは信じている。
王とは、確かに数多の臣下を抱え、そこに暮らす数多の民の、命運を背負っている。
国に起きた悲劇は王の悲劇だ。
他の誰が自分の領地で起こったことじゃないなどと心密かに安心しても、王にとっては国に起きた悲劇は全て我が子に起きた悲劇なのである。
だから――ユリウス・ガンディノの孫である、王の後継たるジィナイース・テラが、ヴェネトの悪行に心を痛めることは、理解できる。そこまで感じなくていいと思っても、彼はそういう場合、自分は無関係だなどと脳天気に思えない性格なのだ。
その感受性の強さを、ラファエルは愛しているから、彼の痛みとも寄り添いたいと思う。
しかし、ジィナイースの勇敢さも理解している彼からすると、正直【シビュラの塔】などを彼がそこまで恐れていると思っていなかった。
ラファエルは【シビュラの塔】を見て来た。
確かに、圧倒的な存在感だった。
だが直前に王妃と「例え自分がどれだけ撃って何かを滅ぼしたいと願っても、自由に撃てるものではない」という会話を交わしていたからだろうか?
長い間疑問だったものが少しだけ解け、そうかあの古代兵器は完全なる無差別、無制御ではないのだと、少しだけ理解していたからかもしれない。
今やラファエルの頭は、あの得体の知れない古代兵器をなんとかしなければと思っていた領域から、何とかしなければならないのはあの王妃の方なのだと、そこまで移行していた。そしてそれは、決して絶望だけではなかったのである。
ラファエルは光も確かに見出していた。
あの古代兵器を何とかしろと言われても、無力な自分は何も出来なかったと思うけど、
あの王妃と、信頼関係を築けと言われるなら、簡単では無いとは思うけれど、遙かに可能性がある領域の話だ。
だからラファエルは【シビュラの塔】をあまり今は恐れていない。
扉が閉じているのも見た。
つまり唐突にあれが世界に殺戮の眼をむけることは無い。
来年にあると予想される、王太子ルシュアン・プルートの戴冠式までは、去年からは考えられないほど、静かな冬を越えていけるだろうと、彼の中では見立てが立っていた。
ジィナイース・テラは自分などより勇敢な人だから、自分が恐れないものなど、彼は少しも恐れることはないだろうなどと、思い込んでいた。
ラファエルは抱えたネーリの背が僅かに震えていることに気づいた。
そして、友が無事に帰ってきたと、そのこと自体に緊張をようやく和らげている姿に。
そんなに、彼を心配させていると、思いもしなかったのだ。
そう思った時に、ラファエルは何か、不思議な違和感を感じた。
ネーリを見下ろす。
幼い頃の記憶。
大海の覇者のような気配を持つユリウスの腕に抱え上げられ、恐れもなかった少年。彼らには同じ、覇気があった。特別な人間しか持てない、天性の才だ。
数多の大人の中にいても、少しの物怖じもせず、人見知りなどもせず、知らない人間がいれば、恐れるどころかあの人はどういう人なんだろうと知りたがり、目を輝かせて全ての人を見上げるから、誰もが彼を愛した。
自分の腕に抱えられ、震えているような……そんな人ではないはずなのに。
だが、今日見たネーリの孤高を感じさせる表情や、涙は、ラファエルの少年時代の記憶には全てないものだった。こうして再会した後、何もかも、世界ですら大きく変わり果ててしまった中で、ラファエルはネーリが変わってないと思うことが多くて、それを嬉しく思っていた。
(でも本当にそうだろうか?)
世界で生きるということは、そんなに簡単に世界と自分を切り離せるものだっただろうか。
ネーリ・バルネチアは特に、世界をこそ描く画家だった。
彼は自分が無性に好きだと思うものしか描かないけれど、好きだと思う感性を、必ず外へ向ける。好きだと思えるものをいつも探しているから、好きな絵を描いていても、彼は偏屈にはならない。
ネーリは世界を愛しているのだ。
世界が変わり果てて、世界が悲しみに満ちているのに、彼だけが変わらず、昔のまま幸せそうだなんてことが、本当にあり得るだろうか?
(そんなはずはない)
世界が大きく変わったのなら、その大きく変わった世界をネーリは真摯に見つめているはずだし、決して目をそらしたりはしていないはずだ。
その中で変わらない彼の大らかさや強さがあったとして、それは、世界と自分を切り離しているからでは決して無い。
自分の腕の中で俯いている、この姿。
幼い頃は見なかったもの。
多分それはこの十年で、ネーリの中に生まれたもの。
それが、強い怯えや悲しみの色が多いことに、今やっとラファエルは気づいた。
自分だってこの十年で大きく変わった。
ラファエルはその自分の変化を愛していたし、今は自分が好きだ。自分だってこの十年で幸せになれたのだから、ネーリだって同じことが出来ると勝手に思い込んでいた。
ラファエルはネーリの強さや明るい覇気に焦がれていたけれど、彼のこういう姿を知っても、決して失望したりなどはしない。
驚いたが、それだけだ。
憧れを押しつけていたつもりはなかったけど、
(いい加減、ジィナイースならどんな困難も軽く越えていける人だ、などと思うのは終わりにしなければ)
二人で【シビュラの塔】を何とかしようと、ようやくラファエルは言えた。
少年時代、自分はネーリの持つ光に支えられ、守られ続けていたと思う。
十年の時を使って、ラファエルは「君を守るよ」とようやく対等な言葉を彼に掛けてやれるようになったのだ。
幸せなことだと思う。自分に希望がもてる。
きっとそれを実感出来る限りあの王妃とも、【シビュラの塔】とも、自分は戦えるはずだ、とラファエルは思った。
「【シビュラの塔】は閉じていたよ。ジィナイース」
落ち着かせるように、彼の背を撫でながら、ラファエルは優しい声で囁いた。
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