第3話 能力発動
†
わざとではない。それだけは真実を伝えたかった。
いやもう断じて、
決して、
絶対に、
確実に、
事実として、
百パーセント、
天地神明に誓って、故意にシディアの頭を撫でたわけではないのだが――、しかし、俺に言い訳するだけの時間は与えられなかった。
「――ッ!♡」
俺の手が、シディアの頭に触れた瞬間。
彼女の表情が、何かに取り憑かれたように――変化した。
整った顔立ちをしながら、どこか無表情で、クールな印象だったシディアの顔が、とろんと「蕩けた」のだ。
そう、それはまさに
白い頬はうっすらと上気し、桃色に染まる。
切れ長の怜悧な瞳は潤み、
吐き出される吐息が熱を持ち、
舌先がちろりと、ピンクの唇を舐めあげる。
すっ、と。
シディアの目が細められた。
見覚えがある。
この顔は、
獲物を仕留める前に獣が浮かべるそれだ。
(――狩られるッ!)
生物としての本能が警鐘を鳴らす。しかし、身体がそれに反応するよりも早く、俺はシディアによって地面に押し倒されてしまっていた。
速い――!
俺は地面に組み敷かれる。
仰向けに倒れた俺の上に、シディアが馬乗りになった。
「くそっ」
このままではまずい。なんとかこの
組み伏された状態から、上体を起こして肩をあげる。
右手で、シディアの右袖を掴む。
同時に左手は、シディアの右腕の、二の腕のあたりを取る。
両腕で、しっかりと彼女の右腕を制するのだ。
そのまま、肩でブリッジをするように、腰を上へ持ち上げ、シディアの体勢を崩しながら、身体を左に捻る。回転の力で、俺の腹に馬乗りになっている彼女は、横に転がってしまう――、
はず、だった。
――違和感。
ブリッジをしようとしても、腰が持ち上がらない。
身体を捻ろうとしても、回転が途中で止められてしまう。
強く抑えつけられているわけではなかった。左右に身体を動かすことはできるし、手や脚だって動かせる。
しかし、返すことができない。
なぜ。
筋力は、俺の方が強いはずだ。
だが、シディアは逃げようとする俺の動きに合わせて、的確に重心をずらしてくるのだ。
手で肩や膝を抑えながら、体重を乗せる骨盤のポイントをずらすことで、俺の動きを封じてくる。
(こいつ――
油断した。
先ほど手を握った時に感じたタコのような硬さは、
〈異能機関〉の人間。
外見こそ、俺より年下の女の子にしか見えなかったが、ただの少女な訳が無かった。
ずい、と。
シディアが俺を覗き込むように顔を近づけてくる。
「だめ、ですよ……♡ 逃げようとしちゃあ……♡」
はあはあという荒い吐息が顔にかかる。
花を思わせる、甘い香り。
どろりと濁った瞳は、完全に俺の姿しか映していない。
するりと密着する彼女の身体。
股の間を割って入る太ももの柔らかさ。
ローブ越しの彼女の大きな胸が、俺の胸板に押し付けられてふにゃりと形を変える。
彼女の美しい顔が、俺に近づき、
「待っ――」
静止の言葉を発しようとした俺の唇を塞ぐように、彼女自身の唇を重ねてきた。
時間が、止まる。
やわらかい。
あたたかい。
ふわりとした感触。
俺の身体は、電流を流されたかの如く、動けなくなってしまった。
「んっ♡ ん、んちゅ、ちゅ……♡」
突然の事態に指一本動かせなくなった俺とは対照的に、シディアは積極的に口づけを続ける。何度も、何度も。離れては触れ、離れては、触れ。まるで優しい雨のように彼女のキスが降り注ぐ。
そのうちに、シディアはむにむにと、口唇をこすり付け始めた。互いの吐息が混ざりあう。そして、シディアは自身の唇がひしゃげるほど強く押し付け、圧力に押し負けわずかに開いた俺の唇の隙間に、舌を差し込んできた。
「れろ、んちゅ、ちゅ、るろぉ……♡」
そのまま、ぬるりと。
彼女のあたたかい舌が、俺の口腔内を蹂躙する。
歯列を舌先で舐め上げ、敏感な口蓋の上部をつつき、委縮して奥へと引っ込もうとした俺の舌を絡めとる。粘膜の触れ合い。
俺とシディアの舌が、なめくじの交尾のように淫猥にからみ合い、ちゅぶ、ちゅぶという艶めかしい水音を立てる。
混ざりあい、どちらのものとも分からなくなった唾液を、シディアが啜り上げた。
まずい。
ちかちかと、目がくらむ。
このままでは、喰われてしまう。
そう思った、その時だった。
「スキルを解除しなさい」
アナライの声が、鼓膜を揺らす。どうやって、と問う暇はなかった。というより、彼の言葉が聞こえたことで、一種の緊張状態が解け、俺は自然とスキルを解いていた。
右手に集まった熱が消える。
途端、唇をむさぼっていたシディアがぴたりを動きを止めた。
俺は彼女の肩を掴み、顔から引き離す。
ふたりの唇が離れる。俺とシディアの唇の間を、つう――と糸を引くように唾液の橋がかかる。
少しの間、シディアは呆然自失といった様子だった。
だが、すぐに、その瞳に光が戻る。
傍から見ていてもはっきりと、彼女が「正気を取り戻した」ことがわかった。
シディアは、俺に跨ったまま、しばらく、現状の把握に努めようとしていた。
俺を見て、アナライを見て、自分の手をぢっと見つめた。
そして、微かに、わなわなと震えたかと思うと――、
「――殺す!!」
袖から手品のように短刀を取り出すと、逆手に握ったそれで俺の心臓を一突きにしようとしてきた。
「うおっ!」
咄嗟に彼女の腕を掴んで止める。
そのまま、俺はシディアを押しのけ立ち上がった。精神的動揺によるためか、さきほど俺の動きを封じた技のキレは一切なかった。
「死になさい!」
短刀が振られる。
俺は後ろに跳び退り、距離を取る。
彼女の顔は真っ赤に染まっている。顔色だけ見れば、先ほど夢中になって口づけを交わしていた時と大差はない。だが、さきほどまでとは真逆だの感情に支配されていることは明らかだった。スキルによって俺に惚れているのではなく、羞恥と、それから怒りによるものだ。
「逃げないで!」
俺は逃げるようにアナライの許へ駆け寄ると、彼を盾にするようにその陰に隠れる。老人を盾にしているようで傍から見れば最低な行動だろうが、なりふり構ってはいられない。
「助けてくださいアナライさん!」
「どいて
アナライはパイプを吸いゆっくりと紫煙を吐き出してから、落ち着いた声色で、言い聞かせるようにシディアに語り掛ける。
「殺してはいけないよ」
それはそうだ。
「ですが……」
「彼の〈スキル〉に危険性はないし、王国に対する叛逆心もない。善良な一般市民を殺害することは許されない」
なんかその言い方だと、スキルが危険だったり王国への叛逆心がある場合は殺すって感じに聞こえません?
まあ俺は聞かなかったことにしますが。善良な一般市民なので。
「でも、私……初めてだったんですよ!」
「それを言うなら俺だって――」
反論しようとしたら、きっと睨まれたので黙る。
いや、でも初めてであんな
……それとも、あれも俺の〈スキル〉の効果なのだろうか。
「シディア」アナライは諭すような口調で話し続ける。「彼は悪意を持って、君を害するつもりで〈スキル〉を発動したわけではない。あくまで、事故のような、迂闊なミスで頭に触れたのだろう」
そうです。そうなんです。
「……故意でないから見逃せと?」
「そうではない」
そうではないの?
「もし彼が悪意を持って〈スキル〉を君に対して使おうとしたのなら、その害意を感じ取って容易に躱すことができただろう。君の実力ならね」
「――」
「だが、悪意が無いがゆえに、害意が無いがゆえに躱せなかった。それは、シディア、君の未熟が招いたのではないか。そういう話だ」
「――」
「今回はたまたま、
「――」
「私が〈スキル〉の影響下である君をしばらく放置したのも、その事実を戒めとするためだ。『罰』として、今回の件は受け止めなさい」
「――はい」
俯いたシディアは、渋々と言った様子ではあったものの、鉾を収めた。短刀を袖にしまう。
「――ですが、一発叩かせてください」
あれ?
いまこれで一件落着な流れじゃなかった?
「うむ」アナライが頷いた。「それくらいならばいいだろう。ナデルくん、君も迂闊なスキルの使用が、どういった事態を招くのか学べたはずだ。わざとでないにしろ、結果として乙女の唇を奪ったのだから、それくらいの『罰』は甘んじて受け入れなさい」
マジか。
なんとかゴネて回避できないかと思ったが、どうやら雰囲気的に一発叩かれなくてはおさまりが付きそうにない。
まあ、刃物で斬りつけられることに比べたら、いくぶんか平和的な解決といえるだろう。
俺はアナライの陰から出ると、渋々シディアの前に立つ。
すぅ、と彼女が手を前に出した。
ビンタをする気だ。
「目を閉じてください」
本日何度目かになる、シディアからの目を閉じる指示。
今までとは比べ物にならないほどの恐怖を感じながら、瞼を下ろす。
頬に力を入れ、少しでもダメージを軽減させる構えを取る。
「――行きます」
来い……!
ドス、という鈍い音が、俺の
肺の空気が絞り出される。
「ぐむっ」
という呻き声が、俺の意思に反して喉から漏れる。
目を開ける。
痛みに膝から崩れ落ちる。
こ、この
ビンタをフェイントにして、無防備になった俺の腹を殴りやがった……!
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