YOGAとか精神世界への憧憬についての私的な省察

夢美瑠瑠

第1話

 

 「精神」と「肉体」という、そういう言葉、概念を二項対立的に理解して、不即不離に、アンビバレントなややこしい人間存在…精神と肉体の、観念と具体の、即自と対自の、実存と虚構の、絶対矛盾的な自己同一の?…一つである自らについて曖昧模糊ながら真摯に内省を持続し、いつかはある究極的な”理解の統一点”、止揚アウフヘーベンに至るという、漠然とそういう目標を幻視して、内世界の北極星ポーラースター?みたいに掲げるようになったのはいつのころからだろうか?


 それは、もとより精神、肉体も惰弱で、いろいろなハンディキャップのある自分にとっては、なんとなく、「勉強して偉い立派な人物になれ」と、親に言われたからそう努力してきた…そういう類の?お仕着せの努力目標、それと変わらないものだったかもしれない…もともとの昔には。


 年齢とともに、さまざまな認識や思考、知的な活動全般がよりリアリスティックになるというのは当然というか、幼児はまったく幻想や空想の世界に生きていて、タブララーサ。爾後に、外界の情報を取り入れて成長していくプロセスで否応なく誤謬は正されて、矯正を余儀なくされて、試行錯誤と弁証法統一がまあ、螺旋状に?間断なくリピートされるオートマトン。


 中らずと雖も遠からず、「成長グロウイング・アップ」というのは普遍妥当にそういう風に素描デッサンされるだろう…万人において。


 敢えて、複雑晦渋の弊を忌避しなかったのは、わかりにくい、デリケートな理解イメージを、そのままに表現したかったのです…(サマセットモームは、俗に「文は人なり」というのは全くその通りで、例えば「混乱した人は混乱した文章を書く」と、書いていた。テーマがややこしい場合は、だからこうなるのが誠実な態度かも)兎角、わかったふりをしがちなんですが、頭が悪すぎる自分などは、そういうのは読む人に失礼だから? エッセイの時はなるたけ素朴、率直に書くようにしています。


 で、”精神”と”肉体”というのは、連関も、構造も、結局どういうふうに並列して共存しているかがどうも単簡に理解描写しにくいところがある。車の両輪みたいに、どちらが欠けても人間は成り立たない。存在できない。知行合一とか、心身一如とかいう、それがだから理想の境地なのか? 心頭滅却すれば火もまた涼し、そうした東洋的な武道とかの極意、そこに至る場合に、やみくもに「只管打坐」とかで、例えば澄み切った心境になって瞑想するとか?まあ、そういう修行を経て、やはりむしろ自然にそうした「悟り」、「悟達」は降臨、逢着するものかもしれない。


 こういう悩みというのは、古来の多くの「ストレイえる子羊シープ」にとっての、寧ろありふれた、ありがちな人格形成途上の”はしか”に近い苦悩であろうか? 「反抗期」というものがあって、自我を形成して、社会という、これも人類が逃れえない運命、宿痾に近いバケモノに相対していく…それは絶望的な戦いであるのだ…勝ちも、負けも、永続せず、容易に決着はつかない。 永劫回帰、終わりなき物語、真摯に人生に対峙すれば、そういう構造だと本質を見抜く。本質は空、無。なぜ、そういうやりきれないものとなっているのだろうか…一切空無、一切悉苦。


 <続く>




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YOGAとか精神世界への憧憬についての私的な省察 夢美瑠瑠 @joeyasushi

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