第1話 もう、疲れたから
時刻は午後五時半を回ったころ、六畳一間の部屋の中には天井からロープが垂らされていた。夕日に照らされたロープの影と人の影が、扉に映り物々しさを演出している。ロープを首に掛けて椅子の上に立つ少年。母親譲りのサラサラとした茶色がかった黒髪に虚空をとらえる瞳、小柄で線が細く猫背で巻き肩のいかにも自信なさげな、ともすれば幽霊のようにも見える少年。その足元には白い封筒が置かれている。
少年の名は
ではなぜ、そんな彼が学校をサボってしまったのか。
よくある話。「いじめ」である。
彼は高校に上がってからというもの今までの半年間、毎日のようにひどい「いじめ」を受けていた。「ひどいいじめ」と言ったが、この世にひどくないいじめなどは存在しないだろう。いじめとは総じて酷く幼稚で、残虐で、残酷なものなのだ。例えばそれが直接的な暴力であろうと、言葉による暴力であろうと、その両方であろうと、そのどれもが等しく「ひどいいじめ」と言えるだろう。彼が受けた「いじめ」は直接的な暴力と、言葉による暴力、その両方だった。靴の中に画びょうを仕込まれたり、教科書などの持ち物を切り裂かれたりは日常茶飯事で、彼らの機嫌が悪いときは校舎裏に連れていかれての袋叩きにされた。母親が毎日の食費に置いていく千円も、毎月のお小遣い一万円も、彼らの娯楽代に消える。
いったいなぜ、黒川 陽太がこのようないじめの標的になってしまったのか。その最も大きな原因の一つに挙げられるのが、彼の幼馴染、
白山 月望。彼と同じく十六歳の高校一年生。腰ほどまでに伸びた絹のような黒髪、見るものを引き込む瞳には静かな湖面に映る月明かりのような輝きがあり、新雪のように白い肌は触れると溶けてしまいそうな程の儚さがある。スタイルも抜群で、165cmほどの身長で手足はスラっと長く、スレンダーな体型、そのつつましやかな胸部さえも、彼女の美しさを引き立てている。
つまるところ、彼女はとても美しかった。否美しすぎたのだ。
高校に入ってからというもの、白山 月望という人物は一躍学校の注目の的になった。それもそのはずである。高校に入ったことでより多くの人の目に触れるようなったのだから。彼女とお近づきになりたい、彼女と付き合いた、彼女を自分のものにしたいと男子生徒たちが思うのも無理はないことだった。たくさんの男子生徒たちが白山 月望に交際を迫った。なんてことない普通の男子から、同級生のイケメンだとか、サッカー部の部長だとか、生徒会長だとか、大手財閥の御曹司だとか、そんな漫画の主人公のような人物たちがみんな揃って白山 月望に告白し、散っていった。皆一様にして、一考の余地なく、それはもうこっぴどく、ばっさりと、取りつく島もなくフラれていった。 そんなこんなでついたあだ名が「かぐや姫」。彼女の美しい黒髪と、月望という名前、そして童話のかぐや姫のように、男たちを拒んでいったことで。
これだけ有名になってしまえば、陽太のことが周知されるのも早かった。あの「かぐや姫」の隣に立つ男がいると。
そこからは早かった。周囲の僻み、やっかみ、嫉み、そして月望にフラれたことの恨み。「なんでこんな奴が」と。そこから同級生からの苛烈ないじめが始まった。周囲はいじめを止めることができなかった。いや、止めなかった。陽太への黒い衝動を、行動に移す者は少なかったが、皆一様に「身の程知らずな陽太が悪い」「いい気味だ」と面に出さなかったものの、心の中ではそう思っていたから、誰も陽太に救いの手を差し伸べることはなかった。唯一救いの手を差し伸べることができた月望でさえも、彼がそのような立場にあることに気づくことができなかった。
さらに、状況の悪化を加速させたのは、陽太の元来の性質に由来する。先述した通り、陽太は真面目だ。たくさんの人から向けられる身に覚えのない敵意。時折いじめっ子らがこぼす「お前なんかが」という言葉、頭のいい陽太はすぐに気づくことになる。「僕がいじめられているのは、月望のそばにいるからだ」という事に。そして陽太は考えた、このままでは月望にも被害が及んでしまうかもしれないという事に。陽太はどこまでも優しい人間だった。これほどまでの理不尽に曝されながらも、幼馴染のことを思いやることのできる、そういう人間だった。
それからというもの、陽太は月望を避けるようになった。これ以上いじめられないために、万が一にも月望に火の粉がかからぬように。
そんな陽太の努力も空しく、陽太へのいじめはエスカレートすることになる。今までは月望がある種の防波堤になっていたのだが、陽太は自らその防波堤から飛び出したのだ。もちろん陽太自身防波堤から飛び出した自覚などないし、まして月望自身が意識して防波堤を担っていたわけではない。月望を防波堤足らしめていたのは、いじめっ子たちの方にこそあった。彼らは姑息なことに陽太をいじめていることを月望にはばれないようにしていたのだ。それはひとえに月望からの心証を悪くしないため。そんな彼らにとって、月望と接触を避けるようになった陽太は自ら海に飛び込むウサギのようなもので、これ以上いじめられないどころか、さらに苛烈に、時を選ばずにいじめられるようになった。陽太にとって唯一の救いだったのは、月望がいじめられることが無かったというただ一点のみ、それでも陽太は愚かにも安堵するのだ。陽太は現状を抱え込み、深い深い海の中に沈んでいくのだった。
だが、これは陽太の一方的な行動に過ぎない。月望の側に立ってみれば、突然自身の唯一の理解者である陽太が、突然自分を避けるようになったのである。月望の頭の中は、「どうして?」という疑問で埋め尽くされるとともに心の底から憤りが募る、そして爆発した。陽太に避けられるようになってからというもの、月望は以前にもましてたくさんの男に言い寄られるようになるのだが、その行動がまた月望の憤りを加速させ、しつこく言い寄ってくる男たちをさらに苛烈に拒むようになる。その月望の行動が再びいじめっ子たちの行動を過激化させるとも知らずに。
もう既に、陽太の心は、取り返しのつかないギリギリのところまで壊れていた。日々エスカレートしていくいじめ、最近はいじめてくる男子生徒たちの人数が増えたように感じる。昼間自分を蹴り飛ばした人物とは、違う人物に放課後殴り飛ばされる。「いったい何故、僕が何をしたっていうんだ」最初はそんな疑問も浮かんでいたが、最近ではそんな疑問を抱くこともできなくたってしまった。こんなにたくさんの人たちが、口をそろえて自分の子を悪く言うのだから、きっと自分が悪いんだろう、と自分に言い聞かせた。でなければ、こんな理不尽なことがあっていいはずがないのだから。
そんな彼の心をギリギリのところで繋いでいたのが「月望を守っている」という自尊心だった。そんな自尊心も月望の手によって砕かれてしまうのだが。
―――――――――――――――――――――
「陽太なんて、大嫌いよっ!!!」
心身ともにボロボロになりながら、漸くといったところで自宅にたどり着いた陽太の前に立ちふさがったのは、他でもない月望だった。瞳に涙を浮かべながら普段の月望からは考えられないほどの声量と言葉遣いで陽太を罵った。
「あなたが何を考えているか知らないけどねっ!!あんたが私から離れていくって言うんだったら好きにしたらいいわっ!!!私は・・・、私は・・・っ!!」
そこまで言って、月望は大きく深呼吸をしながら、目元をぬぐった。
「死んじゃいなさいよ、バカ」
そういって、有無を言わせず走り出した。
月望からすれば、こんな暴言を吐くことは昔からあった。本当に陽太のことき嫌ってなどいないし、死んでほしいなんて持ってのほかだった。昔から陽太と月望はこうやって喧嘩をした。中学生の頃の話である。月望も陽太も思春期を迎え、なんとなく二人でいつも一緒にいるのが気恥ずかしくなっていたころ、その時も陽太は月望を避けるようにしていた。今のような明確な理由があったわけではなかったが、陽太は月望を避けていた。その時もこんな風に、陽太の家の前で待ち構えて、「大嫌い」と、「一人にしないで」と、涙ながらに言った。喧嘩というにはあまりにも一方的なものだったが、確かに喧嘩だった。意地を張り続けた陽太と月望の、二人にとって一世一代の大喧嘩だったのだ。その時二人は約束した「絶対に避けたりしない」と、中学生にもなって、指切りをしたものだ。そんな過去があるからこそ、月望にとって、陽太のこの行動は明確な裏切り行為となってしまったのだ。だからこそ月望の怒りは正当なものと言えるし、本来ならば陽太はそんな月望を追いかけて、誠心誠意謝るべきだったし、従来の陽太ならば、そうすることに少しの疑念も抱かなかっただろう。
だが、今の陽太は、今までの陽太と同じではなかった。月望や母親を心配させないために、表には出さなかったが、今の陽太は荒れ狂う波にもまれながらも、一本の糸を頼りに、ギリギリのところで耐えているだけだったのだ。そんな状態で、月望を欺き続けていたのだから、陽太の表面を取り繕う能力というのは、取り分けて高かったといえるのだろう。また、月望の察する能力が低かったとも言えるのだが、もともと月望は他人とコミュニケーションをとることを不得手としているため、陽太の変化に気づけなかったことも、仕方がないと言えば仕方がないのだ。
そんな言い訳を並べたところで、もはや陽太の心は完全に崩壊してしまったのだが。
「死んじゃいなさいよ、バカ」
月望の言葉が陽太の脳内を駆け巡る。なんでそん酷いことを言うのか、誰のために近づかないようにしたというのか、誰のせいで_____、そこまで考えて思考が停止した。守っていた筈の月望にも嫌われた、この事実によって陽太の最後の自尊心という細い糸は切れてしまった。
死ぬ、死ぬ...か、そうか、その手があったか。途端に陽太の壊れていた心の穴を埋めるように、その言葉がすとんとはまり込んだ。はまり込んだそばから、その歪みは伝播し、もはや修正不可能なほどに陽太の心を支配した。
もう、疲れたから。いいよね_____
準備が整うのに、三十分も時間はかからなかった。現在の時刻は午後五時。気づけば目の前にはロープが垂れ下がっている。陽太の部屋の天井は、木組みの勾配天井であったので、ロープに輪っかを作り、天井の支え木に巻き付ければいともたやすく首吊りのロープが完成していた。椅子の上に立ち、ロープを首に掛け体重をかけてみると、『ギィ』とロープが軋む音が響く。問題なく首に圧迫感を感じられる。首からロープを外し、椅子に座り、体を伸ばす。なんだか心がすごく軽い。自分の体の輪郭がはっきりとせず、まるで夢の中にいるような気分になる。
ぼやけた頭の中に浮かんでくる二つの顔
一つは月望の顔、最後に喧嘩別れをしてしまった僕の大切な幼馴染。ちょっぴり不器用だったけど、ちゃんと周りを思いやることのできる良い子であることを知っている。ああ見えてさみしがり屋で、可愛いところもあるのだ。僕が死んだら一人になってしまうけど、きっと大丈夫。彼女の心根の優しさはきっとみんな分かってくれる筈だから。そう言えば昔、今日みたいに月望に叱られたことがあったっけ、一人にしないでって。約束守れなくてごめんね。でも月望は美人さんだから、きっといい人がみつかるだろう。大丈夫。僕が幸せにしてあげたかったけど、僕じゃきっと力不足だから。大丈夫、月望は幸せになるに決まってる。そうじゃなきゃ嘘だ。
もう一人はお母さん、僕が生まれてすぐに父親は交通事故で死んでしまって、それから女手一つで僕のことをこれまで育ててくれた大好きなお母さん。中学に上がったころから、仕事が忙しくなって毎日朝早くから、夜遅くまで働いて、あまり顔を合わせることができなくなってしまったけれで。僕は知っている。僕が大学に進学したいと言ってもいいように、たくさん働いていたことを。お母さんには悪いけれど、お母さんの日記帳を読んでしまったから。その日記で僕は自分でどれだけ泣いたかもわからないほど号泣したっけな。たくさん愛してくれた。親不孝者で申し訳ないけど。僕が死ねばお母さんの肩の荷も少しは下りてくれるのかな。僕が独り立ちするまでは再婚しないなんて言っていたけど、職場の先輩といい仲になっているのは日記を読んだから知ってるんだ。こんな形で独り立ちしてしまうことは不本意だし、お母さんはきっと傷ついてしまうけど。きっと大丈夫。心の傷はその人が埋めてくれるよね。
大丈夫。大丈夫。大丈夫。
そうだ遺書を書こう。僕が最後に残すもの、二人への愛の告白。そして懺悔。今思ったことをそのまま書けば僕の気持ちは伝わるだろう。そうだ、月望を避けてしまった理由を、どうせ死んでしまうんだから、教えてあげよう。訳が分からないまま答えが分からなくなるのはかわいそうだし。
三十分ほどで書きあがった。意外とすんなり書けるものなんだな、と思った。白い封筒に、遺書をしまい込み、椅子の足元に置いた。
時刻は五時半。夕日に照らされた体が仄かに暖かい。陽太の首には首吊り結びで結ばれた縄がかかっている。あとは椅子を蹴飛ばせば、いつでも首を吊ることができる。不思議と恐怖は感じなかった。今日は月望と会ってからというもの、頭の中に靄がかかったように意識が明瞭としない。のぼうせているような、寝ぼけているような、夢でも見ているようなそんな気分。ふわふわと心地いい。こんな気持ちは何か月ぶりだろう。高校に上がってからは一度も心を安らかにできたことが無かった。漸く、漸く楽になれる。
躊躇いはなかった。
陽太の心の中では、すでに結論が出ていた。すべての苦しみがこの瞬間に終わる、もう何も感じなくていい。そう思った瞬間、陽太は椅子を力強く蹴飛ばした。
最初の一瞬、何も感じない。体が空中に浮いて、重力が一気に引き寄せてくる。その瞬間に思考が鈍くなり、意識が一層ぼやけていく。けれど、次の瞬間、首にかかる圧力が全身を襲う。喉が締まり、息が苦しくなる。血液が逆流し、脳内に響くような痛みが広がり、胸を締めつける。息ができない、呼吸が途絶えていく感覚が、体全体を支配していく。
頭が重く、手足が痺れてきて、視界が狭まり、まるで夢の中にいるかのように感じる。しかし、次第にその「夢」から目が覚めるような感覚が訪れる。呼吸ができないことで、恐ろしいほどの焦燥感が湧き上がってくる。胸が裂けそうだ。どんどん目の前が暗くなり、まるで闇の中に引き込まれていくような感覚が支配してくる。
その中で、ふと心に浮かぶのは、月望のことだった。彼女に対して感じていたものは、本当にこれでよかったのだろうか。彼女が僕を必要としているとしたら、今僕が死ぬことで、彼女に何が起こるのだろうか。
目の前に黒い点が見え、体の感覚が徐々に失われていく中で、陽太はその問いを胸に抱き続けた。そして、最後の力を振り絞って、ふと感じた一筋の後悔と、残された少しの命にすがろうとする瞬間が訪れる。しかし、視界が完全に暗くなり、意識は徐々に消えていった。
部屋には、『ギィギィ』と軋むロープの音、秒針が進む音が響いている。そして振り子のようにふらふらと揺れる陽太は夕日の逆光に充てられて、黒く、黒く、どこまでも沈んでいった。
次に陽太が目を開くとそこは、どこまでも白い、果てのない空間だった。
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