埋まれ、そして光れ

たけすみ

第1話 薄暗い道場にて

 防水マットの上に、汗の池ができていた。

 縄跳びの縄が、かろうじてその汗の池を避けて床材に掛けられた緩衝マットとブルーシートに似た素材の防水マットをひゅんひゅんと叩いている。

 照明もエアコンも止まったその一室はまるで蒸し風呂のようだった。開けられる換気窓は全て開け放っているし、気温も33度と8月としては低い。だが先日の豪雨で湿度は高く、風もないために、蒸し暑い。


 そこはプロレス道場とポールダンススタジオが融合したような奇妙な空間だった。

 吹き抜けと内階段で通じた二階が内向きのテラスのように広間の壁沿いをぐるりと囲んでいる。その底の広間の南側半分には二階の床でもある天井がかかり、6メートル間隔で4本のポールダンス用のポール。北寄りは吹き抜けの中央に、約6メートル四方のプロレス用リングがある。二階部分はリングを見下ろせるよう、ぐるりと手すりが囲んでいる。

 空間の天井には、ポールとリングそれぞれを照らすように配置された照明があり、南側一面は鏡張りになっている。その片隅には道場マッチ用の客席のパイプ椅子が積み上がり、フリーウエイト系のトレーニング機材などが据えられている。


 その鏡の前で、一人、黙々と筋肉質の少女がトレーニングをしている。

 ピンクのインナーカラーの入った髪を高く団子にまとめた頭とむき出しになった暑さで血色の浮いた色白の体が印象的だ。

 脇を締めてロープを振るう肩まで袖をまくり上げたティーシャツの二の腕は、一般的な女性よりかなり太く、しかも脂肪の薄い上腕二頭筋のきれいな筋が浮いている。

 腕に巻いたスマートウォッチが5分ごとにアラームを鳴らす。これを受けて少女は縄跳びのステップを変える。最初は普通の前跳び、次に左右二度ずつのスキップ、アラームが鳴る前までは着地するたびに足を左右に開閉させていた。そして今は仕上げとしてペースを上げ、高く腿上げをしながらその場走りの計20分である。


 ……これを始める前にも、既に道場の上階の寮住みの外国人選手3人と共に、朝の稽古を済ませている。その前にもひとり黙々と柔軟、スクワット、普通の腕立て3種にライオンプッシュと呼ばれる独特の腕立て、上半身の筋肉だけでのポール上り、腹筋背筋、そして頸部の筋肉を鍛える首ブリッジと首上げ。

 それが済んだ頃、コーチや寮生組と合流し、平時は緩められているリングのロープを吊るしたターンバックルを締めてピンと張らせ、リング上での稽古。

 マット運動、受け身にロープワーク、アマレス式とプロレス式のスパーリング、個人別の練習中の技のかけ方や受け方、返し方などの指導である。


 ……おそらく今頃、外国人選手は昼食の用意をしているか、既に食べ始めている頃だろう。

 少女は食事とプロテイン摂取は稽古の2時間前に済ませていた。彼女が常用しているプロテインはえんどう豆由来のもので、牛乳由来のプロテインと異なり吸収に時間がかかる。運動の2時間前の摂取でちょうど良い。


 縄跳びの終了のアラームが鳴ると、肩で息をつきながらグリップの芯に鉛を仕込んだ金属線入りの跳び縄を束ね、這うように足元に適当に置かれたタオルで靴先の汗を丁寧に拭った。

 それから汗をしっかり吸ったティーシャツを脱ぎ捨て、へその出たスポーツブラタイプのスポーツインナー一枚になる。その後ろの襟ぐり袖ぐりからのぞく僧帽筋と棘下筋、三頭筋の重なりは、薄い脂肪層ごしにもはっきりわかるほど浮き上がって見える。

 明らかに同世代の一般的な少女は違う体格である。これで骨格が男性なら、ミケランジェロのダビデ像のように精悍な細身に見えたことだろう。

 脱いだティーシャツを床に落とす代わりに、床に置かれた透明のウォーターボトルに入ったうっすらと白く濁ったドリンクを拾う。その蓋を開けて口をつけ、ぐいぐいと飲んだ。これも植物由来プラントベース分岐鎖アミノ酸BCAAだ。


 一息つきながら、今度はタイマーを30秒に設定する。

 それから今度は壁沿いに据え置かれたフリーウエイトのダンベルの中から5キロに調整されたものを二つ取り、広間北側一面に広く張られたダンス用の鏡の前に立つ。

 正面から見る筋肉も見事なものだった。腹直筋はいわゆるシックスパックにはっきりと割れており、外腹斜筋が発達して腰のくびれがほとんどない。特に発達しているのは胸鎖乳突筋、いわゆる首の筋肉だ。真正面から見ると耳のすぐ下からくびれのない首がつながっているように見える。プロレスラーにとって、ここを鍛えることは脊髄を守ることに繋がる。

 体のどの部位を見ても、日々の鍛錬の賜物が際立っていた。

 ダンベルをひとまず下ろし、パイプ椅子を取って戻って来る。それを展開して、ダンベルの大きく一歩後ろに鏡を向くように据えた。

 両手それぞれに5キロのダンベルを持ち、アキレス腱伸ばしのように片足を大きく後ろに引いた。ちょうどそこに位置するパイプ椅子の上に、引いた足の甲を乗せる。

 そのまま屈む。片膝つきのような、いわゆるブルガリアンスクワットというやつである。10回を過ぎた頃から、発する息遣いは唸り声のような痛みを含み始める。

 15回やったところで足をかえて、同じことを繰り返す。計30回きっちりやって、ダンベルを下ろす。そしてスマートウォッチのタイマーを起動、じわりとほてった尻に手を当てた。

 30秒のインターバルをつげるタイマー音を聞いて、あークソ、と悪態をつきながらダンベルを拾い、またブルガリアンスクワットを繰り返す。15回ずつ1セットで再び30秒のインターバル。ダンベルを下ろし、自分の尻と後ろ腿を叩き、そしてまたダンベルを拾い、片足を椅子にかける……。最後の5回は息遣いではなく、抑制した悲鳴のようなこもった声が漏れた。

 ブルガリアンスクワットは週2回、3セットずつ自分に課している。

 目的は尻周りを重点的に鍛えること。理由は4年目から増やす予定の新技の影響だ。立ち姿勢からのサンセットフリップという前宙して尻から横たわった相手に落ちるという技である。本来ならコーナートップなどから使うこの技を、相手のすぐ側、マットの上の高さでやる。

 その威力強化と、避けられたり迎撃されたときに骨盤や周辺の骨や神経に入るダメージを軽くするため、尻周りの筋肉を増やしている。縄跳びも試合の中盤から後半でヘタらずにその技をきちんと出すための持久的な脚力強化のために追加した。


 本来なら、体重をもっと増やしてから筋力増強を考えるべきなのだろう。だがそれは今のファイトスタイルには沿わない。膂力りょりょくで相手を投げ飛ばしたり、体重と筋力量で相手を弾き飛ばす選手ではない。軽快な機動力を活かした戦い方をする選手だ。体型もサバンナの草食動物のような細身できちんと筋肉の見えるボディラインを自主的に作っている。なお、身長157センチ、体重は52キロある。体脂肪率は14%ほどだ。

 体重を増やしすぎると試合中の動きが鈍くなる。逆にこれ以上絞ると技を受ける時の負担が上がる。


 ダンベルを10キロのプレートを2枚つけたバーベルに替え、上腿と体幹を鍛えるトレーニングを更に3種3セットずつこなしたところで、今日の仕上げの自主トレは終了とした。

 使った器具をタオルでぬぐい、念入りにストレッチをして、床を拭いた。

 それが済んだところで一息つくようにボトルに残ったBCAAを飲み干し、脱ぎ捨てたティーシャツを拾い、部屋の隅に置かれた巾着袋を取る。

 その中から着替えとバスタオルとスマホを引き抜いて、道場興行の時は選手入退場口になる狭い戸口の選手控室ロッカールーム前を抜け、一番奥のシャワールームに向かう。

 シャワーは全て個室で3室ある。男女を区別するマークはない、男女共用だ。脱衣場で内鍵をかければ使用中の表示だけがドアに表示される仕組みになっている。


 施錠された完全な密室のそこは、照明をつけなければ常に灯っている足元灯だけの暗がりだった。

 薄暗い中で、慣れた手つきで脱衣籠に着替えとタオルを入れ、服を脱ぎ、真っ暗なシャワー室に入る。

 水道水のままで十分というほどに温まったいかにも夏らしいシャワーを浴びた。汗を落としながら、自分の全身の状態を確かめるように丁寧に体をさする。身に覚えのない違和感や、痛みはない。胸元、胸骨上部から第一肋骨のあたり、いわゆるデコルテのあたりの肌の下の痛みは、昨晩の板橋での他団体興行の試合でのチョップ合戦の青アザだろう。尻から上腿にかけて熱っぽいのは、筋トレした分の炎症。右肩がだるいのは、試合で自分より20キロ重い選手にボディスラムを掛けた時の疲労が抜けきってないのかもしれない。

 胸骨半ばから下、大胸筋の上に大して発達していない乳房がのっている。全体的に、まだ中学1年でデビューしたときに来ていたコスチュームが入らないというほどではない。

 身長こそ中1から3年で12センチほど伸びた。だが、デビュー時のコスチュームも、成長を想定してストレッチ素材で作っていた。2ヶ月前に出来上がったばかりの3代目のコスチュームに比べれば、かなりシンプルなデザインだ。それでも数十年前の新人女子プロレスラーのように競泳水着を加工して着るわけではない。


 この8月でデビュー4年目になる。

 デビュー当時からマジヤバプロレスの女子では基礎中の基礎であるドロップキックと相手によじ登って逆肩車から繰り出すヘッドシザーズ・ホイップを使ってきた。

 いまはそれに加えて、背後に組み付いて持ち上げて背中から叩き落とすフルネルソンバスター、コーナー付近では正面から相手の頭を脇に抱えてコーナーカバーで三角飛びから自分ごと転がって相手の頭頂部をマットに落とすスイングDDT、そして今夏からサンセット・フリップが持ち技に増えた。

 序盤の立ち姿勢での攻防チェーンレスリングやグラウンドでの関節技、試合展開の選手同士の動きの流れの中で放つタイプの投げ技、例えばアームドラッグやホイップ系は小さい頃から大人の稽古に混ざる中で自然と身についているし、その場その場での思いつきで対応する事も多いからいちいち手札として数えていない。

 タイプとしてはオールラウンダー寄りの選手と自分では思っている。

 ただ、多団体に招かれた時コミカル系の親と同世代か、それより上のレスラーと試合を組まれた時だけは少ししんどい。

 試合を組んで貰えるのは非常に名誉なことだ。

 だが、受けるときのリアクションが他の選手の模範解答をなぞったようなものになってしまって、うまく自分のものとして差別化できていないのが嫌になるのだ。同じくらい、後日その試合の動画をSNSやU-tubeなどで見た学校の知り合いからグルチャなどで晒されると少し落ち込む。

 今の自分の路線は、安定感はあるが、自分ではやや凡庸だと感じている。

 レスラーに求められるスター性という点を考えると、もう少し派手な手数がほしくて、サンセットフリップを増やした。


 顔を手で拭いながら、少しため息をついた。


 一応、これでも客席数500人規模の会場の興行なら、60枚か70枚はサインポートレートを販売するだけの集客力のある選手だとは自覚している。それでも団体を本格的に牽引する選手としてはまだ心もとない。本格的なスターではないと思っている。

 この団体でスターになるには、乗り越えなければならない壁がある。

 自分にプロレスを仕込んだ師匠にあたる人物で、自分よりも遥かに優れた選手だ。

 その人の大きな決め技は、今挙げた技のほかに更に二つある。コーナートップから二回転の後方宙返りをして腹から相手に落ちる『ダブルローテーション・ムーンサルトプレス』。もう一つは立った相手に後ろから相手右脇腹に絡みついて逆上がりをし、そのまま頭を足で挟み、相手の首を軸に相手左脇へと上体を流し、そこから降りる勢いで相手を投げ飛ばす『コルバタ』。


 特に前者は所属団体の王座戦やその防衛戦などでは必ず二度はくり出していた。このやり過ぎで20代で膝を負傷。その治療期間中に妊娠し、結婚して自分を産んだ。

 そう、遺伝上の母親である。

 全盛期にはいわゆるハイフライヤーと呼ばれるタイプの選手だったが、自分を産んだ後にも膝の負傷を重ねて、今ではオールラウンダーに落ち着いている。

 だが、母親でなかった時間のほうが長い。

 いや、そもそも生まれた瞬間から母であった時は一瞬もなかっただろう。

 もちろんプロレスの師匠として向き合っていた時間も長い。

 だが、それ以上に家庭環境が複雑だった。


 家庭環境に関して、初対面の人から質問されることは多い。面倒な時にはこう聞き返す。

「あなたの両親は? なぜあなたは男と女の親から生まれたんですか?」

 大抵のひとはこう応える。

「それが普通だから」「それが自然な事だから」

 その何気ないことばの裏に、無意識に『あなたの場合は異常だ』という傷つける表現が含まれていることに、8割以上の人は気づかない。

 気づく人も、自身の口からその言葉が出た後、少女の反応を見て『自分がなにを言ったのか』はたと理解した後だ。そして反射的に謝ってくる。「ごめんなさい」「傷つけるつもりはなかった」「悪気はなかった」と。


 今はもうだいぶ慣れた。いや、麻痺したという方が正しいだろう。プロレスと同じだ。痛みを受け続けることで痛みに体が慣れる。道場での自分の限界を試すような日々で根性が磨かれる。

 特に関節技に似ているかもしれない。新人はきれいに極まった関節技ひとつでギブアップする。実戦やスパーリングを重ねるほどにその技が極まり切る前に少し状態を崩すことを覚え、そこから繰り出されるゴリ押しの痛みに耐えてマットを這い、ロープブレイクを取りにいく。

 それと同じことだ。何度も当てこすられるうちに、対処の仕方を自分なりに覚えた。


 ……そんな家庭環境でも、誰に対しても胸を張って言えることがあった。

 自分は決して不幸ではなかった。


 女性の体の変化については、親よりも親の同僚と呼ぶべき選手たちから習った。例えば試合時の生理用品の選び方、試合用のラメ多めでシャドー濃いめの化粧の仕方、コンシーラーでの連戦のアザの隠し方も、親ではなく彼女たちから学んだ。

 冗談半分に『ママ』と呼んで抱きつけば、鬱陶しそうな苦笑いをしつつも温かいハグを返してくれる未婚の女子レスラーは何人もいた。


 ただ、彼女たちからの『ご飯食べ行こう、奢ってあげる』という言葉に応えられないのだけが小さい頃から心苦しかった。


 乳児期から中学2年の秋の定期検診まで、牛乳製品と牛肉にアレルギーがある体質だったのだ。その頃はアトピー体質だった。先輩レスラーの中には、元美容学校卒の知識を活かして肌にあった化粧品をわざわざパッチテスト用のサンプルを取り寄せてまで探してくれる人もいた。


 プロレスラーが飯を奢るといえば、大抵は肉か酒である。

 未成年であることを踏まえれば、当然肉、すなわち牛肉系の焼き肉になる。だが体質的にそれは無理であり、じゃあラーメンくらいならいけるかといえば、今度はそのラーメン屋がスープの出汁に牛由来のものなど使っていればたちどころに喉が詰まって息ができなくなった。


 安心して食べられるのはせいぜい、選手が自分の試合前の軽食として用意してきたようなラップに包まれたおにぎりくらいだった。

 焼き肉よりも差し入れの洋菓子よりも、手作りの固めのおにぎりを選ぶ安上がりな女の子。そういう子として控室であらゆる入場曲と変わらないゴングと大人たちの無邪気な歓声を聞きながら育った。


 ……シャワーを浴び終えて、髪を絞り、体をふきながら脱衣場に戻ると、携帯の画面が光っていた。

 師匠兼団体社長兼親からのメッセージアプリの着信だった。


 画像がある。見たことのない若い娘だった。髪は短く、化粧はやや濃い。顔立ちは脂肪感がなく中性的だが、不細工ではない。ややカワウソ系といったところか、黒目の大きくなるカラコンを入れたら更に可愛くなる顔だと思った。

 服装は小さなネックレスに白ブラウス、デニムの深いVネックのようなものを併せていて、プロレス志望にしては控えめな雰囲気がある。

 今どきの若い女子レスラーの街服選びは、夏は腹筋を見せびらかすか、全身の筋肉をいかに自然に隠すかの二択である。その点でいえば後者に近い。


『練習生取る。面倒見てやってほしい。細かくは帰ってから話す。午後も東クさんでコーチあるので帰るのは夜』


 髪をタオルでまとめ上げただけの全裸のまま、返信を打つ。


『今夜は豆カレー。肉は皮付き鶏むねを別焼きで』


 それだけ打って、備え付けのドライヤーで髪を乾かし始めた。半分ほど乾いたところで携帯を見ると、『うまそう』というスタンプが返ってきていた。


 時刻表示は午後1時半を回っていた。

 そろそろフロアに埃取りモップをかけて窓を閉め、エアコンを稼働させておかなければいけない。午後3時からの教室の先生が来てしまう。

 それを考えながら、いそいそと暗闇で下着やハーフパンツ、腹出し丈のティーシャツなどを着込む。少女の私服のスタイルは筋肉を見せびらかす方だ。

 最後にシャワー室の明かりと換気扇をつけて、中の水気や抜け毛などを自分の体を拭いたタオルでぬぐい取ってから個室を出た。開錠状態のままシャワー室を出ると勝手に天井灯はオフになる。


 そう、彼女の名前をまだ紹介していない。

 小田晴波はるな、リングネームは晴嵐セイラ

 トランス男性を公表している女子プロレスラー朱雀スザク翼の実の娘である。

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