第2話 マナティの冬
諏訪湖温泉植物館には温泉熱を利用した熱帯植物園があり、寒冷地では珍しい色濃い植物や、ラン科の花も見ることができる。以前は観光施設として建てられたが、今ではマナティの飼育施設となっている。マナティはフロリダのような温暖な汽水域(海水と川が交わる水域)に生息しており、水温が下がると生きてゆくことはできない。諏訪の冬は厳しい、今では湖面に氷が張ることは少なくなったが、夜の気温は氷点下になる。マナティは冬の間は、温泉水を利用したこの施設内で過ごしている。夏になると諏訪湖に放され、水辺をのんびり泳ぎ、ちょっとしたアイドル的存在となっている。
マナティが飼育されるきっかけは、水辺に広がっている水生植物のヒシの駆除が目的であった。温暖化の影響もあり繁殖力の強いヒシは水辺を緑の敷物のように覆う。高原の湖のイメージにはそぐわず、青く清らかな湖を期待して訪れる観光客をがっかりさせることもある。水質浄化には役立っている面もあるが、秋には赤茶けて枯れた姿となり、やがて腐り、吸収した栄養素の多くが水に溶けだす。
マナティは草食性の動物で非常におとなしい。人魚と言われることもあるが、実際はずんぐりとした体で、ヒレのような尾を持ち、顔は牛に似ているかもしれない。水棲動物でも肉食のアザラシは、陸上ではゴロゴロしているが水中での動きは素早い。一方マナティは陸上に上がることはない。いつものんびり群れて泳いでおり、水中の羊といった感じだ。このマナティにヒシを食べてもらおうと飼われ始めた。おとなしいといっても、水温が上がる夏には活発に水辺を泳ぎ回り、ヒシをよく食べる。マナティの飼育実績から、貴重な水棲動物への影響は少なく、ヒシの駆除の効果が実証された。しかし頭数はあまり増えていない。課題は冬をどう乗り切るかということだ。
大寒波が来た時には多くのマナティが死んだ年もあったが、今は温泉水を利用して、冬を越している。ヒシを食べて脂肪を蓄えたマナティは水温が低くなると、温泉水が流れ込んでいる保護池周辺に集まってくる。気温が氷点下になったとしても、水温さえ保っていれば問題はない。経費のかかる保護施設もいらないし、行動を制限し人為的に運んだりする必要もない。冬場にはあまり動かず、ほとんどじっとしているし密集しても暴れることは無い。わずかな水流さえあれば、水が腐ることもなく清掃の必要も少ない。温泉水のミネラル成分も健康維持に役立っている。ようするに非常に飼育しやすいのである。しかも結構かわいい。
諏訪の環境は気温以外の点でも自生地のフロリダとはかなり違う、野生動物は繊細な一面があり、病気や繁殖など解らないことも多い。今では温泉植物館が拠点となり、諏訪水系理科経済大学と共同でマナティの研究が行われている。
諏訪水系化学経済大学は水資源の保護と活用を研究するための大学だ。水資源は日本に残された最後の資源であり。人類にとっても最も重要な資源の一つだ。日本は雨が多く、地図で見ると毛細血管のように至る所に川がある。このように水に恵まれたため、この幸運に気づかないばかりか、汚してしまった歴史もある。水資源を守り有効に使い、世界に貢献することを理念として設立された。
ハルミは以前、名古屋に近い水族館に勤めていた。近年の夏は猛暑が続き、気温が40度を超す日が何日も続いた。電力が不足すると、十分に冷房を使えない日もある。特に諏訪で生まれ育った彼女は、夏になると体調を崩した。今では故郷の田舎に戻り、水棲動物の飼育実績を生かせる温泉植物館へ就職した。
今年は夏ばかりでなく、秋まで暑かった。しかし初冬に入るとグッと気温が下がった。久しぶりに寒い冬になりそうだ。早くもシベリアの強い寒気の先陣がアルプスを超え、塩尻峠から吹き降ろした。寒さに慣れているとはいえ、早朝勤務はつらい。マナティは、ねぐらの保護池の温泉水でぬくぬくしているはずだ。それでも寒風が吹くと水面の水温は低くなり、マナティの背中が冷えると、皮膚がひび割れ病気になることがある。
ハルミの家は1.5階建ての移動設置式プレビルドハウスで、比較的高額なデザイナーズクラス、敷地は賃貸だ。プレビルドハウスは耐震性だけでなく体災害性もある。構造躯体は3本のポールで支えられているが、耐水性があり浸水時は2mまで浮き上がる。鉄砲水や土石流では破損するかもしれないが、カプセル状の構造は強固でペシャンコにつぶれることは無い。太陽光発電パネルは標準装備され、外装はシンプルで色彩も統一されている。プレビルドハウスの並ぶ街並みは、統一感があり田舎にもよく合う。内装は例えば純日本風にしたりと、こだわることが可能だ。資源も予算も限られている今、社会も個人も節約できるところは節約し、使うべきところに使う。我慢しなければならない事も多いが、何もかもあきらめることはない。
彼女は、1階をペットを飼えるように改装してアシカの“カッシ”を飼っている。アシカは比較的寒さにも強い、と言っても諏訪の寒さには耐えられないため、冬には室内に入れている。アシカは海の動物だと思われているが、海水は必ずしも必要ない。海に生息しているのは、獲物となる魚が豊富なためだろう。そして、海で魚を捕るために、高い運動能力を持つようになった。しかも、ペットとして人間の住む環境にも適応できる。乾燥に注意すれば、人間のように毎日お風呂に入れるだけで十分だ。人間だってはるか昔には、水生のサルだったという説もある。アシカは知能も高く、一緒に暮らしていると、ますます人間に近い動物だと思えてくる。
ベッドサイドに置いたUiフォンのアラームが鳴った。彼女のUiフォンは眼鏡タイプ、側面の“つる”にモニター用レンズが畳み込まれ、ミラーで視界の一部にモニターが映る。運転中や仕事中に使うのにも便利だ。つるの部分は幅があるが、眼鏡として違和感はなく重すぎることもない。ただしバッテリー容量は少ないため長時間使用する場合は、首掛け型やポケットに入れるタブレット型の補助バッテリーが必要だ(タブレット型はこれだけでも通信可能だ)。
ハルミはUiフォンをつけ、アラーム内容確認した。マナティ施設に異常があったようだ。素早く着替え、バッテリー内臓のキャップにUiフォンをつないだ、マイクチップを伸ばしミスズに電話をかけた…… 回答がない。
庭のポートに止めていた二人乗りeAiスクーターに乗り込み、モータースイッチをいれた。
「あれ?」
起動しない。こんな時に、やんなっちゃう。Uiに入力パレットを表示し、空中で指を動かしメールを打った。ネイルに特殊な認識マークを貼っておくと、カメラが指先とその動きを認識し文字を打ったり、Uiの操作ができる。
〈ミスズごめん、少しおくれる〉
ミスズは諏訪水理科経済大学の研究生で、水質浄化の技術研究をしており、今は温泉植物館に出向してマナティの研究をしている。実際は後輩だが、ほとんど同期と言ってもいい仕事仲間だ。ハルミは理科系のことは苦手だったが、彼と一緒に仕事をするうちに、飼育だけでなく“研究”にも興味を持つようになっていた。
ハルミはUiのメニューでeAiを呼び出し点検した。バッテリー不足だ。再充電ボタンを押した。充電しておいたと思ったが、冷え込んだ影響かも知れない。急速に充電しても20分ほどかかる。もう一度ミスズに電話した。今度は出た。
「どうしたの? 水温が?… これから増やすのね、良かった。ううん、バッテリーが…… ごめんね、じゃあ」
どうやら、池の水温が低下したようだ。お湯の量を増やすと言っていた、良かった。
池に着いた、入り口は開いている。保護池は白い水蒸気に覆われている。すぐに水温を確認する。摂氏8度!
「低すぎる」
まだ上がっていないの?この温度が続けば、低体温症になってしまうかもしれない。事務所へ向かった。
「ミスズ?」。
ミスズがいた。何か焦っているようだ。
「どうしたの?」
「お湯が出ていないんだ。どこか不具合があるようだけど…… 原因が判らない」
二人でいろいろ探ったが、故障原因は見つけられなかった。
「どこか凍り付いているのか?」
「まだ凍るほどじゃないよ、とにかく早く何とかしなくちゃ」
「設備会社に見てもらおう」
電話をかけたが、会社はまだ始まっていない。かけなおそう。
「マナティを見てくる」
ハルミはウエットスーツに着替え、池に入った。水蒸気の上がる池は温かく見えるが、冷たい水温に体がゾッとする。マナティたちはじっとしているが、見ただけでは体調までは判らない。そうだ、水をかき混ぜよう。表面の冷たい水がかき回されれば、少しは温度が上がるだろう。マナティたちの間を泳ぎ回り、水をかき混ぜ続けた。
「おーい、大丈夫か」
「戻ってこいよ、所長に連絡した。これから対策会議だ」
研究衣に着替え、体を温めたが心は冷えたままだ。もうあたりは明るくなっていたが、気温はなかなか上がらない。水温を再確認すると、さらに0.5度下がっている。
設備会社の人が到着し点検を始めた。点検の様子を見守るしかない。モーターが再開した音が聞こえたが、すぐ止まった。大丈夫だ、きっと治る。
「申し訳ありません、故障個所が見つかりません」
「パイプを掘り起こしてみないと、よく判りません」
「そんな、どのくらいかかります」
「そうですね、掘るだけで丸一日はかかります。修理までとなると…… 」
「とにかくすぐ取り掛かりますので、機材を持ってきます」
対策はまだ決まらない。とにかく水温を上げなければ。マナティたちはじっと耐えているはずだ。何とかしてお湯を運ぶしかない、どうやって……
消防団は! 地元の消防団に頼みこんだ。ポンプ車を出してもらっい、温泉から農業用タンクにお湯を入れて運ぶことにした。一往復するのに1時間以上かかる。とても間に合わないが、続けるしかない。
お昼近くになり、やっと水温が1度上がった。お湯を入れた効果だろうか、あるいは、太陽熱で水温も少し上がったためだろうか。初冬とはいえ太陽が当たれば水面の温度は上がる、しかし十分には上がらないだろう。今夜はさらに冷え込む予報だ。緊急事態とはいえ、一晩中お湯を運び続けるわけにはいかない。
消防団にはお礼を言った。
「少しは温度が上がって良かった。必要があれば、また連絡してください」
「ありがとうございました」
別の対策を考えなければ…… ここから3km程離れたところに新しい施設を建設中だ。温水設備はすでに完成している。そこまでマナティたちを運べることができれば…… しかし1頭ずつ運ぶことはとてもできない。この手で押してでも…… 現実的にはとても無理だ。何とか群れのまま移動できないだろうか。
「私、アシカを研究しているの」
ハルミは自分の考えを話そうと決めた。今後諏訪湖のマナティが増えれば、集めたり移動させたりする必要がでてくる。アシカを使いマナティを誘導できないかと夢を描いた。ペットのカッシを使い、マナティと泳ぎ、遊びながら訓練のまねごとをしていた。
「アシカが使えるかもしれない」
ハルミは皆に話した。カッシを使えばマナティたちを温泉施設まで運べるかもしれないと。
「そんな、無理だよ。何か別の方法はないの?」
「漁船に頼み、網で引いてもらえば」
「だめだよ、傷ついて暴れて死んでしまうよ」
「やるしかないは、私とカッシで」
「どうやってアシカに指示を出すんだい。ボートはスクリューがあり、危険で使えないでしょう」
「私が泳ぐは」
「こんな冷たい水では3kmも泳ぐなんて、無理だよ」
「弟に頼もう、カヌーが使える。弟はカヌーのインストラクターをやっているんだ」
足が悪くてもカヌーは操れる、まさに湖上の椅子だ。ミスズは、すぐさま弟にUi電話した。
ハルミは家に戻り、eAiの後ろのドアを開けた。
「カッシ、行こう、マナティたちを助けに」
カッシは答えることなく、久しぶりのお出かけにウキウキとして、器用に乗り込んだ。
チームがそろった。ミスズの弟ケンジは、すでにカヌーに乗って湖上に乗り出し、波の動きを確認している。カッシは遊びたくてウズウズしたり、ヒレを上げてポーズをとったり、餌をおねだりしたりしている。
「カッシ、今日は遊びじゃないのよ」少しだけ餌を上げた。
昼過ぎになり、水温は10度を超えた。いまならマナティたちも泳げるだろう。夕方になり、また温度が下がる前にたどり着かなければ。ハルミは2人乗りカヌーの後ろに乗り込んだ。
「よろしくお願いします」
「OK」
「カッシ、行くわよ」
カッシが水に飛び込んだ。水面に顔を出してハルミを見ると、水に潜った。しばらくマナティたちの周りを泳ぎ回る。マナティたちは驚いたように体を揺らし始めた。
「カッシ、こっち、皆を追って」
カヌーは先導するように前へ滑り出した。カッシはさらにマナティたちに近づき、ぶつかるかと思うと翻るように急ターンし、右に左にとマナティを追い立てる。外側のマナティが動揺し始めると、緊張が群れ全体に伝わる。マナティたちも体が押し合うほど接近したくはない、仕方なく群れ全体が動き出す。
「こっちよ」
いざ動き出すと、マナティたちは上手に進みだした。ハルミは進行方向とマナティたちの位置を確認し、カッシに指示を出した。カッシはそれを理解し、マナティたちをコントロールしている。賢いカッシ、初めてにしては上々だ。
とうとう冷たい水の中をなんとか泳ぎ切り。新施設のプールについた。
「カッシ、よくやった」
ハルミは、カヌーに近づいてきたカッシの背中をなぜた。カッシはハルミから餌をもらい、もっと遊ぼうよというように、また水に潜った。
一か八かの挑戦だったが、危機を乗り越えた。皆、必死だった。カッシだけは遊び気分だったかもしれないが、結局やり遂げた。この出来事で、羊を誘導する牧羊犬のようにアシカを使えることが実証された。カッシはもう私たちの一員だ。今後も、想像もしない危機が訪れるかもしれない、それでも皆で協力すれば乗り越えられる、きっと。人と、マナティと、アシカと共に、新たな関係を築き諏訪湖を守って行こう。夢の実現にまた一歩近づいた。
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