第66話 公務員、森を進む

 迷宮を出たら、別世界だった。

 信じられないほど濃密な緑の香りと、微かに漂う土の湿ったにおい。

 地面は踏みしめると柔らかく、落ち葉と苔がびっしりと広がっている。

 こんな場所、迷宮都市周辺にあったか?

 いつもの近隣の森ではないと思う。いや、近隣の森の奥深くという可能性もあるのか?

 振り返ると、見たことのない迷宮の入り口がある。

 心臓がドクン、ドクンと強く脈打つ。

 明らかにおかしい。

 俺は混乱しつつも、周囲を慎重に観察する。

 とりあえず、適当に歩いてみるしかないか。



 数歩進んだ、その瞬間だった。

 バキバキバキッ!!

 遠くの茂みが弾け飛び、何か巨大なものが現れた。


「なっ……!?」


 牛の頭を持つ、巨大な魔物だった。

 全身が岩のように硬そうな筋肉で覆われ、鋭い爪と二本の角を持っている。

 その大きさは、ゆうに3メートルを超える。

(……ゲームでよくいるミノタウロス、みたいなやつか?)

 全身がぞわぞわと粟立つ。

  直感的に、危険な魔物だと理解した。

 やばい気が回らなくて、隠密を発動してなかった。

 視界に入ってはいないが、すでに俺は気づかれている。


「クゥォォォォオオ……!」


 低く、地響きのような咆哮が森に響く。


「……マズいな」


 俺は急いで ポーチから石を取り出し、《エンチャント火》 を使い、強化する。


「……はぁっ!!」


 シュッ!!

 渾身の力で投げつけると、赤熱した石が魔物の肩に直撃した――が。

(効いてない!?)

 たしかに、少し怯んだ。だが、それだけだ。

 致命傷には程遠い。

 そして――


「グォオオオオッ!!!」


 魔物がこちらを振り向き、腕が振り上げられた。

 ズガァァン!!!

 圧倒的な破壊力で、目の前の木が折れながら倒れ込む。俺は反射的に後ろへ跳ぶ。


「っ……!? 強すぎる!!」


 この攻撃をまともに喰らったら 間違いなく即死だ。全身に冷たい汗が噴き出し、心臓がバクバクと暴れだす。


 ヤバい、ヤバい……! こんなの、今の俺のレベルで勝てる相手じゃない!!

 逃げ道を探そうと視線を巡らせるが、森のどこも見渡す限り同じような景色だ。どこへ行けば安全なのか、まるでわからない。

 俺は咄嗟に木々の間を縫うように走り、木の陰へと飛び込んだ。

 同時に 隠密を発動し、静寂の砂をばら撒く。

 頼む……見失え!

 魔物の巨体がゆっくりと辺りを見回している。

 咆哮が森の中にこだまし、空気がピリピリと張り詰める。


「グルゥォォ……」


 ……どうやら、俺を見失ったらしい。


 ふうっ。


 思わず、隠れていた木に身体を預け、一息ついた。静寂の砂の効果は偉大すぎる。


 少ししてから、慎重に周囲を見回しながら、ゆっくりとその場を離れる。もちろん、隠密は最大限に意識している。


 ……クソ、ここはどこなんだ? なんでこんな魔物がいる!?


 迷宮都市周辺の森に こんな強敵がいるはずがない。考えれば考えるほど、状況は異常だった。


 どういうことだ……


 疑問と恐怖が入り混じり、俺の思考は混乱していた。

 ここがどこなのか――そもそもどうやってここに来たのかも分からない。

 ひとまず、今は魔物から逃れられた。

 次にするべきことは冷静に周囲を探索し、この森からの脱出の手がかりを探すことだ。


「……困ったな」


 俺は小さく息を吐き、周囲の気配を探りながら、次の行動を考え始めた。

 まずは状況の把握だ。今いる場所がどこなのか、どう進むべきなのかを考えないといけない。

 《マッピング》が使えれば助かるのだが、わかっていたが自然の中では機能しない。

 迷宮内では大活躍だったが、ないものねだりをしても仕方がない。


「さて、どうするか……」


 適当に進んでも、森の中では方向感覚を失うだけだ。俺はしばらく周囲を観察することにした。

 地面をよく見てみると、何者かに踏み固められた道がある。まるで獣道のようになっているが、明らかに何者かが頻繁に行き来している形跡だ。


 迷宮への出入りがあるのか……?


 冒険者が迷宮を出入りしている可能性もあるが、確証はない。とにかく、この道を辿れば、開けた場所に出られるかもしれない。

 ただ、どこに繋がっているのかは分からない。慎重に進むしかないな。

 先に進むと、道が二手に分かれていた。


「……さて、どうしたもんか」


 俺は立ち止まり、周囲を見渡す。

 一方の道は、踏み固められている。獣道のようになっており、何者かが頻繁に通っている形跡がある。迷宮から出入りする冒険者のものかもしれないし、あるいは魔物の通り道か……。

 もう一方は、雑草が茂っていて、明らかに人の通りが少ない道。

 密生した藪が広がり、枝葉が道へと張り出している。ただ、うっすらと、誰かが通ったことは間違いない道はあるようだ。


「うーん、どっちの方向が正解なんだろうか」


 俺はしばらく悩んだが、とりあえず目印を残して移動することにした。ナイフを取り出し、近くの木に軽く刻みを入れる。


「これで、少なくとも来た道は分かるな」


 さて、どちらの道を選ぶか……。

 踏み固められた道は、進みやすい。だが、それだけに魔物の巣に繋がっている可能性もある。逆に、雑草が茂った道は、通る者が少ないため、魔物と出会う可能性が低そうで安全かもしれないが、どこに繋がっているのかまるで分からない。


「うーん……」


 俺はしばらく腕を組んで考え込む。

 確率的に言えば、踏み固められている道を選ぶほうが、生存率は高い……はず。

 迷いながらも、踏み固められている道を進むことにした。

 注意深く進んでいく。


「魔物が作った道か、人間が作った道か……」


 周囲を観察しながら、俺は慎重に踏み跡を確認する。すると、蹄のような跡や、大きな足跡が残っていた。

 ……これ、人間のじゃないな。


「……やっぱり、こっちは魔物が通る道なのか?」


 俺は足元の踏み跡をじっと見つめる。蹄の跡、巨大な足跡、ところどころ地面に深くめり込んだ爪痕。どう見ても、人間が頻繁に通る道ではない。


「これを辿った先に、人の集落があるとは思えないな……」


 だが、もう一方の道も危険がないとは限らない。変に茂みが多く、魔物が潜んでいてもおかしくない。

 結局、どっちもリスクがあるんだよな……。

 一度、慎重に辺りを確認しながら、元きた道へ戻ることにした。


「よし、もう片方の道も確認してから、判断しよう」


 俺は先ほどの分かれ道まで戻り、今度はもう片方の道を観察する。どっちかに進まないといけないのは確かなら、情報収集してから判断すべきだ。



 木々が鬱蒼と生い茂り、わずかに差し込む光が地面に淡い模様を描いている。道らしきものはあるが、人の手が加えられた気配はまるでない。足元には厚く積もった枯葉が広がり、踏みしめるたびにカサリと乾いた音が響いた。

 注意深く、進んでいく。


「これは……剣で切り払った跡か?」


 道の両端に伸びた木の幹に大きな傷跡がある。風化しており明らかに長いこと時間がたっている傷跡だ。しかし、獣のツノのようなものではつけられない、鋭利な剣で切ったような傷である。


「なるほど……こっちはかなり昔に人間が通った道の可能性があるな」


 踏み固められた道に比べれば、人の通りは明らかに少なそうだが、それでも確かに人が通った形跡がある。


「よし、こっちを進んでみるか」


 俺はナイフで木にもう一つの目印を刻み、慎重に《隠密》を発動しながら足を踏み入れた。


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