第3話
機を見るに敏。その彼の特質が遺憾なく発揮されたのが、オスマン国戦であろう。なので、ここではそれを見ていこう。ただ、その前に少しばかりこのときのオスマン国について説明する必要があろう。
その国名を聞いて想い浮かべるは、ウィーン攻囲に代表されるヨーロッパと対峙した巨大帝国ではないだろうか? あるいは、むしろ、英・仏・露などの諸列強に呑み込まれて行く晩秋の姿であろうか? ただ、バヤズィト1世(在位 西暦1389~1402)の時点では、帝国と呼べるほどには至ってない。その途上にある。
アナトリア半島(現トルコ共和国)の西北部に発し、アジア側、ヨーロッパ(ギリシャ)側双方に拡大して来た。アジア側では自ずとティムールの勢力圏と接することになる。ことの発端はエルジンジャン(アナトリア半島東部)という城市のワリー(領主)であるタハルタンにオスマン側が貢納を求めたことにある。
そこでこの者は臣従しておるティムールに相談した。モンゴルと同様、ティムールの統治も間接支配であり、現地の有力者を領主と認め、その代わりに貢納や戦への参加・協力を求めるというものであった。なのでオスマン側のこの要求は、ティムールの権益を侵害するものであった。
ティムールはここで、脅迫まがいの威圧的な手紙を送る。いわく「分をわきまえよ」「そなたの先祖は船乗りであったな」――オスマンが騎馬勢であると知って、あえて、こう言うのである。侮蔑でしかなかろう。更には、「頑強な抵抗も誇りも捨てよ」とまで。
バヤズィト1世からは、ティムールとの戦を望み、破滅をもたらしてやろうとの返答が来た。
計算通りであったのだろう。ティムールはオスマンの東部拠点であるシヴァス(グーグルマップではシワス。前記エルジンジャンよりは西にある)に向け進軍を開始する。先述の領主タハルタンに加え、他の大部隊も合流したとされる。ティムールの庇護を求める現地勢力であろう。
このシヴァスの城市は、およそ18メートルの城壁を備え、加えて3方を水堀で守られる堅城であり、守備兵はおよそ4千。18日間に及ぶ攻城戦――投石機を用い、唯一水堀を備えぬ方面から坑道を掘り進んだ末に、攻め落とし、城は地にならされたと伝えられる。
投石機の使用も、城を地にならすことも、チンギス征西時のモンゴル軍の行いと同じである。ところで、『地にならす』との言葉を字義通りに捉える必要は無い。全ての建物を破壊する訳ではない。この時代は人力でなさざるをえず、その労力たるや、とんでもないものとなる。これを守る城壁を破壊したのである。ただ、城壁を壊された城市や都城は、周辺の小さな武装勢力の略奪行為に対してさえ、防衛能力を保ち得ず、衰退することも多い。
また守備兵のうち、イスラーム教徒は助命し、異教徒のみ殺したと伝えられる。もともと、アナトリア半島はビザンチン(東ローマ)帝国の支配下ということもあり、キリスト教徒(ギリシア正教)が多い。なので、ここで殺されたのはキリスト教徒だろう。
そして、チンギスによる侵攻時はほぼ異教徒だったモンゴル勢であるが、およそそれから200年経ったこの時までには、西方に進出した勢力は、その多くがイスラームを受容しておった。(東方では、元朝のクビライのときにチベット密教を受容した)
ティムールは南にあるローマ以来の古都マラティヤなどを攻略したあと、帰還する。
恐らくティムールの遠征目的としては、まずバヤズィト1世や現地勢力――いずれにつくか様子見している者たちもおろう――に対し、この地の支配を譲る気のないことを明確に示すこと。また、自らオスマン国の軍隊と矢を交え、その実力を知りたいというところであったろう。この後の来たるべき決戦へ向けて。
このあと、ティムールがダマスカス(現在のシリアの首都)――ちなみに、かつて、ここを都としたアッバース朝はチンギスの孫のフレグに既に滅ぼされておる――に進軍しておる間に、オスマン側から動きがあった。前述のことの発端となったエルジンジャンの地を攻略したのである。領主のタハルタンはそのままの地位に留めたが、その妻子を人質として連れ去った。
このあと、オスマン側の動きは一貫しないものとなる。まさに、そのタハルタンを仲介役として、ティムールに謝罪と臣従の意思を伝えて来たのである。その理由は定かではないが、先のシヴァス戦の仕返しができればそれで良かったのか、もしくは、その国内で和戦を巡っての論争があり一本化できなかったのであろう。
これに対し、ティムールは、オスマンがかくまっている黒羊朝のカラ・ユースフを殺すか、引き渡すか、何とかしろと伝えた。
そののち、オスマン側に応じる動きが見られないため、ティムールはいよいよ再度のアナトリア進軍の意思を明らかにするも、国内の強い反対にあった。一つには有力武将たる大アミールたち、もう一つには占星術師たちによるもの。
前者いわく、ティムール軍は3年間の遠征で疲弊しており、他方オスマン側はそもそも国土が広大な大国であることに加え、休養十分であるとして。
ただ、ティムールには確信があったのだろう。ここが好機との。恐らく、それを見極めるために先にシヴァスへ親征したのである。己の下に、どの程度、現地軍が集まるか? 敵の城市を陥落できるのか、そしてなしうるならば、どの程度の期間で? その他、様々なことを知るために。
また、アミールたちの反対意見は、だからこそ今なのだとの論拠となり得た。現在にして既に大国というなら、こののち更に強大となろう。叩くなら、今をおいて他はないとの。
占星術師たちについては、懇意にしているウラマー(イスラーム学者)を呼び、見解を求めた。ティムールが何を求めているかを推し量れぬ訳ではない彼は、当然、その望むであろうことを答えた。つまり、現在の星の配置より占うならば、ティムールの運勢は大吉であり、敵は大凶であると。加えて、別のウラマーも牡羊座への彗星の出現をもって、ティムール軍の勝利を確約した。
よって、ティムールは1402年3月12日、進軍を始めた。シヴァスに到着すると、それ以上には進まず、オスマンのバヤズィト1世に送った使者が帰るのを待った。
その使者は、オスマン側の使者とともに戻った。ただティムールは、その携えるバヤズィト1世の贈り物を拒絶した。そして改めてカラ・ユースフの引き渡しを、加えて新たにキマフ城塞の譲渡を求めて、使者を戻した。
そののち、カイセリを経由して、アンゴラ(トルコ共和国の首都アンカラの旧称。アナトリア半島のほぼ真ん中にある)に至った。ティムールはここで遂にバヤズィト1世の軍と決戦をなすことになる。しかも相手は野戦に応じた。野戦最強のモンゴル軍の系譜にあるティムールの軍である。これ以上、望ましき展開はあるまい。
むしろ、なぜ、バヤズィト1世が籠城戦ではなく野戦を選択したのかというのが、焦点となろう。そもそも、これまで国境を接することが無かったので、オスマン軍はモンゴル系の騎馬の大軍――ティムールともジョチ家の軍とも――との戦の経験がなく、その強さを軽んじたということはあろう。
ただ、それ以上に、先の遠征でティムールが堅城たるシヴァス城を攻略してみせたことの方が大きかったのではないか。籠城したとしても、結局、攻城兵器にて落とされるならばと、追い詰められたのではないか?
案の定、結果はティムール軍の大勝利となった。おまけにバヤズィト1世は虜囚の身となり、帰国を許される前に亡くなってしまう。ティムールとしては、その地位に留めたまま、己に忠誠を誓わせる――その間接支配の駒となりうるとして、虜囚にしては良い扱いであったと伝えられるが。
こうなってみると、まさに先手先手をうったティムールの手の平の上でいいように転がされたようなものであり、やはり機を見るに敏――そして先の先を読むというティムールの特質を痛感せざるを得ない。
そしてこれより、第1話の最後にあげた疑問の答えを得られるのではないか。つまり、自らの死を予期するからこその東征の決行とみなしうるのではないか。ゆえに、その途上の死はむしろ当然の帰結であるともいえる。恐らくは体調の悪化など、何らかの予兆があったのだろう。
ティムール ひとしずくの鯨 @hitoshizukunokon
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