ぐるぐるコーヒー
闇鍋
男の名前は桶狭間忍。18歳の大学一年。
初めての一人暮らしは分からないことだらけで、何かと不安に思うことが多かったが、仕送りをしてくれる両親のことも考え、一日も早く独り立ちしなければと思い、アルバイトを始めようと思っていた。
学校の近くの、見るからにボロボロの、昔からあるといった風情の鄙びた喫茶店。その前を通ると「求人」の貼り紙があるのを目にしたので、とりあえず携帯で写真を撮った。
通学時にいつも通る場所にある喫茶店だったが、なかに入ったことはないものの、客がそんなに入ってる様子はなく。
おそらく客層は年齢高めで、常連客ばかりで。そんなに忙しい店ではないだろう。まだ一年生で課題も多く、バイトで労力を使うのも・・と思った桶狭間にとって、その店はバイト先として悪くないかも知れない。そう思った。
もともと祖父に可愛がられ育ったこともあって、年の離れた人の話を聞くことも慣れていたので、「この店なら自分でも馴染めそうだ」と思い、携帯のカメラロールを見返して店に電話を入れた。
店主は、70歳を越えたおじいちゃんと言った風貌で、はっきりいって何を言ってるのか聞き取るのが困難なレベルのモゴモゴとした喋り。コミュニケーションの点に不安があったが、人柄は優しそうで。よく笑う人だったので、面接で聞かれたことにハキハキと返事をしていたら、その場で即採用となった。
桶狭間忍の仕事は、客の注文を取り、店主に伝える。いわゆるホール担当というやつで、料理なんかは全部店主が作ってくれるので、自分はそれが出来上がるまで、邪魔にならない程度に老人客の話し相手をすれば良いのだろう。そう予測して、負担にも感じなかった。
カラコロと、店のドアについたベルの鳴る音がした。
「いらっしゃいませ」
と声をかけると、そこには無言でズカズカと、いつも自分が座っているであろう席へと向かう老婆。
桶狭間は、店主に目をやったが微動だにしてなかったので、これもよくあることなのだろうと思い、何も言わずその姿を見ていた。
「あの人にこれ」
とよく聞き取れない、モゴモゴとした声で店主がホットコーヒーをカウンターに置いた。
これをあの老婆の席に運べばいいのか。
「お待たせしました」
そう言って、ホットコーヒーを老婆の座る席のテーブルに置いた。
老婆はずっと下を向いていて、ボサボサの長髪の白髪頭で、顔はよく見えず。ずっと俯いているので、目の前に置いたコーヒーのことも気付いているのか定かではなかったが、こういう場面ではとりあえず何もしないでいるのが正解ということを、桶狭間はそれまでの年配者との交流で学んでいたので、それとなく老婆の様子を見守っていた。
コーヒーを置いてから、1〜2分した後に老婆は急に顔を上げ、コーヒーに目をやった。
そして、テーブルの隅に置いてあるフレッシュの蓋を開け、コーヒーに注ぎ、スプーンでコーヒーをかき混ぜ始めた。
これがここの日常なんだ。
と理解した桶狭間は、次にいつ注文が来ても良いように、ホールの端っこに立ち続けた。
老婆はゆっくりとコーヒーをかき混ぜ、かき混ぜ続けた。
10回、20回どころじゃない。
延々に、延々に、終わることがないのではないかと他人ごとながら心配、というか、なにか異様な感触を覚えるその行為に不安を覚え、店主に目をやったが店主は新聞に目を通して、ちっとも気にかけてない様子。
桶狭間は、とりあえず客の邪魔にならないよう、立ち続けるのが正解だと判断し、かといってコーヒーをかき混ぜ続ける老婆を凝視するのもおかしいので、横目でその姿をずっと見ていた。
もう5分は経ったんじゃないか?
まだかき混ぜてる。
そう思い、桶狭間は店の掛け時計に目をやった。午後4時20分だった。
他に客はおらず、ホールにいるのは桶狭間とその老婆のみ。
老婆は無言でコーヒーをかき混ぜ続ける。
気まずい空気を感じたが、それを顔に出してはいけないと思い、なにか考えごとをしようと思った。
明日、提出する課題のこと、今日の晩メシのこと、そういえば実家に今日は電話してなかったからバイトが終わったら電話しないといけなかったな。
そんなことを考えていたら、カチャっとコーヒーカップとスプーンがぶつかる音がしたので、老婆のほうに目をやった。
まだかき混ぜてる。
時計に目をやると午後4時半。
もう10分以上、老婆はコーヒーをかき混ぜ続けている。
店主に目をやると、無言で新聞を読むのに没頭していた。
自分はいったい何をすればいいのか?
桶狭間は、分からなくなった。
しかし、コーヒーをかき混ぜるのは他の客の迷惑になる行為でもないし、第一ほかに客は誰一人居ないし、まったく問題はない。
ただ自分が驚いているだけで、前からここはこういう場所なんだ。
そう思うようにして、平静を装った。
時計の針は気付けば、4時40分を指していた。
もう20分経過したはずが、まだかき混ぜてる。
ミルクはすっかりコーヒーの黒に馴染んで、フレッシュ本来の白でなくなり、コーヒーの黒と一体となり、カフェオレのような、ない混ぜの色になっていた。おまけにコーヒーはホットだったから、流石にもう冷めてるはずだ。
なのに、まだかき混ぜてる。
店主は新聞を読み続けている。
ぐるぐるとコーヒーをかき混ぜるスプーンの動きを見ていると、桶狭間の頭の中もぐるぐると。何も考えることが難しくなったような気分になり、ただぐるぐると混ざり続けるコーヒーの所作を見続けた。
意外と老婆がコーヒーをかき混ぜる所作に美しく。その所作を見てるうちに、次第にどうでもいいような気分になって来た。
気付けば、時計の針は4時50分を指していた。
閉店時間は午後5時だった。閉店の10分前にはドリンクのラストオーダーを聞いてくれ、と事前に店主より言われていた桶狭間は、コーヒーをかき混ぜ続ける老婆に声をかけた。
「すみません、まもなく閉店なのですが、ドリンクのラストオーダーは大丈夫ですか?」
老婆は桶狭間の質問には答えず、コーヒーを混ぜる指を止め、コーヒーカップの取っ手を掴み、ずずっとひと息に飲み干した。
そして、こちらの顔を見て
「ありがとう、お会計お願いします」
と言って、満面の笑みを浮かべた。
桶狭間はギョッとしたが、「かしこまりました」と言い、レジへと向かった。
最後の客、つまりコーヒーをかき混ぜ続けた老婆が帰ったあと、桶狭間は調理道具の鍋やフライパンの後片付けをしている店主に声をかけた。
「あの、さっきのお客さん、なんなんですか?」
店主は、はっきりと聞こえる声でこう言った。
「さあ?わからん」
ぐるぐるコーヒー 闇鍋 @yaminabe_ttt
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