こんにちは。お邪魔しております。
文字で書かれたお話って、読む側と書く側のある種の信頼関係で成立しているなーと思うのです。表現力、想像力など、本来なら個人で完結する能力が双方を繋ぐのが面白いなあって……なんか、語ってしまいました……恥ずかしい……
作者からの返信
いつもコメントありがとうごさいます。
この度はレビューまでいただき、忝ないのです。
〝なんか、語ってしまいました……恥ずかしい……〟
いやいやいや。
私、一万字くらい語ってますし。
絶対、私の方が恥ずかしいですよ。
いわば、〝まっ裸で立っている私〟の前で
〝チャックが開いていた遠部さん〟くらいの差があります。
裸ですよ。フリチンです。そんな人の前で恥ずかしいは通りませんから。
全然ですよ。勝手に裸、だったんですけどね。私は
さて。五話。
〝読む側と書く側のある種の信頼関係で成立しているなーと思うのです〟
ほんとうに同意です。
信頼がなくては、だれも一文も書くことはないでしょう。
〝どうせ伝わらない〟と思って他者に向けて書く意味がないです。自分宛のメモではないので。
そんな本来、他者へ伝わる保証もない自分の中だけの考えや思いからできた文章を、誰かに〝架けて〟考えや思いを伝える。
奇特な手段です。文章って。
そういう意味では。
書き手は底抜けの楽観主義者です。
でも書くときには、ムリにでもそんな心持ちでいなくてはならない。とも思います。
重ねて。この度もコメントやレビューをありがとうごさいます。
ネイティブレベルで出来る言語が日本語しかないので他言語との比較は出来ないのですが、日本語ってとても難しいですね。
難しいというよりは、「表現の幅が広すぎて未だに全容を理解できていない」という方が近いかも知れませんけど笑
読みやすい文章もあれば、読みづらい文章もある。読みづらい文章と言っても、自分が理解できていないだけで、実は純文学的には美しいとされる文章の場合もあるのかもしれません。
うん。
余計に分からなくなりますね笑笑
作者からの返信
この度は、コメントありがとうございます。
向夏夜なくのさんの〝恋についての全てを私は知りたい〟は日々通勤の際に拝読しておりました。現在次話待ち中ですね。
さて言葉。
考えると難しいです。
歩行と似てますね。
特に意識せずに歩くのですが、多くの人はその仕組みはあまり知らない。
効率的に歩いてもいない。
たぶん生涯知らないまま歩く。
言葉もその意味や構造を知らずにずっと読み書きするんだと思います。
読み難さと読み易さも人それぞれですね。
読み易いのは大事ですが、それは面白さとは直接には繋がらない。
言語学者や国文学者は、みんなが優れた作家というわけでもない。
知識があれば創作の水準が向上するわけでもない。
でも何か創作論とか知りたがったりもします。
読み書きするというのは、ずっとそんな感じなのでしょうね。
重ねてこの度は、コメントありがとうございました。
どれも、とても興味深い内容でした。
個人的に「オデ、イヌ……好き」の部分、大好きですね。
オデとイヌ、出てくるたびにくすっとしてしまうのは、この「オデ」の属性にあるのかもしれませんね。そこに、頭は弱いけどとても心の綺麗な純粋さがあるように感じるからなのかなと思いました。
また、本を読むというのは画面を見るのとは違って、きっと感じ方・捉え方が十人十色なのだろうと、はっとさせられました。どれだけ緻密に描写したところで、きっと思い浮かべる像は違うのだろうと、だからこそ本は面白いのかもしれませんね。
とても面白いお話を、ありがとうございました。
作者からの返信
いつもコメントやレビューや応援をありがとうございます。
お気遣いいただける、はる❀さんのような方々のお陰で、何とかやさぐれずに暮らしております。
さて。
はる❀さんの読解はとても正しくビックリです。
あんな変なエッセイなのに。
まさしく、本作の要点のひとつが
〝映画や芝居や音楽ライブなどと違って本は大勢で楽しむことはできないよね〟
ということで。
読書の孤独さと豊かさを書いおりました。
正確に指摘されるとドッキリします。
きちんとした小説を書ける方の読解力はやはり確かです。
同時にきちんと読んでいただいて恐縮でした。
また〝オデとイヌ〟の
小芝居を好意的に受け止めてもらって助かりました。
重ねて、この度もまたコメントやレビューをありがとうございました。
物語を読むことは、ただ文字を追うだけじゃない。自分の中にある知識や経験、想像力を総動員して再構築する行為なんだと改めて感じました。文字が「足りない」からこそ、読み手の経験や知識が加わり、物語が豊かに再生される。この「余白」の美しさに、思わず唸りました。
また、読解力は最高の再生機器、という視点が新鮮で、一冊の本を読んでも人それぞれ感じ方が違う理由がしっくりきました。文字だからこそ不完全で、だからこそ自由に広がる世界がある。そんな物語の奥深さを再認識することができました。
作者からの返信
いつもコメントありがとうございます。
悠鬼さんのコメントはいつも展望台のように思っています。
自分の書いたものが何で、いまどこにあるものか、その端然とまとめられた書き込みに接して
〝なるほど、こうだったのか〟
と思う日々です。
良き読解こそが、読書を豊かにする。
(もっとも後編で〝読むこと〟の不確かさを記したりもしていますけれども)
そう書いてある本文にコメントをつけている悠鬼さんの読解力が、頭抜けているのです。
いつも驚くばかりです。
やはり朗読の御経験でしょうか。
知人の役者の人も読むこと重要さを話していましたから。
演者を経験する方は必ず準備をされます。
その際にはまずちゃんと、台本なり原作なり、原稿なりを真摯に読まないと始まらないのでしょう。
自分が書いていてお恥ずかしいのですがら私は相当に読解が良くない方なのです。
頭が痛いばかりです。
ともあれ。
重ねて、この度もコメントありがとうございました。
こんにちは。
一気に読んでしまいました。
文章が書けるって、素晴らしいことですね。
書かれた文章と人がいてはじめて物語となる。
繋げられる人がいてはじめて物語となる。
素敵な言葉ですね。
私事で恐縮ですが、YouTuberの方が、夢を叶える方法で、自分の夢は他人の夢を叶えることである、と言っていました。
自分が書いた物語は、誰かのための物語でもある。
木山様のお伝えしてくれているこの文章が私に突き刺さるのも私の物語でもあるのかもしれません。
今日の投稿も楽しみです。また、よろしくお願いいたします😊
作者からの返信
いつもコメントやレビューをありがとうございます。
コメントを読むときだけ薄ぼんやりした私も目が覚めるような気がします。
さて。
この度はめんどうな空想を読んでもらい恐縮です。
〝物語は人間が再生しないと何もないのと同じ〟のくだりですね。
本作の内容に接して、春野さんがなにかを感得されたのならとても有り難いことです。
それは同時に春野さんの感性や思惟が優れているということではないでしょうか。
残念ながら本作は検証をしたわけでも類似の文献を引用したわけでもない私の空言エッセイです。
そんな足りない事柄に春野さんの中の何かしらのお考えや感性が補正をしてくださったのだと思います。
素晴らしいことです。
ともあれ。
重ねてこの度はコメントやレビューをありがとうございました。
昨今のテレビゲームを取りまく状況と通じるものがあるなと思いました。
CG技術の進化や作り込まれたストーリーによって、ゲームとしては過去のものより確実に進化しているはずなのに「面白くない」と評されることがある。
昔は必要最低限の世界観提示(もしくは説明なし)と粗いグラフィックで、そこに「人間の想像」の入り込む余地があったんですよね。
どんなに頑張って作り込んでも、人間の脳内再生能力には敵いません。
しかも再生時には各々好みのエッセンスを加えているはずで、細かな作り込みは却ってそれを阻害する場合も。
そう考えると文章、物語というものもがちがちに作り込んで一から十までこと細かに説明するより、少し緩めに抜けのある記述や表現の方が楽しみ方の幅が出来てよいのかなと思いました。
気を抜くとずらずら説明を書き連ねちゃうタイプなので、よい気付きでした。
作者からの返信
いつもコメントありがとうございます。
あと評価もいただき、恐縮です。
さて。
亘狸ちょきさんは〝足りないから記憶から足す〟な件をゲームに擬えられていました。
僭越ながら私も同じ考えです。
大きく補うことは、それだけ大きく〝内的体験〟となるのだと考えます。
※とうぜんモノには限度というものはあるとも思います。
内的体験は主観の体験ともいえます。
(外的体験はその逆ですね)
より〝自分の事〟として体験するモノの方が、強く印象に残るはずです。
どれほどグラが綺麗でも〝他人事〟であれば素っ気ないものではないでしょうか?
どれほどルックや音響が綺麗であったとしても
〝だから、何?〟
な状態になってしまったら、それはもう娯楽とはならない。
私は、斯様に思うのです。
重ねてこの度は、コメントありがとうございました。
面白かったです。
人々の中に受け継がれてきた、アーキタイプ的な、物語もありますね。
こうした思索とともに、どのように物語を作るか、興味はつきません。
作者からの返信
コメントありがとうございます。
色んな考えを聞かせていただき勉強させてもらっています(なんか政治家みたいな言い方ですが……)
あと、返信が遅れて大変失礼しました。
さて〝アーキタイプ〟が〝足りないから借りてきた〟な言説に関わるというお話。
私もそうであると考えます。
ロボットというと、いつも〝ガンダムもどき〟な形状を想像する人が知人にいるのですが。その人とかそうかもです。
思い描くものに強力な元型を持つ方は、多くの記述をそれ一つで賄うために、かえって想像物の多様性がなくなる感じの。
本作な関連する事項として幾つか挙げたい考えがあって〝アーキタイプ〟もそのひとつでした。
しかし、私が浅学なもので分析心理学等に詳しくなく、そういった元型なり集団的無意識なりをちゃんと扱えないと判断し本編では言及しませんでした。
ただのエッセイとして、本旨だけに絞ったほうが潔いと考えたのでした。
重ねてこの度は、コメントありがとうございました。
面白かったです。
書く事の面白さと辛さ、読む事の面白さと辛さ。
いろいろと考えさせられました。
文章を書くと、どうしても自分の表現力の無さを痛感します。
文章を読むと、この解釈で良いのかと悩む時があります。
でも、その心の葛藤が一番面白いと感じます。
矛盾こそ至高だと思います。
お疲れさまでした。
作者からの返信
いつもコメントありがとうございます。
昨日からやっと返信の時間が取れて〝反応〟のタグからいただいたコメントを遡っている次第です。
この度は返信が遅れて失礼しました。
納得です。
なんでも簡単だと面白くない、とは思うのですが、めんどくさいものはめんどくさいです。
なんで物語なんで、書いているのかと笑ってしまいます。
趣味が散歩とかなら楽だったとよく思います。
それでも、自分の書いたものを読んだ方とその物語の話をするは、学ぶことも多い。
なによりよくわからない楽しさがあるのもまた事実なのです。
重ねて、この度はコメントありがとうございました。
>読む人間の中にある情報を使う
そうですね。
なろうでいうところのテンプレ展開にもあたるのでしょうか?
昔、海外の翻訳小説を読んでいた時、キリスト教をわかっていないと、会話の内容とか登場人物の心情とか理解できないなぁと感じたことがありました。
作者からの返信
コメント、ありがとうございます。
あとレビューもつけていただき感謝しています。
自作に反応があるのは楽しいですね。
〝テンプレ〟は物語の再生の補完かという件は、私は、そうだと考えています。
基本的に日本のファンタジー物は人間以外の生き物は共通の名前の作品が多いので、それを知らないとわからないのではないでしょうか。
それと、魔法名とかギルドとか。予備知識必須かも。
あと。
海外の物語に聖書の知識が必要だった件。
私も経験したことあります。
あと、ラテン語の言い回しとか、古典文学の引用とか。
きっと物語に〝お約束〟な事柄は意外と多いのでしょうね。
重ねてこの度は、コメント、レビューありがとうございました。
大変興味深く、拝読させて頂きました。
木山喬鳥様は素敵なストーリーテラーですね。
拝読していて、要所、要所で笑わせて頂きました。
しかし、ところどころに疑問符もついて、理解ができない部分がありました。
小生の読解力が足りないのだと思います。
本当はレヴューの本文を書くつもりだったのですが、疑問符をたくさん持ったまま
書くことはできませんし、無礼なことだと思いますので、☆だけ付けさせていただきます。
作者からの返信
コメントありがとうございます。
本作の書き方を好意的に受け取っていただきありがたく思います。
ただ夷也荊さんが疑問に思う点が幾つもあったとか。
本作なにぶん私が思いついただけの話で論拠やエビデンスを提示してもいない空言エッセイなので、そういうことも多いと思います。
もしお手隙の際に、その疑問点をここのコメント欄なりで伝えていただけたらお答えしたいと思います。
私の好奇心と後学のためにお願いしているだけなので、夷也荊さんに余暇に取れない場合は、仕方ないと承知しております。
次作はより分かりやすく、誤りの少ない考えを記すように努めたいと思います。
重ねてコメントありがとうございました。
わかったような、わかっていないようなレビューをお送りしました。クオリアに関するお話だと思いますが、これを理解しておくことで、より読み手の心に響く作品を作れるのだと思います。
作者からの返信
いつもコメントありがとうございます。
素敵なレビューもいただき、嬉しい限りです。
ああ。しかし、もっとわかり易い文章が書きたい!
日々、切望しております。
力足らずて
申し訳ないです。
ともあれ。
本作は私の思いついた由無し事なので。
論拠もエビデンスもないエッセイなので。
読んでもらっただけで十分嬉しいです。
本作で話した事柄の多くが〝外から測れない現象〟と捕らえたら確かに、クオリアの類かと思います。
ただ私がクオリアって考えを胡散臭いと思っているのでなんとも言えません。
どちらかというと言語学的にはテンスとの関連性が強いのかもと思います。
でもそんなのも、どうでもいいのです。
〝物語は人の中で動いている〟とか言う変なヤツもいるんだ。そう一瞬でも思ってくれたらそれで書いた意味があったというものです。
重ねてこの度もレビューとコメント、ありがとうございました。
『読む人間の中にある情報を使う』
これ凄い重要な気がします。
読者の想像に任せて良い部分と、任せてはおけない部分。
これ意識するだけで冗長になったり描写不足になったりが減るような気がする。たぶん。
全編通して楽しく学ばせて頂きました。ありがとうございます(●´ω`●)
作者からの返信
コメントありがとうございます。
本作をいろいろと好意的とらえていただき、有り難いばかりです。
私の勝手に思った事柄を多くの人が考えたりしてもらえているのはそれだけで嬉しいものです。
創作論も、もちろん面白いのですが、物語の読解に興味をもつのも有意義かと思います。
ともあれ
重ねてこの度はコメントありがとうございました。
一文に込められる情報量の限界を明示しつつ、それでも物語が成り立つ理由を掘り下げている。その不完全性を否定するのではなく、むしろ可能性の源と捉える視点が良い。読み手の力によって完成するという構造の美しさが際立っていますね。
作者からの返信
おはようございます。
いつもコメントありがとうございます。
最近は返信が遅れることが多くて申し訳ありませんでした。
さて、第五図。
物語には情報量が足りていない。
読むときに、各人が各様に足して読解する。
という話。
これは、物語だけの話ではないかもです。
強いて言うなら〝手巻き寿司〟とか〝中華料理の多数の卓上調味料〟とかも似ています。
なんか、食べ物に偏ってますが。
同じものを受け取った受け手各人が受け方に作用する事柄は、ままありますね。
人間の記録伝達方法にはルールがあり。
ルールの強度それ自体も対象により異なっているのでしょう。
数学の定理が強度高めならヒップホップダンスは強度低め、のように。
そして、今回の法王院さんの当回の内容の把握へも、何ら加えるところはないのです。圧倒的理解です。感謝です。
重ねて、この度もコメントありがとうございました。