第16話 その後。
──温かい。
頬に柔らかな布の感触がある。どこかから光が差し込んでいて、うっすらと瞼の裏が明るい。
まどろむ意識の中で、私はぼんやりとそれを感じていた。
次第に意識が浮上し、ゆっくりと目を開ける。視界に映ったのは見慣れぬ天井だった。白い漆喰の壁に、木の梁が走っている。室内には仄かに薬草の香りが漂い、どこか落ち着いた雰囲気を醸し出していた。
「……ここは……?」
呟いた声は掠れていた。喉がひどく乾いている。体を動かそうとしたが、全身が怠くて思うように力が入らない。
そのとき、カーテンの隙間から差し込む光の中に、人影が見えた。
「やっと起きましたか、アテナ様」
明るく澄んだ声。振り向くと、穏やかな表情を浮かべたシャーレナが立っていた。
「シャーレナ……?」
彼女は小さく頷くと、私の傍に寄り、枕元の水差しを手に取る。そして、丁寧にカップへ水を注ぎ、私に差し出してきた。
「お水です。少しずつ飲んでください」
「あ、ありがとう……」
受け取って、一口含む。冷たさが喉を潤し、意識が少しはっきりしてきた。私はシャーレナを見上げる。
「……ここはどこ?」
「ルーセントさんが借りた宿屋の一室ですよ。戦いの後、気を失ったアテナ様を運んできました」
戦い……?
そこで私は思い出す。そうだ、私はエミリナさんを守るために、魔族と戦っていたんだ。
「……ッ! そうだっ、エミリナさんは!?」
エミリナさんが私を庇って倒れ込んだ姿が、鮮明に脳裏に浮かんでくる。
シャーレナは私から目を逸らして、静かに首を横に振った。
…………やっぱり、駄目だったのか。
「……私は、どうなったの?」
「覚えていないんですか?」
「うん……戦いの途中までは覚えてる。でも、それ以降は……」
私は自分の手を見つめた。今は普通の肌色に戻っている。けれど、あのとき確かに私の体は──
「アテナ様、天使になってましたよ!」
「……は?」
突然の豪語に、私は思わずまばたきをした。
「白い羽が生えて、髪も瞳も真っ白で……まるで神の使いのようでした! あの光輝く姿、まさに神話そのものです!」
「いやいやいやいやいやいやいやいやいや、そんなわけ──」
「本当ですよ! あの神々しい姿を間違えるはずがありません!」
「……本当に?」
その途端、ちょうど扉が開いた。
「お、目が覚めたか」
低く落ち着いた声とともに、ルカが入ってきた。
「よく眠れたか?」
「……まあ、それなりに」
少し身を起こし、ルカの顔を見つめる。彼は薄く笑いながら、私の様子を確認するように視線を走らせた。
「体に異常は?」
「特にない……と思う」
「なら、良かった」
ルカは隣の椅子に腰掛け、懐から一通の封筒を取り出した。それを私の前に差し出す。
「これを預かっている」
「何?」
「プリザンド王からの公式な通達だ。読めば分かる」
私は封筒を受け取り、封を切る。そこには整然とした筆跡で、重大な宣言が記されていた。
──昨日、知っての通り、魔王軍が人魔徳一線を破り、人族領土への侵攻を開始した。これは魔族、即ち魔王からの正式な宣戦布告であり、我々にも早急な応戦が必要とされる。しかるべく、今夜人族領土の七つの国をプリザンド王宮に招集し、大七国会議を開催する。勇者アテナイト・ファンダルシアにおいては、この会議への出席を求める──
「……戦争が始まる、ってこと?」
「そういうことだ」
ルカが静かに頷く。
「魔王がついに動き出した。お前の戦いは、ここで終わりじゃない」
私は手紙を握りしめる。戦いの記憶が鮮明に蘇る。
ふと、ルカが立ち上がった。
「今夜、プリザンド王宮で会議が開かれる。お前もそこに行け」
「は? なんで私が?」
「勇者だからだ」
「いやいや。私は勇者なんかやりたくてやってるわけじゃないし、もっと他に適任者が──」
「いや、俺も最初は驚いたんだよ。こんなちんちくりんが勇者だなんてな」
「はぁー!? アンタにだけは言われたくないし! 私だって魔族一人倒したんだから!」
天使になってたとかいう記憶のない状態でだけどね。
「戦争において、戦うだけの存在ではいられない。お前の力をどう使うか、人族全体で決める必要がある」
「そんなの、私が考えなくても──」
「考えろ、アテナ」
ルカの声が低く響く。
「お前はもう、一個人じゃないんだ。お前の力は、この世界の行く末を左右する。その重みを理解しろ」
私は言葉を失う。ルカは私の表情を一瞥し、踵を返した。
「夜には迎えが来る。それまでに準備しておけ」
そう言い残し、ルカは部屋を出ていった。
私はため息をつき、ベッドに沈み込む。
「……嫌だ」
戦争なんて。会議なんて。めんどくさい。私にそんなこと、関係ない。
「アテナ様?」
「行かない。めんどくさい。絶対行かない」
私は布団を頭からかぶった。
「……駄々をこねるお子様みたいですね」
「いいの、私はお子様」
「もう十六歳って言ってましたよね?」
「…………」
何も返事を返さない私に、シャーレナは呆れたようにため息をつく。
「仕方ありませんね……ならば、強制執行です」
言うが早いか、布団がバサッと剥ぎ取られる。
「わわっ!? 何するの!?」
「行きますよ、アテナ様!」
シャーレナが私の腕を引き、ぐいっとベッドから引きずり出す。
「ちょっ、待って! せめて自分で起きるから!」
「ダメです。ぐずぐずしていたら時間がありません!」
私は抵抗するが、シャーレナの力は意外と強い。あっという間に立たされ、着替えを押し付けられる。
……こうして私は、強制的に大七国会議へ向かう準備をさせられるのだった。
──本当に、勇者ってのはロクでもない。
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