霧の庭
紫乃 煙
第1話 プロローグ
プロローグ
冬の終わり、冷たい風が頬を撫でる中、私は祖母の家に足を踏み入れた。玄関の鍵は錆びつき、扉を開けるとひんやりとした空気に混じりカビの匂いが私を迎えた。5年ぶりに訪れる家は、かつての温かみを失い、時間の重みを静かに抱えているようだった。
「庭、どうなってるんだろう……」
呟きながら廊下を進む。奥にあるガラス窓越しに見える庭は、すっかり荒れ果てていた。かつて色とりどりの花が咲き誇り、柔らかな草の絨毯が広がっていたその場所は、今や枯れ草と蔓に覆われ、生命の気配を失っている。まるで誰かの心の中に降り積もった雪のように、静かで冷たく、どこか孤独だった。
祖母が亡くなってから、この家に住む人はいなかった。父が「家を処分しよう」と言い出したのは数か月前のことだった。正直、反対する理由もなかった。今はもう誰も住まない家だ。庭だって手入れする人がいなければただの荒地だろう。
それでも、こうして目の前に荒れた庭を見ていると、胸の奥にわだかまりが生まれる。ここには祖母の想いが確かにあったのだ。それを知っていながら、何もせずに時が流れるのを許してしまった自分に、じわりとした後悔が押し寄せる。
私は庭へと続く縁側に足を進めた。古びた木の軋む音が、静寂を切り裂くように響く。扉を開けると、冷たい風が吹き込んできた。枯れ葉が舞い、庭の奥に立ちこめる薄い霧が視界をぼんやりと包み込む。
――あの日と同じだ。
記憶の中に、霧に包まれた庭と祖母の姿が浮かび上がる。
「庭はね、心の鏡なのよ」
祖母の声が耳の奥で蘇る。柔らかくて、どこか切ない響きを持った声。その言葉の意味を理解するには、私はまだ幼すぎた。
「あんたの心が曇っていたら、庭もきっと曇って見えるわよ」
そう言いながら祖母は微笑んでいた。その笑顔は、幼い私にとっての光だった。
だが今、この庭を前にして感じるのは、温もりよりも冷たさだ。曇った心を映す鏡――そうだとしたら、今の私は一体どれほど曇っているのだろう。
「……手を入れなきゃ」
誰に向けるでもない言葉を口にしていた。体が自然に動く。縁側に置いてあった古びた剪定ばさみを手に取り、庭の中へと足を踏み入れる。霧の中で、祖母の言葉がまた静かに響くようだった。
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