大鐘寛見

名前も知らない峠道を進む。

時刻は深夜の2時ごろ。

冬に片足を突っ込んだこの季節の風はバイク乗りにはちと厳しい。

場所はおそらく兵庫のどこか。

実際、Googleマップも俺が今兵庫にいることを示している。

灯のない峠道をひたすらに走る。

俺以外に人はいない。


静寂の中にバイクの排気音だけが響く。

体感では2時間ほど走っていた。

流石に1人は心細い。

コンビニの一つでもあればいいが、あいにく民家すら一軒も見当たらなかった。

風が冷たく吹き付ける。

限界は近い。


しばらく走った。

もう諦めようとも思っていた。

そんな時に、山の中に一軒の家を見つけた。

こんな時間に灯りがついている。

俺はスピードを緩めてその一軒家に立ち寄った。

玄関は開いていた。

どうして入ろうと思ったのかは分からない。


玄関から1番最初の部屋にピアノが置いてあった。

蓋は開けっぱなしで少し埃が被っている。

鍵盤を押してみても音は鳴らなかった。

そっと蓋を閉じて奥に進むと、炬燵に入りながらテレビを見ている婆ちゃんがいた。

膝の上にはペットの猫のミーコがいた。

婆ちゃんは俺に気づいていないのか、テレビをずっと見つめて時折笑った。

ミーコは撫でられて気持ちよさそうに欠伸をした。

何と言えばいいのか分からなくて、俺は婆ちゃんに「ごめん、もう行くわ」と声をかけて、踵を返した。

あの時もこんな風に終わらせてしまったことを思い出した。

婆ちゃんは目線だけをこちらに移して少し微笑んだ気がした。

玄関に着いて靴を履こうと思ったとき、そこで初めて靴のまま婆ちゃんの家に上がっていたことに気がついた。

俺は扉を開けて外に出たあと振り返って小さく「じゃあなー」といつも言っていた挨拶をした。

部屋の奥から婆ちゃんの声で「がんばりやー」と聞こえた気がした。


まだ外は暗いままだった。

バイクのエンジンをかけて跨り、再び長い峠を走り始めた。

婆ちゃんの「がんばりやー」という声が頭の中で響いていた。

俺はもう少しだけ走ろうと思った。


どれほど走っただろうか。

ヘルメットで隠した顔は相変わらずの無表情だったが、心は泣いていた。

心身ともに冷え込み、手足に先ほどまで痛みがあったが、今はもう感覚がほとんどなかった。

ひたすらに続く峠道に対してもはや怨みに似た感情を抱いていた。

そんな時に、街灯に照らされたバス停跡に人影を見つけた。

俺はバイクを降りてそのバス停跡へと歩いた。

どうして素通りしなかったのかは分からない。


「おお、遅かったな」

航は俺に気づくなりそう声をかけてきた。

「悪い、なんか思ったより時間かかってもうて」

航に何度も言っているであろう遅刻の言い訳をした。

俺は時間を守ることがあまり得意ではなかった。

大体航が先着いて待っていて、俺が後から遅れていく。

「オマエの遅刻癖治らへんなあ、逆に安心するわ」

航もさほど気にせずにいてくれた。

その態度にいつも甘えてしまうのだ。

「航はやっぱ優しすぎるわ」

俺がそう言うと航は苦笑いをした。

「別に普通ちゃう?」

航は最期までそうやって笑っていたことを思い出した。

俺は悲しくなって、焦って、「無理はすんなよ」と俺が言う資格のない、言えなかった言葉を吐いた。

航は笑いながら「お前もな」と俺の肩を叩いた。

そのときビュウと強く冷たい風が吹いて俺は思わず身震いをした。

「最近めっちゃ冷えたな」

俺はそう言いながらポケットに手を突っ込んだ。

そんな俺を見て、航は「これ貸したるわ、バイク乗ってたら寒いやろ」と言いながら首に巻いていたマフラーを俺の首にかけた。

そして、俺が何かを言う前に「寒いしもう行った方がええんちゃう?」と航は俺を急かした。

俺は去り際に「ありがとう、また」と手を振って別れた。

後ろから「こっちこそありがとうな」と聞こえた気がした。


またしばらく走った。

航のマフラーに残った暖かさが暗い夜道の孤独感を薄れさせてくれている気がした。

しかし、一向にこの道を抜けられる気配はなかった。

俺は少しだけバイクのスピードを上げた。


少し経つとトンネルに入った。

先ほどまで暗闇に居たからか、明るいオレンジの光が妙に眩しかった。

外よりもやや生暖かいトンネル内部の空気は、冷たい風に冷やされた俺の体を心地よく包み込んだ。

そんな時に、壁際に立ってこちらに手を振る人影を見つけた。

俺はスピードを落として彼女の前で止まってバイクから降りた。

話をしなければならないと思った。


「久しぶり」

俺は彼女に声をかけた。

彼女はあの時のままの笑顔で「うん、久しぶり」と返した。

そこからお互いに少しの間見つめあったあと、彼女が「元気?」と俺に問いかけた。

俺は「まあまあ」とぶっきらぼうに答えた。

「いっつもそんな風だからさ、心配してたんだよ?」と彼女は俺の顔を覗き込みながら言った。

その瞳はトンネルの暖かい光と俺を写しているような気がした。

「俺だって心配してた」

俺がそう言うと、彼女は少し困った顔をして「ごめんね、あんまり迷惑かけたくなくて」と伏目がちに言った。

再び一瞬の沈黙が訪れた。

俺は「もう無理や」と呟いた。

彼女は俺の手を握って「それでも良いと思う、誰も責めたりしないから」と言った。

その後に続けて「でも、私はもう少しだけ、諦めて欲しくないな」と遠慮がちに笑った気がした。

俺は彼女の手を握り返して、「1人は嫌や、一緒に来て」と彼女に迫った。

彼女は困った顔をして「それは出来ないかなあ、ヘルメットもないし」と言って俺から手を離した。

その後、「ほらっ、シャキッとして!」と明るい声色で彼女は俺のことをバイクの方へ押しやった。

俺はバイクに跨り、「もうちょっと頑張るわ」とギリギリ絞り出した声量で彼女に言った。

彼女は大きく首を縦に振りながら「うん!そうして!」と俺にサムズアップをした。

バイクのエンジンをかけゆっくりと発進していく途中、後ろから「私のことは忘れて良いからねー!」と言う声がトンネルに反響して聞こえた気がした。




俺は泣きながらバイクを走らせた。

しばらくしてトンネルの出口が見えた。

出口を通り過ぎた瞬間、背中に強い衝撃が走った。

目を開けると、俺の部屋にいた。

どうやらベットから落ちたらしかった。

俺は取れない疲労感を引き摺りながら、顔を洗い、コップ一杯の水を飲んだ。

鏡に映る俺の目の下は黒くくすんでいた。

俺は崩れるようにソファに沈み込んで、しばらく天井を見つめていた。

もう限界だった。

どうして、何も言ってくれなかったんだ。

どうして、何も言えなかったんだ。

どうして、間に合わなかったんだ。

どうして、俺を置いていくんだ。

上を向いているのに、眼から涙が溢れた。

これまで我慢していた全てが溢れた。



よく泊まりに行っていた婆ちゃん家にも、いつしか行かなくなった。

いつか別れが来るって、分かってたはずなのに、何もしなかった。

何も出来なかった。


航とは別々の高校に進んで、会う頻度も少なくなって。

最後に会った時も、お互いに笑い合って、いつも通りだった。

飛び降りるくらいなら、俺に話してくれたら、愚痴でも何でも聞いてやったし、旅行でも何でも付き合ってやったのに。

何も言えなかった。

何も出来なかった。


高校で初めて出来た彼女。

俺が県外の大学に行くからって遠距離になって。

なかなか会えなくなって、あんまり仕事もうまくいってないみたいで、電話越しに泣いたりしてたこともあった。

すぐに会いに行けば良かった。

明日の講義よりも、彼女の方が大事だったのに。

気付いてたのに、間に合わなかった。

何も出来なかった。


そうやって、失って、失って、孤独と罪悪感が俺の心を冷やした。

少し疲れた。


天井を見上げたまま瞳を閉じて、しばらくぼーっとしていた。

ふと思い立って体を起こし、スマホの連絡先を確認する。

そして、未だにピン留めしていた2つの連絡先を少し迷った後、削除した。

名残惜しいが、2人はいつまでも引き摺って欲しくないだろうから。


机の上に転がっていた幾つかの空の薬の瓶をゴミ袋に捨てた。

もう少しだけ、頑張ろうと思えた。

夢の中の婆ちゃんと航と彼女のおかげだ。

俺は返しそびれたマフラーを首に巻きながら、母さんに「急にごめん、今からちょっとそっち帰るわ」と連絡を入れた。

少しだけある貯金で母さんと旅行にでも行こうと思った。

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大鐘寛見 @oogane_hiromi

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