第19話 これからは
「翡翠さん、なにしてるんですか?」
背後から聞こえてきた有栖川の眠そうな声で、意識を現実に引き戻された。慌ててパソコンの画面を閉じて立ち上がる。
「翡翠さん? 別に隠さなくていいじゃないですか。まさか、えっちな動画見てたとか……!?」
「ち、違うから、本当に!」
慌てて大声で否定したものの、有栖川はにやにやと笑っている。これは非常にまずい。
「小説書いてたの……!」
「えっ!?」
「正確に言えばプロット……いや、まだネタ出しの段階で、メモみたいな感じなんだけど……」
有栖川が目を見開いた。大きな瞳がきらきらと輝いて、私を真っ直ぐに見つめている。
宝石みたいに綺麗な目だ。
「翡翠さん、また小説書き始めたんですかっ!?」
昨日、最近は小説を書いていないと有栖川に言った。にも関わらずこうしているのは、有栖川のおかげだと言っているようで照れくさい。
「……まあ」
「……よかった」
心底嬉しそうな声で呟いて、有栖川が私の手をぎゅっと握る。なぜか手が震えていて、有栖川の瞳には涙がたまっていた。
「なんで有栖川がそんな顔するの?」
「だって、分かりますもん。翡翠さんの気持ち」
気持ちが分かる、なんて言われるのは嫌いなはずだった。私の感情を、私以外の誰かが分かるはずがないのだからと。
けれど今は、有栖川の言葉がただただくすぐったい。
「翡翠さん。どんな話書くんですか?」
「まだ全然決まってないよ。本当、いろいろ悩んでて……」
単純にその時一番書きたいジャンルの話を書いていた時もあるし、応募したい賞のスケジュールに合わせて書いていたこともある。
今回の作品はどうしようか。
「悩んじゃうくらい、書きたい話があるってことですよね」
「……まあ、そういうことかな」
「完成したら、見せてくださいよ」
「それは無理。絶対」
「翡翠さんの書いた話、本当に読みたいですよ。クオリティーとか、そういうのは私には分かりませんけど」
読みたい、と言ってもらえるのは嬉しい。でもやっぱり、頷くことはできない。
有栖川はあまり本を読まないと言っていた。きっと今まで読んだことのある本は、売れた本ばかりだろう。
そんな有栖川に、自分の小説を読んでもらうのは怖い。あまりの差に、有栖川が気を遣ってしまいそうだから。
そして、それだけじゃない。
「有栖川には分からないかもしれないけど、自分の小説見られるのって、めちゃくちゃ恥ずかしいの」
「そうなんですか?」
小説は、自分のことを書くわけじゃない。だけど自分の感性とか、考えとか、いろんなものが入り込んでしまう気がする。
「そうなの。もしかしたら、裸を見られるより恥ずかしいかもしれない」
「……そういえば私、翡翠さんの裸は見たことないですね?」
真剣な表情でくだらないことを言うものだから、呆れて溜息を吐いてしまった。
「当たり前でしょ」
「女同士ですし、別にいいじゃないですか?」
「……必要性があればね」
たとえば一緒に温泉旅行に行ったら、当たり前のように私たちは同じ温泉につかるだろう。多少の気恥ずかしさはあるだろうけれど、それだけのはずだ。
とはいえ、日常生活で裸を見せ合うのはおかしい。
「馬鹿なこと言ってないで、メイクしたら? 遅刻しない?」
「あっ! やばい! 急ぎます!」
有栖川は慌てて顔を洗いに洗面所へ行った。パソコンの画面を開き、先程までのメモを保存しておく。
「……本当、どういう話を書こうかな」
考えただけでわくわくして、なんだか落ち着かない。こんな気持ちになったのは、いったい何年ぶりだろう。
◆
「じゃあ、行ってきますね」
完璧に身支度を終えた有栖川が玄関で微笑む。行ってらっしゃい、と有栖川を見送ることにもずいぶんと慣れた。
「いってらっしゃい」
大きく手を振った後、有栖川が出ていく。最近有栖川はもう、物を取りに行く時以外自分の家に帰っていないんじゃないだろうか。
有栖川は1限からだが、私は2限からだ。まだ余裕がある。
「よし。続き考えよ」
今まで有栖川が出かけてからの時間は、ぼんやりと過ごすことが多かった。今考えると、どれだけの時間を無駄にしてしまったのだろうとぞっとする。
「これからはちゃんと頑張ろう」
才能がないなら、才能がある人の何倍も頑張るしかない。頑張ったって報われるかは分からないけれど、頑張らなきゃスタートラインにすら立てない。
有栖川だって、あんなに頑張ってるんだから。
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