第18話 今の私には、有栖川がいる

「おやすみなさい、翡翠さん」


 電気を消した後、有栖川がそう言った。暗くて顔は見えないけれど、なんとなく有栖川の表情が想像できてしまう。


 慣れたとはいえ、シングルベッドに二人で眠るのは狭い。

 それなのに有栖川が隣にいる時の方が、ぐっすりと眠れるのはどうしてなのだろう。


「おやすみ、有栖川」


 いつものように挨拶を返すと、有栖川に腕を引かれた。暗闇の中で有栖川の方を向くと、いきなり抱き締められる。


「……有栖川?」


 有栖川は私よりも身長が低い。だから、有栖川の顔が上にあるという状況には違和感がある。


「今日、こうやって寝てもいいですか?」

「いいけど。なんで?」


 今まで、こんなことを求められたことはない。嫌じゃないけれど、妙な気分だ。

 母親以外と抱き合って眠るのは初めてかもしれない。そうやって母と眠ったことも、もう遠い過去のことだ。


「安心するんです。翡翠さんが温かいから」

「……不安なの、有栖川は?」


 答えが分かっているような質問をするのは狡いのだろうか。しばしの沈黙の後、有栖川が甘い声で言った。


「魔法をかけてくれたら、素直になれます」

「……有栖川」


 まだ酒は残っているけれど、酔いは完全に覚めた。そもそも有栖川は未成年で、一杯も飲んでいない。

 そんな状況でもまた、有栖川は魔法をねだるのか。


 暗闇に慣れたおかげで、なんとなく唇の位置は分かる。それでも確かめるように有栖川の顔に手を這わせると、有栖川がくすぐったそうに笑った。


 まあ、いいか。


 そっと唇を重ねる。生温かい感触にはまだ慣れない。

 キスをしたからといって、どきどきするわけじゃない。だけどなんだか、悪くない。


「魔法、かけたけど」

「……不安ですよ、私はいつも」


 吐き出すように言って、有栖川は笑った。


「夢が叶うか分からないまま、時間だけが経っていくんですから。でも、そんなこと友達には言えません。本気でアイドルになりたいなんて、言えないですよ」

「……家族には?」

「……言えません。貧乏なだけじゃなくて、私には弟がいるんです。心配させるようなことはできませんよ」


 こういう時、年上らしく甘えさせてあげるべきなのかもしれない。だけど一人っ子の私には、上手な年下の甘やかし方なんて分からない。

 とりあえず、ぎゅ、と有栖川の腰に腕を回してみた。


「私も不安。一緒だ」


 きっと大丈夫、なんて根拠のないことは言わない。代わりに私も本音で返す。

 マイナスとマイナスをかけたらプラスになるけれど、私たちの不安をかけ合わせたって、安心には変わらない。


 だけどこうして抱き合っていて、気づいたことがある。

 温もりは、不安を和らげてくれるのだ。


「おやすみ、有栖川」


 きっと朝になったらまた魔法が解けていて、いつもの顔で私たちは家を出るのだろう。





 有栖川のスマホのアラームが鳴る前に、私は目を覚ました。

 メイクに時間がかかる有栖川は早起きで、私はいつも遅く起きるのに。


 寝てる間ずっと、私のこと抱き締めてたんだ。


 有栖川の腕は、未だに私を拘束している。有栖川を起こさないようにそっと腕の中から抜け出し、ベッドを下りた。

 ずきっ、と頭が痛むのは二日酔いのせいだろう。


 頭も痛いし、気持ち悪い。けれど不思議と、頭の中は鮮明だ。

 カーテンを開け、陽光を浴びる。雲一つない晴天を見ても、今日はむかつかない。


 どうしようかな。二度寝してもいいし、昨日買った本を読んでもいい。

 それとも……。


「……小説、書こうかな」


 呟いた瞬間、身体に緊張が走ったのが分かった。落選の記憶が頭に浮かんで、無性に泣きたくなる。

 だけどそれよりも強烈に、書きたい、そう思えた。


 このまま書かずにいても、どうせ私は一生諦められない。だったら素直に頑張るしかない。


 それに……今の私には、有栖川がいる。

 昔の私は、落選の苦しみを誰にも言えず、ただ自分の中に抱え込んでいた。その上、母親に才能がない、なんて事実を突きつけられた。


 でもきっと有栖川は、挑戦することを笑わない。失敗を馬鹿にしない。才能がないなんて言葉で、終わらせてしまおうとしない。

 それができるほど大人なら、有栖川は今頃、アイドルになる夢なんて捨てているだろう。


「よし」


 パソコンを起動し、小説のデータを保存しているフォルダを開く。数年間更新されていなかったフォルダの中に、新しいファイルを作ってみた。

 もちろん、タイトルはまだない。というか、内容だって決めていない。


 だけどこれが、私の新しい始まり。


 どうしよう。純文学系がいいかな。ファンタジーみたいなエンタメもいいし、ラブコメだっていいかもしれない。

 主人公の属性はどうしよう。年齢や性別は? 視点はどうする? 一人称? 三人称?


 考えることは山積みだ。一つ一つ考えていかないと、思考が散らかってしまう。

 それでも、考えることが楽しい。涙が出そうなほど、楽しくてたまらない。


 どうして私、こんなに楽しいことから逃げてたんだろう。

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