海に沈むジグラート42
七海ポルカ
第1話
巨大な門を潜り抜けた時、不思議な感じがした。
ネーリがヴェネト王宮に住んでいたのは実は短い間だった。
ある日、祖父が迎えに来て、王宮に行った。本城ではなく、離宮で祖父と過ごした。
半年とか、数カ月とか、そんな時間ではなかったと思う。数週間のことだ。
双子の兄だというルシュアン・プルートは恐らく本城の方にいて、結局会うことはなかったし、その時は兄がいることすら知らされていなかった。
程なく再びユリウスは海に戻り、その時にネーリのことも連れて行ってくれた。
だからヴェネト王宮にさほど、懐かしい思い出があるわけではない。
それでもラファエル・イーシャの友人として紹介されて、城に入ることを許され――巨大な庭で馬車を降りた時、不思議な感じがした。懐かしい気がする、と思ったのが自分でも不思議だった。
陽が落ちて、すでに仮装し、仮面を被った人たちが集まっている。
楽隊は奏で始めていた。
大広間で煌びやかな舞踏会が始まっている。
「まあ……この世のものとは思えませんわ」
社交界に慣れていないアデライードが桟敷から階下の人を見て、思わず呟いた。
「なーに、こんなのまだまださ。ヴェルサイユ宮の夜会なんか、もっと大きいところでもっと大人数が踊る」
「まあぁ……。別世界ですわ」
修道院育ちの彼女は言葉が無いようだった。目を丸くしている。そんな妹を可愛く思いながら、ラファエルが「妃殿下に挨拶に行って来るよ」と出て行くと、アデライードとネーリは桟敷の手すりに寄り掛かって、一緒に階下を眺めた。
「緊張してる時は、こうやって上からしばらく会場を眺めるといいよ。色んな人の身に付けているものを見たりして、鑑賞して、楽しむんだ。空気をね。そうしたらきっと、そのうちそこに入って踊ってみたくなるよ。ぼく楽隊の人を見るのも好きだなぁ」
女神に扮しているネーリは女性の動きを真似ていたが、ラファエルに許された専用の桟敷に入ると、いつもの話し方に戻った。
「ネーリ様は落ち着いていらっしゃるのですね」
アデライードがこの盛大な舞踏会も、居合わせた客のような雰囲気で楽しんでるようなネーリに感心している。
「ラファエル様もこういった所は普段から出入りされているのでそれは物怖じしない方ですけど……。ネーリ様も慣れていらっしゃるのですか?」
「慣れてないよ」
ネーリはくすくすと笑っている。
「夜会なんてすごい久しぶり。むしろ自分とは全く関わりの無い世界だと思ってる。だから楽しいんだ。今日ここで何か失敗したって、明日には別世界の出来事だよ」
「まあ」
さすがに緊張の面持ちを見せていたアデライードが仮面の下で笑う。確かにそう言われてみればそうかもしれない。
「ラファエル様は、今では考えられませんけれど、幼い頃は夜会が苦手だったそうですわ。
ネーリ様とお会いして、夜会の楽しさも知ったそうですけれど」
「そうだね。ラファエル確かに、一番最初は夜会を怖がってた。彼は生まれた時から華麗な一族の一員だったから、公の場所では何でも完璧にやらないと、周囲の人間に失望されてしまうと思い込んでたんだよ。でも、子供なのに、そんなに最初からなんでもかんでも完璧になんか出来るわけない。僕が彼に言ったのは、いっぱいミスしていいんだよってことだけ。それは間違いですら、ないんだよ。上手くなるための練習なんだもの」
アデライードは優しい気持ちになった。
無力な子供だった頃のラファエルが、ネーリを傍らに、どんなに勇気づけられたか分かる。そしてネーリにそんな風に励まされたラファエルが今、同じようなことをアデライードにしてくれた。
社交界を知らない彼女は、分からないことや失敗することもあるのに、ラファエルは一度もそういうことで怒ったり嫌な顔をしたことがない。王都にいる彼の一族と一緒なら、こうも行かないのだと思う。
ずっと側にいて、例え彼女がミスをしても、目立たないようにして大したこと無いと笑ってくれるから、アデライードは突然以前の暮らしとは違う場所に来ても、安心して暮らせている。
「……わたしは、本当はラファエル様のような方の、妹だと名乗ることもおこがましいような縁なのです。それでもあの方は、たくさんの恩恵を無償の愛で私に下さる、素晴らしいお兄さまだと思っていますわ。だから、わたし、ネーリ様にとても感謝しています。
小さい頃のお兄さまの側にいて、たった一人味方をして下さって。
どんなにフランスの煌びやかな社交界で、ずっと心細かったお兄さまが救われたか、分かりますわ。だから……本当にありがとうございます」
ネーリは目を瞬かせてからくす、と笑った。
「ねえ、あとで一緒に下で踊らない? 二人とも女の子の格好してるけど、別に仮装なんだから、男とか女とかどうでもいいと思うんだ。ぼく、男性パートを踊るから」
「はい。喜んで。殿方と踊らなければと思うと緊張して嫌ですけれど、ネーリ様と一緒なら安心ですわ。実は下であんな風に大勢と一緒に踊るのどんな感じなのかしら、と興味ありましたの」
「アデライードは僕の小さい時よりずっと勇敢だよね」
ラファエルがワインを持って戻って来る。桟敷にも用意されていたが、あまり酒に慣れていない妹には、こちらの方がいいと思ったのだ。
「ネーリもそう思うでしょ」
「思わない」
おや……、と首を傾げたラファエルに笑いかける。
「君たち兄妹ってすごく似てるよ。好奇心旺盛なところ。勇敢さだってそっくりだよ」
アポロンとアルテミスの兄妹は仲良く顔を見合わせて、笑った。
「お兄さま、踊りの見本を見せてくださいませ」
「いいよ。じゃあ……」
「お兄さまの踊りを見て勉強します」
「あそこの薔薇の首飾りした人がいい。衣装すごく綺麗だよ」
「あのルビーの首飾りした方ですね? 本当。きっと華やかな美女ですわ。お兄さま、声を掛けて来て下さいませ」
「うーん。折角ならネーリと踊りたかったなあ」
ラファエルが残念そうな声を出す。
「ネーリ様にステップを教えていただくのです。それにお兄さまとネーリ様のお二人が踊られたら華やかすぎて会場が釘付けになりますわ。主役のお二人が踊るには、まだ序盤過ぎますわよ」
「ぼくここでアデライードさんと少し踊ってからにする。夜会なんて久しぶりだもの。ステップ忘れちゃったし、今すぐ踊ったらラファエルの足いっぱい踏んじゃうよ。練習してからね」
妹とネーリの二人に言われて、ラファエルは肩を竦めた。
「ネーリになら何回足踏まれてもいいのに……」
「ルゴー様が、お兄さまはこれぞとご自分で思われた女性には、夜会で声を掛けて踊っていただけなかったこと一度もないって言ってらっしゃいましたわ」
「うーん。まあ、大人になってからは一度もないかなあ」
「まあ。すごい自信」
「ラファエルかっこいい」
「じゃあ、あの薔薇の精霊に扮した美しい方に声を掛けて来て下さいませ。さっきから周囲に声を掛けたそうな殿方がいて、チラチラ視線をやっているのに、あの方知らんぷりしてますわ。きっととても気位の高いご令嬢なのです」
「しょうがないなあ。ネーリもアデライードも、あとでちゃんと僕と踊ってよ?」
うんうん、と妹とネーリが楽しそうに頷いているので、ラファエルは苦笑してから、緩やかに波打つ輝く金髪を掻き上げ、階下に視線をやった。
「どの方だって?」
「あの、二時の方向にいらっしゃる方ですわ」
ラファエルが軽く手を上げ、桟敷を出て行く。
「ドキドキしますね。踊ってくださいますかしら」
桟敷の手摺に子供のように凭れて、階下の様子を見ているアデライードに、ネーリは優しい表情を向けた。
ラファエルはずっと、家族に認められて愛される自分でありたいと、少年の頃から努力して来た。
家族というものは簡単なようでいて、難しいもので、
愛情が最初に当然のようにそこに在る場合もあれば、家族であっても、愛情を戦って勝ち取らなければならない家庭もある。ラファエルの家族は、後者だったから、彼は努力をしていた。
ネーリの場合は気付けば、祖父が自分を庇護し、船の仲間たちに囲まれて、大切にしてもらったから、彼自身は何の努力もせず、愛してもらえた。そういう意味ではラファエルよりも遥かに幸せだっただろう。彼は立派になり、家族の愛情を勝ち取った。
今では父も母も、彼を誇りに思ってくれているという。
それでも、出来るならば、勝ち取りたくなかったのだろうと思う。
そうしなければ苦しかったから彼は戦ったが、本当は、ラファエルはミスをしても、鈍いところがあっても、無条件で、頭を撫でて抱きしめてくれるような家族に憧れていた。
家族が教えてくれなかったから他人に彼は教わったけど、本当は、家族が自分を嫌うかもしれないなんて、恐れを抱いて生きていた少年時代は辛かったはずだ。
アデライードと会って日は浅いが、幼いころ家族のことで苦労した彼が、彼女を今大切にする気持ちが、ネーリにはよく分かる。
彼女は本当に、長い時を共に生きて来たわけでなくとも、ただ片方の血が繋がっているというだけでラファエルを兄と頼り、大切にしてくれる女性だ。
ある意味で、やっと出会えた、ただ一人の家族なのだと思う。
無償の愛情を自分に向けてくれる。
会場がざわ、とした。
ラファエル・イーシャは類い稀な容姿を持った長身の貴公子なので、仮装をして顔を隠していても、すでに存在を知られたヴェネト王宮では一目で正体が分かるのだろう。
「みなさんラファエル様のことは分かっていらっしゃるのですね」
「ラファエルは目立つからね」
中央で踊る群衆を邪魔せず、それでも人々の視線を集めながら、自然と彼の行く先に道が開き、ラファエルは難なく、窓辺の近くに佇んでいた薔薇の令嬢の元に辿り着いた。
アデライードが両頬を押さえて、少し心配そうに息を止めて見守っている。
令嬢の手を優しく取り、腰をかがめて何かを言葉をかけると、グラスを手に、しばらく踊る気配を見せようとしなかった令嬢が程なく、ラファエルにグラスを渡し、中央の方へと歩き出す。気を利かせた給仕がラファエルの手からグラスを預かる。
最初から決めていたように、二人は踊り始めた。
「踊っていただけましたわ。さすが、ラファエル様です」
アデライードが嬉しそうに、小さく手を叩いている。
「なんだか私、今は殿方の方に気持ちになってしまいましたわ。女性に声を掛けて、踊ってもらえるかどうか分からないってこんなにドキドキ心配なものなのですね。よほど嫌いな方でなければ、声を掛けていただいたら踊って差し上げなければ悪い気持ちになりましたわ」
ネーリは笑った。
「ほんとにね」
「まあ、華やかな。あの女性どちらの方なのでしょう? ヴェネトの方でしょうか? それとも異国の方なのかしら……」
「ラファエルが戻って来たら聞こう。きっと踊ってる間に色々なことに気付いてるはずだし、言葉も交わしてるかも」
「踊っている間に相手と話すなんて、絶対そんな芸当私には無理ですわ。必ず相手の足を踏みます」
「少し踊ってみる?」
「よろしいのですか? 修道院を出てから、少しは踊りも勉強をしたんですけれど。まだ全然下手ですわ」
曲に合わせて、二人は桟敷で踊り出す。
確かめるようなステップだが、アデライードはちゃんと踊れていた。
「大丈夫、踊れてる。うまいよー」
「油断するとダメですわ。それに下で踊る時とかは、周囲の人とぶつからないかも考えないといけませんし……」
「平気だよ。それは男の人が考えてくれるから」
「そうなのですか?」
「そうだよ」
「では殿方は踊りながら相手と喋り、周囲の人とぶつからないかどうかも考えてらっしゃるのですか? すごいですわ。達人のよう」
仮面の下でも大きく目を瞬かせて感心しているアデライードに、楽しそうにネーリは声を出して笑った。
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