虐げられた武闘派伯爵令嬢は辺境伯に溺愛される~「お前の居場所なんてない」と実家から追放されましたが、今はむしろ幸せです!~

雲井咲穂

私は、継母が作った借金のせいで、売られる形でこれから辺境伯に嫁ぐことになったそうです――。

「コーデリア、ここにはお前の居場所なんてない」


 そう言ってコーデリアの鞄を膝元の水たまりに投げてよこしたのは「」だった。


「カレットお義母様……」


 カレット・ルゼンティア。


 それが継母の名前だった。


 バシャン、と想像より大きな音を立て、水が跳ね返って顔に散る。


 尻もちをついた状態でしばし放心していた私の頬を、幾重も水が伝って落ちていく。


 ぽつぽつと雨が降っていた。


 曇天が垂れ込める冷たい冬の風を受けて、身震いするほど寒い。


 すぐに立ち上がらなければ、とは思うものの、目の前の状況がそれを許さない。


「なによ、その目。――何か言いたいことがあるのなら、言ってごらんなさいよ」


 豪奢な金色の巻き毛を猫のように逆立てて、カレットお義母様が鋭く言葉をぶつけてきた。いつもより不機嫌さを増して、どこか歯がゆい感情を何とか抑え込もうとしているのが手に取るように分かった。


 屋敷の扉を出る時、「お父様のことをよろしくお願いします」と言ったのが何故か癪に障ったようだ。先ほど彼女に打たれた右頬だけが熱を持って存在を主張していた。


 実母が亡くなってから数年後、二歳の時のことだ。彼女カレットは継母としてこの屋敷にやってきた。彼女と同じ特徴を持つ同い年の一人の娘を連れて。


「地味で陰気臭くて、本当に貧相。その魔女みたいな黒髪に、冴えない青色の瞳。あなた、本当にアイザックの娘?」


 アイザックというのはコーデリアの父のことだ。


 十二年前の冬の魔獣討伐の際、大きなケガと魔獣の瘴気を浴びて、父は寝たきりの生活になった。帰還して数年は、それでも元気な様子を見せていたが、この二年の間に体調が悪化。予断を許さない状況が続いていた。


(良くなかったのは体だけでなく、瘴気がお父様の精神をむしばんでしまったこと。まさか私のことも忘れてしまうなんて)


 実子であるユーディアより、継母の娘をかわいがり、尊重した。コーデリアは父の記憶から消え、厄介者の使用人としてインプットされたようだった。


 屋敷の隅に追いやられ、煙たがられるようになった。


(だからと言ってお父様が憎いわけではないわ。心配なだけ)


 気が触れてしまっている父がコーデリアにぶつける感情は耐え難いものではあったが、それでも父なのだからと思えば、我慢できる範囲だった。


「それとも何なの? せっかく用意してあげた結婚相手が不満だとでも?」


 眉尻を鋭くして、キンキンと耳に響く高い声でお義母様が喚きたてる。


 彼女の言う「せっかく用意してあげた結婚相手」を思い出しながら、コーデリアは気づかれないよう小さく息をついた。


(「魔獣より凶悪」で凶相の持ち主であるというライグリッサ辺境伯爵。私はこれから、お義母様が作った莫大な額の借金のせいで、売られる形でその辺境伯に嫁ぐことになっているそうね)


 しかも最近、聖女候補に選ばれた義妹の話によれば。


 西のライグリッサは魔獣が多く出現する「見放され、呪われた土地」だという。


 魔獣を討伐する騎士団でさえ手を焼くライグリッサ。


 優れた浄化の力で土地を清め、魔獣から民を守る聖女ですら、ライグリッサには立ち寄りたくないと言っているそうだ。


「気に入らないわね。口がついているのなら、何か言ったらどうなの?」

「お母さま。お義姉様は寒くて口が動かないのではなくて?」


 彼女の後ろには、同じように侍女から傘を傾けられた義妹のアステリーゼがいて、こちらを見ながらくすくすと体を揺らして嗤っている。


 黄金の髪と淡い水色の瞳を持つ、同い年の父違いの妹。


 半年前、聖女候補に選定された、優れた癒しの力を持つ義妹。


 その美しい瞳に浮かんでいるのは嘲笑のように感じる。


(この邸とも、彼女たちとももうお別れね……)


 もう、家族という名残を何も残さない、悲しみの記憶だけが漂う灰色の邸宅――。


 たった一人の親族である祖父だけが身を案じてくれたが、半年前亡くなると、これまでがまだ幸せだったのだと思えるほどあっという間に状況は悪化していった。


 閉じ込められるように屋根裏部屋に押し込まれて過ごしていた数日前の自分を思い出すと悲しみというより諦めの方が近い感情かもしれない。


(それも、ようやく終わる……)


 どんな形であれ、ようやくこの屋敷を出られるのだと思うと、嬉しいというより安堵という気持ちの方が強いのは確かだった


 宣告されているのが「最悪な条件の婚姻」であっても、ここよりはましなはず。


 もし、これ以上ひどい状況に直面するのなら、――


 冷たい石畳の上にたまった水たまりに、自分のパッとしない表情が映り込む。


 父似だと言われる目つきだけが鋭い青い瞳に、母と同じだと言われる漆黒の髪。ぱらぱらと水に濡れながら水滴を弾いているのは、まとめるのが難しい髪質のせいだ。


(お母様のバレッタが……)


 水たまりに横たわり、半分壊れて真珠が飛び散る髪留めは無残な有様だった。


 先ほど義母に突き飛ばされた時、衝撃でバレッタが飛んで地面に転げて落ちてしまったようで、鈍い金色の光が雨に濡れて泣いているように見える。


 指を伸ばしかけた時、突如視界に鮮やかな真紅が映り込む。


 お義母様のドレスの裾だ、と思う間もなく、伸ばしかけた指の先でバレッタが粉々になり、砕けた真珠の欠片が頬に跳ねる。


「っ」

「目障りだからさっさと消えてくれるかしら? ――わかっていると思うけど。二度と戻って来ないように」


 お義母様は、そう言い捨てると背を向け、屋敷の方に歩いていく。新作のドレスが濡れてしまったわ、という鋭い声が響いた。


「じゃぁねぇ、お義姉さま。お元気でッ」


 アハハ、と明るい声を出しながら片手を振ってアンテリーゼが母親の後ろを追いかけていった。


 水の中でばらける真珠をできる限り集め、冷たい体を引きずるようにして馬車に乗り込んだ。


 馬車はほどなくして走り始める。様子を見て心を痛めた様子の御者の好意でタオルを借りて、水分をあらかた取り去り、頬杖をついて窓の外を見やる。


 ぐずついた曇天の合間から、梯子のように光が差し広がっている。


 体裁を整えるためだと言いながら、侍女の一人も用意されない、たった一人きりの旅立ちだった。


 ――最高すぎる! と私は心の中で

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