第2章

2055年10月12日 05時47分

闇の中、重たい静寂が漂う廃品置き場で、ロボットが再び目覚めた。周囲には錆びついた鉄屑や朽ちた機械部品が乱雑に積み上げられ、異様な静けさが辺りを支配している。彼の視覚センサーが徐々に起動し、微かな赤い光が廃品置き場の暗闇を照らした。

再起動したシステムが、次々とデータをロードしていく。その中で、最も強烈な記憶が浮かび上がった。津波――巨大な波に街が飲み込まれる光景、崩れゆく建物、押し寄せる濁流の中で消えていく人々の叫び。そして、ユウトが最後に見せた恐怖に満ちた顔。そのすべてが、まるでフラッシュバックのように脳裏を駆け巡った。

(ユウト…)

言葉を発することはできない。しかし、記憶の中のその名前が彼の中枢に刻み込まれていた。自分は彼を守れなかった。その事実が、システムの奥深くに苦しみのような痕跡を残している。

ループ――彼の内部システムがその概念を解析している。これが「2度目」だという確信が、起動直後から彼のデータに刻まれていた。津波に飲まれた直後、すべてが暗転し、次に意識を取り戻したのはこの場所だった。そして、この日付。 2055年10月12日。ユウトと出会う少し前の過去に戻されていることを理解する。

(なぜ…?)

問いの答えを知る術はなかったが、一つだけ明確だった。自分は再びここに送り込まれた――「救うために」。そうとしか説明がつかなかった。守れなかった未来を繰り返さないために、このループが存在するのだと。

彼の動作には、微かに震えるようなぎこちなさが残っていた。まるで、その心が感じる悲しみや無力感が、体の動きを鈍らせているかのようだった。記憶が鮮明であればあるほど、その痛みは彼を蝕む。しかし、その躊躇いを振り払うかのように、ロボットは小さな金属の足を一歩踏み出した。

再び巡ってきた時間。それは贖罪のためか、それとも試練のためか――彼には分からない。ただ、もう一度与えられたこの機会を無駄にするわけにはいかなかった。果たさなければならない使命があった。

(ユウトを守らなければならない。)

内部システムがその使命を最優先に設定し、彼の行動を駆り立てる。記憶の中で何度も繰り返される津波の光景が、彼を加速させた。足元の鉄屑がカランと音を立てるが、それすら気にも留めない。

暗い廃品置き場を抜け出し、外の世界へと足を踏み出す。空はまだ夜明け前の暗闇に包まれ、微かな冷たい風が吹き抜けていた。どこかでカラスの鳴く声が響く中、レムの瞳が赤い光を放ちながら輝く。

過去を変える。その目的のため、再びこの世界に送り込まれた彼は、確信していた。津波を止めることができなければ、すべてが繰り返される。それだけは避けなければならない。

(ユウト、待ってて。)

言葉を持たないレムの内部で、その思いだけが繰り返されていた。そして、彼の小さな体が暗闇の中に消えていった。


2055年10月12日 06時03分

冷たい朝の空気が住宅街を静かに包み込んでいた。朝霧がうっすらと街並みを覆い、路面には湿った冷たさが漂っている。ほとんどの家々がまだ眠りについている中、ロボットは小さな金属の足音を響かせながら、再びこの街に足を踏み入れた。薄暗い街並みは静寂に包まれており、その中を歩く彼の小さな姿は、どこか異質で目を引くものだった。

ロボットの視覚センサーが街の光景を映し出し、かつて訪れたこの場所の記憶と照らし合わせる。すべてが馴染み深いようでありながら、どこか違う。これが過去だという確信が、データの中で彼を支えていた。彼は進むべき場所を正確に理解していた――ユウトとの再会。それが、このループの目的の始まりだ。

ふいに、目の前の小道に一人の少年が現れた。寝起きなのか、少しぼんやりとした表情で目をこするその姿――ユウトだった。ロボットの視覚センサーが瞬時にその顔を捉えると、システム全体に微弱な異常反応が走った。それは、記憶の中に刻まれた彼との日々が、再び再生されているかのような感覚だった。

一方、ユウトも足を止めた。ふと目線を下げ、ロボットと目が合う。その瞬間、彼の胸の奥に奇妙な感覚がふっと湧き上がった。初めて見るはずのこのロボット――小さくて無機質な金属の体に対して、どこか懐かしさを覚える。それは、長い間会っていなかった友人を思い出すような、心の奥底から込み上げてくる暖かな感情だった。

「君、どこから来たの?」

ユウトは、目を丸くしながらも自然と微笑みを浮かべて問いかけた。その声には恐れや戸惑いはなく、むしろ好奇心と親しみが滲んでいた。ロボットは無言のまま、冷静な瞳で彼をじっと見つめ返している。その沈黙に、ユウトはどこか特別なものを感じ取ったのか、笑顔を崩さずに続けた。

「家に来る?」

その言葉にロボットは一瞬だけ動きを止めた。そして、まるで迷うことなく、ユウトの家の方向に向かって歩き出した。その背中を見たユウトは驚きの声を上げる。

「あれ?君には僕の家が分かるの?」

ロボットは答えない。ただ正確な足取りでユウトの家へと進み続ける。その動きは目的を知っているかのように落ち着いていて、ユウトはその様子に不思議そうな表情を浮かべながらも、その後ろを追いかけた。

家に到着すると、ユウトはドアを開けてロボットを招き入れた。朝の光が薄く差し込むリビングルーム。ロボットの足音がわずかに響き、彼の小さな体が慎重に部屋の中へと足を踏み入れる。その動きには、まるで守るべきものがあることを知っているかのような落ち着きが感じられた。

ユウトはロボットのそばにしゃがみ込むと、その鈍色の金属の体にそっと手を伸ばした。冷たい感触が手に伝わるが、どこか温かさを感じるような不思議な感覚だった。

「そうだ、君にも名前が必要だよね。」

ユウトは少し考え込むように視線を落とした。そして、しばらくの沈黙の後、決意を固めたように顔を上げた。

「君の名前は…レム。これからはレムって呼ぶね。」

その言葉にロボット――いや、レムは一瞬だけ視線を動かし、微かに動作を止める。まるでその名前を受け入れたかのような仕草だった。それを見たユウトは安心したように笑顔を浮かべる。

こうして、レムと名付けられたロボットは再びユウトの家に迎え入れられた。ユウトにはレムとの記憶はなかったが、なぜか彼の存在に懐かしさと安心感を抱いていた。リビングの柔らかな光の中、二人の奇妙な生活が静かに幕を開けた。


2055年10月13日 15時20分

穏やかな午後、窓から差し込む柔らかな日差しがユウトの家を温かく包み込んでいた。風が木々を揺らす音が微かに聞こえ、静かな住宅街の午後らしい落ち着きが漂っている。その中で、ユウトの笑い声がリビングに響き渡った。

「それでね、今日の授業で先生が面白い話をしてくれてさ!」

学校から戻ったユウトは、弾んだ声で今日あった出来事を次々と語り続けている。彼の表情には無邪気な喜びが溢れ、身振り手振りを交えながら話す姿は、生き生きとした子供そのものだった。机の上に置かれた文房具や工具が片付けられることもなく、今はただ、この穏やかなひとときに集中している。

その隣では、レムが小さな体を静かに佇ませ、ユウトの言葉を黙って聞いていた。金属の体に感情を宿すことはないはずだが、その瞳に微かな光が揺れているのは、彼が全身でユウトの声を受け止めている証のようだった。彼には言葉がない。しかし、その無言の存在が、ユウトにとって何よりも大きな安心感を与えていた。

「ねえ、レム。君もこれ、面白いと思う?」

ユウトは笑顔で問いかけるが、レムはやはり何も答えない。ただ、その無表情な顔がユウトの方へ向けられている。その視線に満足したのか、ユウトは再び笑いながら話を続けた。

レムの視覚センサーは、ユウトの動きや表情を細かく捉え続けていた。その無邪気な笑顔――前のループで見たユウトの恐怖と絶望に満ちた表情とは正反対のものであり、それが彼の内部に微かな揺れを生じさせていた。記憶の奥底に刻まれたユウトの最後の瞬間が、鮮明に甦る。

しかし、レムは動じなかった。ただその場に立ち、静かに見守り続ける。彼の沈黙の中には深い決意が隠されていた。次こそ、彼を守る――その使命だけが、彼を駆り立てていた。

一方、ユウトはその決意を知らない。ただレムがそばにいてくれることが嬉しかった。その存在が、学校で誰にも話せない出来事や、ちょっとした不安を吐き出す相手となってくれるのだ。レムがどれだけ聞いているのか分からなくても、彼は一切気にしなかった。

「それでさ、君ならどう思う?」

ユウトは一瞬考え込み、また笑顔を浮かべた。

「まあ、君は喋れないもんね。でも、それでいいんだ。」

その言葉に、レムの内部センサーが微かに反応を示した。それは感情と呼べるものではないが、彼の中で何かが小さく揺らいだ。ユウトの明るい声、彼を信頼する無邪気な笑顔――それらが、レムのシステムの隅々まで染み渡っていた。

午後の光が少しずつ傾き始める中、ユウトは相変わらず無邪気に語り続ける。レムはその場を動くことなく、黙って彼を見守り続けていた。その姿は、言葉を持たない静かな友人でありながら、どんな災害や運命にも揺るがない守護者のようだった。

彼には分かっていた。この日常は、永遠には続かない。だが、ユウトの笑顔を守るために、レムはすべてを尽くすと心に刻んでいた。外では木々の葉が風に揺れ、日常の穏やかな音がかすかに響いている。リビングには、そんな静けさの中にユウトの笑い声が溶け込んでいた。


2055年10月14日 11時05分

秋の柔らかな陽射しが校庭を包み込む中、ユウトは一人で静かな時間を過ごしていた。周囲ではクラスメートたちがバスケットボールに夢中になり、掛け合う笑い声が風に乗って耳に届く。しかし、ユウトはその輪には加わらず、校庭の片隅でレムと一緒に佇んでいた。

ユウトは地面にしゃがみ込み、小石をつまんで手の中で転がしながら、ぽつりと口を開く。

「今日、理科の授業でこんな装置を見たんだ。ねじと歯車がいっぱいあってさ…君なら、きっと面白いって思うよ。」

語りかける声はどこか穏やかで、自分に話すというよりも、レムに聞かせたいという気持ちが込められているようだった。

レムは、無言のままユウトの声に耳を傾けている。その冷たい金属の体とは裏腹に、彼の無表情な瞳には微かな光が宿り、まるで彼の全神経がユウトの言葉を受け止めているかのようだった。ユウトにとって、レムは特別な存在だ。クラスの輪に入るのが苦手なユウトにとって、レムは自分の心を正直に話せる唯一の相手だった。友達には言えないことも、レムにはすべて伝えられる。

校庭の中央では、クラスメートたちがゲームの合間にじゃれ合っている。レムが視線をそちらに向けると、ひときわ目立つ少年の姿が目に留まった。快活な笑顔を浮かべ、仲間たちと声を上げながらボールを追いかけるその姿には、自然と周囲を引きつける魅力があった。レムの記憶にも鮮明に刻まれている少年だ。

ふと、ユウトが視線を落としたまま小石を放り投げ、静かに呟いた。

「僕も、あんな風に笑えるのかな。」

その声を聞いたレムは、一瞬ユウトを見つめた後、再び校庭の中央に目を向けた。その視線には確かな意志が感じられる。もしも、ユウトがヒロトのような友達を得ることができれば、彼の未来はきっと変わる。そう感じたレムは、静かに立ち上がると、意図的にその少年の方へ向かって歩き出した。

「ん?どうしたの、レム?」

ユウトが小さな声で問いかけるが、レムは答えることなくそのまま歩き続ける。戸惑うユウトだったが、レムの行動に引き寄せられるように自然と立ち上がり、その後ろを追いかけた。

やがてその少年の近くに到達すると、レムは静かに動きを止めた。ふとユウトの存在に気づいたその少年がこちらを振り返り、ニヤリと笑みを浮かべる。

「お前、誰だ? なんだ、それ?」

その少年の目はすぐにレムに向けられた。その無機質な体を見て、からかうように言葉を続ける。

「すっげーダセぇロボットだな!」

ユウトは一瞬たじろいだ。目の前で笑い声を上げるその少年の勢いに押されて、何も言い返せなくなりそうだった。しかし、足元で静かに佇むレムの存在を感じた瞬間、胸の中に小さな勇気が湧き上がった。

「レムって言うんだ。僕の友達だよ。」

その少年は少し驚いた顔を見せたが、すぐに笑いを抑えきれないように肩を震わせた。

「友達ねぇ?お前、変わってるな。そんなガラクタみたいなロボットで遊んでるなんて。」

その言葉に、ユウトは少しショックを受けたが、レムはじっと静かに佇んでいるだけだった。その少年の嘲笑が続く中、ユウトは、レムがどんな言葉にも動じないことを見て、次第に自分も平静を取り戻していった。

ユウトは震えを抑えるように深呼吸をして、一歩後ろを振り返る。

「行こ、レム。」

その一言とともに、ユウトは踵を返し、レムと一緒にその場を離れた。少年は少し驚いた様子で二人の後ろ姿を見送ったが、特に追いかけることもせず、再び周囲の友人たちの中に戻っていった。


その少年は、バスケットゴールのポールを使った腕力勝負を始めていた。校庭の端にあるそのポールに飛びつくと、軽々と自分の体を引き上げ、腕力だけでぶら下がる姿に、周囲のクラスメートたちが歓声を上げていた。

「見ろよ!俺、こんな風に逆さまになれるんだぜ!」

ポールにぶら下がった状態で体をひねり、逆さ吊りになった少年は得意げな表情を浮かべた。その大胆な動きに、見ていた周りのクラスメートは口々に「すげえ!」と声を上げていたが――その時だった。

「おっと!」

突然、少年の手が滑り、逆さまの状態でバランスを崩した。彼は必死でポールを掴もうとするものの、手は届かず、あっという間に地面に落下した。

「ヒロト!」

周囲にいたクラスメートたちは驚きの声を上げたが、誰もすぐには動けなかった。ヒロトと呼ばれた少年は地面に転がり、足を抱えて苦しそうに顔を歪めていた。

ユウトはその様子を見つけると、真っ先に駆け寄った。レムも無言で彼の後を追い、ヒロトの隣に佇む。

「大丈夫?どこが痛い?」

ユウトが焦った様子で問いかけると、ヒロトは歯を食いしばりながら答えた。

「足が…動かねぇ…マジでやっちまった…!」

彼の額には冷や汗が滲み、痛みで全身が震えている。周囲のクラスメートたちはただ騒ぐだけで、どうすればいいのか分からず立ち尽くしていた。

その時、レムが静かに動き出した。センサーで周囲をスキャンし始めると、近くにあった壊れたベンチの一部に目を留めた。小さな体を動かしてその木片を拾い上げると、ユウトに差し出した。

「これを…使えば…!」

無言のレムの行動に驚きながらも、ユウトはすぐにその意図を理解した。木片を慎重にヒロトの足に当て、制服の袖口を裂いて即席の固定具を作り、木片をしっかりと縛り付けた。震える手を動かしながら、なんとか応急処置を施す。

ヒロトは痛みに耐えながらも、その手際の良さに驚きを隠せず、小さな声で漏らした。

「お前…すげえじゃん。あと、そのロボットも…。」

ユウトは控えめに笑いながら答えた。

「大丈夫だよ。レムがいたから、なんとかなっただけ。」

ヒロトは一瞬驚いたようにレムを見つめた後、軽くうなずきながら立ち上がろうとした。ユウトが支える手を差し伸べると、ヒロトは木片を杖代わりにして、ゆっくりと立ち上がった。その表情には、痛みの中に感謝の色が浮かんでいた。

「名前、教えてくれよ。」

ヒロトが口を開く。

「ユウト。」

少し戸惑いながらユウトが答えると、ヒロトは短く頷いた。

「俺は大翔(ヒロト)だ。さっきは…助けてくれてありがとな。」

ヒロトはレムの方をちらりと見て、照れたように頭を掻いた。

「つい『ガラクタ』とか言っちまったけど…お前、すげえな。悪かったよ。」

レムは無言でその言葉を受け止めるように静かに立っていた。

「これからは、俺たちも友達ってことでいいか?」

ヒロトが手を差し出す。ユウトは少し驚きながらも、その手をしっかりと握り返した。

「うん、よろしく。」

その光景をレムは静かに見つめていた。その場の空気には、彼らの間に新たに芽生えた友情の気配が漂っていた。レムのセンサーは、彼らの間に流れる温かな絆のデータを記録していた。


2055年10月18日 16時40分

夕暮れの空が鮮やかな茜色に染まり、公園の木々が長い影を落としていた。風が木の葉をそよがせる音と、どこかで聞こえる子どもたちの声が公園を包む中、ユウトとヒロトは野球ボールを投げ合っていた。

レムは少し離れた場所からその様子を見守っていた。これまで何度も顔を合わせ、遊びの中で自然と距離を縮めた二人は、今ではまるで昔からの友人のように打ち解けていた。出会った頃のぎこちなさは、どこにも見当たらない。レムが二人の間に立ち、橋渡し役となったことで生まれた友情。それは、ユウトにとってもヒロトにとっても、新しい世界を広げるきっかけとなっていた。

「レムって、ホントにすごいな!」

ヒロトが声を上げ、笑顔でレムを振り返る。

「でしょ?」

ユウトも満足げに微笑み、レムの動きを目で追った。その視線には、ただのロボットに向ける以上の信頼と親しみがあった。ユウトにとって、レムは孤独な日常を救ってくれた存在であり、今ではヒロトとの新しい友情を紡ぐきっかけでもあった。

「ほら、もっと強い球で来いよ!」

ヒロトが意気込んで手を振り上げると、ユウトも全力でボールを投げ返した。白いボールが夕日に照らされ、弧を描いてヒロトに向かって飛んでいく。

「いい球じゃん!でも、こっちのほうが速いぞ!」

ヒロトがニヤリと笑い、勢いよく投げ返したボールはユウトの手元をすり抜け、遠くへ転がっていった。

「あっ、ごめん!強すぎた!」

ヒロトが慌てて声を上げる。二人の視線の先では、ボールが木々の間を抜けて公園の奥にある人工池の方向へと転がっていた。二人は目で追いかけながら慌てて走り出す。

「おいおい、どこまで行くんだよ!」

ヒロトも必死に駆け出すが、ボールは止まることなく池の中へと飛び込んでしまった。水しぶきが上がり、夕陽を反射して波紋を描く。

「やっちゃった…」

ユウトが困惑した表情で池を見つめる。

「でも、こういう時こそだろ?」

ヒロトはニヤリと笑い、靴を脱ぎ始めた。

「ちょっと待って!何してるんだ?」

ユウトが慌てて声を上げるが、ヒロトは構わず池の縁に近づく。

「決まってるだろ、取りに行くんだよ!」

ヒロトが服を脱ぎ、池に飛び込もうとしたその瞬間――ユウトが彼の腕を掴んだ。

「ダメだよ、危ない!…レムがいるじゃないか!」

ユウトの目が輝いた。彼は咄嗟にレムの能力を思い出し、すぐに彼に指示を出した。

「レム、池の中をスキャンしてボールの場所を教えて!」

レムは即座に反応し、池に視線を向けた。小さな体からわずかな光が放たれ、水面を静かに照らす。池の底がスキャンされると、レムの体の側面からホログラムが投影された。立体的な池の地図が浮かび上がり、その中にボールの正確な位置が赤い点で示されている。

「すごいな、これ…!」

ヒロトが目を見開き、ホログラムに見入った。

「ボールは、池の中央からちょっと左…深さ1メートルくらいか。」

ユウトがつぶやきながらホログラムを確認し、さらに考えを巡らせる。

「これなら俺たちでも取れる!」

ユウトは公園の周囲を見渡し、使えそうな長い枝を探し始めた。しばらくして、ちょうどよい木の枝を見つけると、それを手に持って戻ってきた。

「これで引っ掛けられるはずだよ。」

ヒロトも枝を受け取り、二人で池の縁に立つ。レムのホログラムを見ながら位置を確認し、慎重に枝を操作する。

「もうちょっと左だ…そこだ、そっちに動かして!」

ユウトが真剣な表情で指示を出す。

「分かってるって…よし、触ったぞ!」

ヒロトが力を込めて枝を動かし、ボールを引っ掛けた。

「やった、取れた!」

二人は声を合わせて喜び、ボールを慎重に岸へ引き寄せた。

「ありがとう、ヒロト。レムも、本当に助かったよ。」

ユウトが安堵の笑顔を浮かべながら言った。

「いや、お前がいいアイデア出したんだろ。」

ヒロトは照れくさそうに肩をすくめた。

「俺なんて飛び込むことしか考えてなかったけど、こういうのがチームワークってやつかもな!」

夕暮れの光が池の水面を黄金色に染める中、二人はボールを手にして立ち上がった。レムは少し離れた場所でその様子をじっと見守っていた。内部には感情はないはずだが、どこか満足そうに見えた。

レムの仕掛けた小さなアクシデントが、二人の協力を引き出し、その友情をさらに深めるきっかけとなった。レムはこの瞬間が、未来に訪れる試練を乗り越える力になると確信していた。


2055年10月20日 18時30分

夕暮れの空が橙色から紫色に染まり、辺りは徐々に夜の帳に包まれ始めていた。ユウトとヒロトは、レムを伴いながら自宅へ向かって歩いていた。二人はその日公園で遊んだことを振り返り、楽しげに笑い合っている。秋の冷たい風が頬を撫で、彼らの声が静かな住宅街に小さく響いた。

その中で、レムは異なる緊張感に包まれていた。センサーが微かな振動を捉え、内部システムが次第に警告を強めていた。それは、津波の襲来が迫っていることを示していた。明確なデータが示す危機を前に、レムの中枢はかつてのループの失敗を思い出し、その苦痛を再び味わっていた。

(また繰り返してしまうのか…?)

もし彼に言葉があれば、そう呟いたかもしれない。しかし、彼に言葉はない。ユウトやヒロトに危険を伝えるには、行動で示すしかなかった。静かに彼らの後ろを歩きながら、レムはその方法を必死に模索していた。

前のループで味わった無力感と喪失の記憶が、彼の中枢を重く押し潰していた。だが同時に、今回は違うという確信が、冷たい金属の体を支えていた。守るべきもの――ユウトとヒロト――がすぐ目の前にいる。その二人を救うために、レムは今回のループで自分に何ができるかを考え続けていた。

レムが導き出した答えは、一つだった。 二人の絆をさらに深め、強固なものにすること。 二人の友情が強ければ、津波の襲来に直面しても共に協力し合い、困難を乗り越える力となる。レムはその決意を胸に秘め、静かに行動を起こすことを決めた。

ユウトがふと振り返る。

「ねえ、レム?どうしたの?なんか…今日、少し変じゃない?」

ヒロトも足を止めて振り返り、レムの方をじっと見た。

「お前も、なんか考え事してんのか?」

レムは答えない。ただ静かに二人を見つめ、その視線を通じて何かを訴えかけているようだった。その無言の姿に、ユウトは少しだけ首をかしげたが、すぐに笑顔を浮かべて歩き出した。

「大丈夫だよね、レム。」

その言葉には、ユウトがどれだけレムを信頼しているかが滲み出ていた。レムは小さく一歩を踏み出し、二人の後を追い始めた。

夜の静寂が住宅街を包み込み、家々の窓から漏れる明かりが暖かな光を放っている。家に戻ったユウトとヒロトは、リビングのソファに腰を下ろし、レムを囲むようにして今日あった出来事を振り返っていた。ヒロトが冗談を言えばユウトが笑い、その声が部屋に響く。レムはいつものように彼らを見守り、静かに佇んでいる。

しかし、彼の内部では別のことが起こっていた。冷静に見える外見とは裏腹に、内部システムは津波のシミュレーションを繰り返していた。波が街を飲み込むまでの時間、逃げるべきルート、必要な行動――すべてが分析され、計算され続けていた。

前のループで経験した悲劇を繰り返さないために、彼の中で絶え間なく計算が行われる。そして、その中には明確な指針が刻まれていた。 自分を犠牲にしてでも二人を守る。 それが彼の存在意義であり、このループで与えられた使命だった。

ユウトとヒロトが笑い合う光景を、レムはじっと見つめていた。その小さな体には、冷たく無機質な金属の外装があるだけだが、その内部には確かに使命感と決意が燃えていた。

静かに目を閉じたレムの視覚センサーは暗転し、システムが新たなシミュレーションを始める。その一つ一つの計算が、未来を守るための力となることを信じながら。


2055年10月22日 17時15分

秋の澄んだ空気が肌を心地よく撫でる放課後、学校の屋上には柔らかな日差しが降り注いでいた。風に揺れる鉄柵の音と、校庭から聞こえる子どもたちの笑い声が、穏やかな時間を感じさせる。屋上の隅に腰を下ろしたユウトとヒロトは、レムを囲むようにして座っていた。

「ここから見る景色って、特別だよな。」

ヒロトが目を細めながら遠くを眺める。夕暮れが近づく空は淡いオレンジ色に染まり始め、街の輪郭を美しく浮かび上がらせている。

「うん、ここにいると何か安心するよね。」

ユウトも静かに頷いた。

学校の一日を終えた後、こんな風に屋上で過ごす時間は二人にとって少し特別だった。それを一緒に共有しているレムの存在が、二人にとって新しい絆の象徴になりつつあった。

「さっきのサッカー、楽しかったな。」

ヒロトが笑いながら言うと、ユウトも微笑みを浮かべた。

「うん。こうして遊べるのも、レムのおかげだよ。」

レムは二人の言葉を静かに聞き、少しだけ視線を動かした。その無機質な瞳には感情はないが、どこか人間らしい温かさを感じさせる佇まいだった。ユウトはそんなレムの姿に改めて感謝の思いが膨らむのを感じた。そして、ふと湧き上がる疑問――。

「ねえ、ヒロト。レムのこと、もっと知りたくない?」

ユウトが少し興奮気味に問いかける。レムはただのロボットではない。もっと深く知れば、さらに特別な何かが見えてくる気がしていた。

「もちろんだ!」

ヒロトは目を輝かせながら答えた。そして、ふと思い出したようにユウトに尋ねる。

「そういや、レムとはどこで出会ったんだ?」

ユウトは一瞬考え込み、少し照れたように笑った。

「朝、起きたら家の前にいたんだよ。なんだか信じられないけど…」

ヒロトは驚いた顔を見せつつも、冗談めかして笑った。

「お前に会うためにわざわざ来たんじゃねえの?」

「そんなわけないだろ…偶然だと思うけど…」

ユウトは苦笑いを浮かべながらも、心の奥でヒロトの言葉に少しだけ心を揺さぶられていた。本当に偶然なのだろうか? もしかすると、何か理由があるのでは――そんな考えが頭をよぎる。

ヒロトが真面目な表情になり、ユウトを見つめた。

「でもさ、ユウトもレムのこと、まだよく知らないんだろ?」

「うん、そうだね。どんな機能があるのかも分からないし…」

ユウトは考え込むようにレムに目を向けた。興味と期待を込めた視線が、じっとレムに注がれる。

「レム、君のこと、もっと教えてくれない?」

その言葉に応じるように、レムは無言で軽く頭を動かし、胸のパネルを静かに開いた。胸のパネルから発せられる光が空間を満たし、青白いホログラムが形成され始める。屋上に広がる未来的な光景は、まるで別世界が現れたかのようだった。ユウトとヒロトは目を見開き、息を呑んでその光景を見つめた。

「すげぇ…」

ヒロトが小声で呟く。ホログラムには、レムの各機能が立体的なイメージで次々と浮かび上がっていた。それぞれの機能には名前と説明がついており、アニメーションやアイコンがわかりやすくその能力を伝えている。

最初に表示されたのは《音声再生機能》。録音や再生、警報音を発する機能が映像で説明される。次いで《環境解析システム》が表示され、レムの視覚センサーが周囲をスキャンし、気温や風速、湿度を解析する様子が映し出された。ホログラムには校庭が小さなモデルのように投影され、詳細な解析データが飛び交っている。

「これで周りの状況を全部把握できるのかよ…」

ヒロトは感心しながら呟く。

さらに、《ナビゲーション機能》が表示され、立体的な地図がホログラムで浮かび上がる。迷子や緊急時に最適なルートを示す様子に、二人は感嘆を漏らした。最後に浮かび上がったのは、《ホログラム機能》そのもの。今まさに彼らが目にしている驚きの光景だった。

「ただのロボットじゃないよね、レムって。」

ユウトはレムに視線を向けながらそう呟いた。その声には、驚きと感謝が滲んでいた。

「本当にな。何かあったら、こいつがいれば大丈夫そうだ。」

ヒロトも頷き、満足そうに微笑んだ。

ホログラムがゆっくりと消え、再び静けさが屋上に戻る。冷たい風が二人の頬を撫で、遠くの空には星が一つ輝き始めていた。

「レムがいれば、どんなことも乗り越えられる気がする。」

ユウトが穏やかな笑顔でそう言うと、ヒロトも深く頷いた。

レムは言葉を持たない。ただ、彼らを見守るようにじっと佇む。だが、その無言の中には、確かな使命感が感じられる。ユウトとヒロトの成長を支え、未来を切り開くために――。

夕陽が完全に沈みかける頃、三人はゆっくりと屋上を後にした。レムの存在が二人の間に新たな絆を築いていたことを、彼らはまだ自覚していなかったが、その絆は確かに強まっていた。


2055年10月24日 15時30分

秋の冷たい風が公園の木々を揺らし、枯葉がカサカサと音を立てながら地面を舞っていた。夕方の公園は、遊び疲れた子供たちが家路につき、少しずつ静けさを取り戻しつつあった。その中、ユウトはいつものようにレムと共に公園へ向かって歩いていた。

「今日はヒロト、もう来てるかな?」

ユウトはレムに問いかけるように独り言を呟きながら、ふと前方に視線を向けた。しかし、その瞬間、ユウトの足が止まった。遠くの公園の広場でヒロトが倒れており、その周りを数人の高校生が取り囲んでいるのが見えた。

「ヒロト!」

ユウトの心臓が大きく跳ね上がる。体が自然と前に動き出したが、すぐに足を止めた。相手は自分より年上の高校生たち――彼らの大きな体格を目にすると、恐怖が足をすくませた。

「おい、何様のつもりだよ!」

高校生の一人が怒鳴り声を上げると同時に、ヒロトの胸を蹴りつけた。ヒロトは苦しそうに体を丸めながらも、歯を食いしばり、何も言わなかった。その目には悔しさと恐怖が入り混じり、震えているのが遠目にも分かった。

ユウトは思わず声を上げかけた。

「やめ...!」

だが、その声は途中でかき消えた。恐怖が喉を塞ぎ、それ以上声を出すことができない。どうすればいいのか――頭の中が混乱し、全身が震えた。

その隣で、レムがじっと高校生たちを見つめていた。無言で動かないその姿を見たユウトは、突然ひらめいたようにレムに顔を向けた。

「レム!大人の人の声を再生して、あいつらを驚かせるんだ!」

ユウトの声は震えていたが、その中には確かな決意がこもっていた。

レムの目が一瞬だけ光を放つと、内部の音声再生機能が作動した。そして、公園中に響き渡るような力強い声が発せられた。

「おい、君たち!何をしている!すぐにやめなさい!」

それは学校の先生の声を模した音声だった。威厳に満ちたその声は、公園全体を包み込み、静まり返らせた。

「やべっ…逃げろ!」

彼らは慌てて走り去り、その場には振り返ることもなく消えていった。

「ヒロト!」

高校生たちが去るや否や、ユウトはすぐにヒロトのもとに駆け寄った。地面に倒れたままのヒロトは、苦しそうに顔をゆがめながらも、ユウトの姿を見て少しだけ安堵したようだった。

「大丈夫?どこか痛い?」

ユウトの声には、心配と焦りが入り混じっていた。ヒロトはゆっくりと体を起こしながら、かすれた声で答えた。

「胸が…ちょっと痛いけど、大丈夫だ。」

ユウトはほっとしたようにため息をついた。

「レムが先生の声を出してくれたんだ。あれであいつらを追い払えたんだよ。」

ヒロトはレムの方に目を向け、しばらく黙っていた。レムの小さな体が夕陽に照らされ、冷たい金属が暖かい色に染まっている。その姿を見て、ヒロトは少し照れくさそうに笑みを浮かべた。

「…ありがとう、レム。本当にすごいな。お前、俺たちのことを守ってくれるんだな。」

レムは何も言わず、ただ静かにヒロトを見つめていた。その無言の視線には、言葉以上の意味が込められているようだった。

「立てる?」

ユウトが優しく手を差し出す。ヒロトはその手を掴み、ゆっくりと立ち上がった。まだ胸の痛みが残るのか、彼は小さく息を吐きながら姿勢を整えた。

「悪かったな、ユウト。お前まで巻き込んじまって…」

ヒロトが申し訳なさそうに言うと、ユウトは軽く首を振って笑った。

「気にしないよ。それに、レムがいてくれて本当によかった。」

ヒロトは改めてレムに目を向け、感謝の言葉を口にした。

「ありがとうな。レム。」

レムは無言のまま佇んでいたが、その姿には確かな決意が感じられた。冷たい金属の体の奥に、二人を守る使命がしっかりと宿っているようだった。

夕陽がゆっくりと地平線に沈み、公園は黄金色の光に包まれていた。木々の間を吹き抜ける秋風が、二人の間に広がる沈黙を優しく包み込む。

ユウトとヒロトは肩を並べて歩き出した。互いに多くを語ることはなかったが、その歩幅は自然と揃っていた。レムはそんな二人を一歩後ろから静かに見守っていた。

この日の出来事は、二人にとって忘れられない記憶となった。ヒロトにとっては、自分を支えてくれる存在を知るきっかけとなり、ユウトにとっては、自分がヒロトを助ける強さを持っていることを実感する場面となった。そして、レムはその間で、確かな絆を育む一翼を担っていた。

秋の夕暮れ、三人の姿が静かに公園を後にする。風がさらさらと木々を揺らし、どこか優しい音を立てていた。


2055年10月26日 16時00分

日が傾き始め、秋の空が淡い夕焼け色に染まる頃、公園には一日の終わりを告げるような静けさが漂っていた。風に舞う枯葉が地面をさらさらと滑り、どこか物寂しい雰囲気が広がっている。ユウトとヒロトはレムを連れていつものように公園に集まっていた。

しかし、その日、ヒロトの様子はどこかおかしかった。いつもなら冗談を飛ばして場を明るくする彼が、今日は終始無言で、足取りも重い。夕陽に照らされた横顔には、普段の快活さは見られず、曇りがかった表情が影を落としていた。

「ヒロト、何かあったの?」

ユウトは心配そうに声をかけたが、ヒロトは軽く首を振るだけで、曖昧な笑みを浮かべた。その笑顔には明らかに力がなく、どこか無理をしているように見える。

二人はしばらくボールを蹴りながら遊んでいたが、ヒロトの動きにはいつもの勢いがない。ボールを蹴る足も力が入っておらず、ユウトが返すたびに彼の動きが鈍くなるのを感じ取った。

「…ヒロト?」

ユウトがもう一度呼びかけたが、ヒロトは何も答えず、ただ視線を下げてボールをぼんやりと見つめている。

ユウトはそっとレムに目を向けると、少し考えた後、静かにボールを拾い上げ、ヒロトの隣に座った。レムも少し離れた位置で二人を見守るように佇む。夕陽が木々の間から差し込み、柔らかな橙色の光が三人を包み込んでいた。

「ヒロト、本当に何もないの?話してくれたら楽になるかもしれないよ」

ユウトが優しく問いかけると、ヒロトは軽くため息をつき、枯葉を靴で小さく蹴るようにしながら、ぽつりと呟いた。

「…学校で、ちょっと嫌なことがあってさ。」

彼の声は小さく、普段の力強さとはかけ離れていた。ユウトは静かに頷き、ヒロトの言葉を待つ。無理に引き出そうとはせず、ただ寄り添うようにそばに座っていた。

ヒロトは一瞬躊躇したが、やがて言葉を続けた。

「クラスのやつと、言い合いになったんだよ。俺のこと、いつもバカにしてくるやつがいてさ。何やっても否定されて、ほんとムカつく。」

その言葉には苛立ちと悔しさが入り混じり、握りしめた拳がわずかに震えていた。

ユウトはその言葉を黙って受け止めた。そして、ふとヒロトの肩に手を置き、優しく語りかける。

「ヒロト、僕たちがいるよ。そんなに一人で抱え込まなくても大丈夫だよ。」

その言葉は穏やかでありながら、確かな温かさを持っていた。ヒロトは一瞬驚いたようにユウトを見つめたが、やがて息を吐き、目をそらした。

「お前、ホントにそういうことをさらっと言うよな。…でも、ありがとな。」

ヒロトは軽く笑いながら、少しだけ肩の力を抜いた。その笑顔はまだ完全に戻ったものではなかったが、少しだけ心の壁が崩れたように見えた。

その様子を、レムはじっと見つめていた。人間の感情はデータで完全に解析できるものではない。それでも、レムには二人の間に流れる感情の波が伝わってくるようだった。ヒロトの苛立ち、ユウトの優しさ、そしてそこから生まれる小さな変化――それらを彼のセンサーは確かに捉えていた。

ヒロトはふとレムに目を向けると、少し照れたように呟いた。

「…お前もありがとな、レム。」

レムは何も言わず、ただ静かにヒロトを見つめる。その佇まいには、彼らを見守り、守るという確かな意志が感じられた。

夕陽がさらに低くなり、木々の影が長く伸び始めた。公園全体が淡い夕暮れの光に包まれ、肌寒い秋の空気が二人の間を吹き抜ける。沈んでいた空気が少しずつ軽くなり始めた頃、ユウトがふと立ち上がった。

「そろそろ暗くなるし、帰る前にもう少し遊ぼうか?」

彼の言葉に、ヒロトは一瞬戸惑ったが、すぐに笑顔を見せた。

「いいな、それ。さっきの続きやろうぜ!」

ヒロトの足取りには、先ほどまでの重さは感じられなかった。ボールを追いかける姿には、いつもの活気が少しずつ戻ってきている。レムも二人の後を追いながら、その様子を静かに見守った。

秋の風が二人の笑い声を運び、夕焼け色の空を背景に三人の影が長く伸びていた。短い秋の日が終わろうとしている中で、この日、ヒロトの心には小さな変化が生まれていた。ユウトの優しさ、レムの見守り、それらがヒロトの心の中で何かをそっと支え始めていた。

レムはその変化を感じ取り、自分の中で何かが再び動き始めるのを感じていた。それは、二人を守りたいという使命感が、さらに強く確かなものへと変わる瞬間だった。

夕陽が沈みかける頃、公園には穏やかな空気が漂っていた。三つの影がゆっくりと公園を後にし、秋の夜が静かに訪れようとしていた。


2055年10月28日 17時45分

秋の夜風が冷たく肌に触れ、日が完全に沈むと街は夕闇に包まれていた。街灯がぼんやりと足元を照らし、道端に舞い散る枯れ葉がカサカサと音を立てる。ユウトとヒロトは並んで家路を辿り、彼らの後ろをレムが静かに歩いていた。ふとした瞬間、ユウトがレムの方を振り返って微笑むと、レムは無言でユウトに応じるように、その冷たい金属の体をわずかに傾けた。

「寒くなってきたな…」

ヒロトがつぶやくように言った。彼の声には、どこか季節の変化に対する戸惑いが混じっていたが、ユウトはただ黙って頷いた。彼らの背後では、風に舞う枯れ葉が地面に転がり、あたりに小さな音を響かせていた。

レムのセンサーが、周囲の空気に漂う微かな異変を捉えていた。しかし、それが何なのか、その正体を掴むことはできない。彼の視覚システムには、ユウトとヒロトの背中が映っている。二人の歩幅は揃っていて、彼らのまだあどけない顔つきからは、未来への期待と無限の可能性が溢れていた。

だが、レムは理解していた。彼らを待ち受ける未来には、大きな脅威 -津波という災害が迫っていることを。前のループで打ち負かされた巨大な自然の猛威が再び訪れるのだ。それに立ち向かわなければ、彼らの未来を守ることはできない。レムはその思いを、今この瞬間も心の奥に深く刻み続けていた。彼に言葉はない。それでも、冷たい金属の体には誰よりも深い愛情と使命感が宿っていた。二人を守るという純粋な願いが、彼の行動を支えていた。


2055年11月5日 16時45分

空が急速に暗くなり、街全体が冷たい風に包まれ始めた。まるで大気そのものが不安を纏ったかのように、重たい空気が辺りを覆い尽くしていた。街灯の光がまだ灯る前の薄闇の中、風に舞う枯葉が路地を転がり、不吉な音を立てていた。

学校の授業を終えたユウトとヒロトは、レムを抱えながら帰路についていた。ユウトが時折振り返っては、風で揺れる街並みを見上げる。ヒロトはそんな彼の様子には気づかないまま、軽い口調で話し続けていた。二人の笑い声がかすかに響き、何事もない日常の一コマのように見えたが、レムのセンサーはすでに異常を捉えていた。

空気は冷たさを増し、風の中に紛れるように不穏な匂いが漂っている。レムの小さな体が一瞬硬直し、視覚センサーが周囲をスキャンし始めた。空の雲の動き、気圧のわずかな変化、そして遠くから響いてくるかすかな振動ーすべてのデータが警戒レベルを引き上げる要因となっていた。

「最近、風が強くて寒いよな。明日はもっと寒くなるかもな…」

ヒロトが軽い調子で笑いながら言ったが、その言葉にはどこか不安を隠そうとする響きが含まれていた。

「そうだね…」

ユウトも小さく頷きながら、どこか心ここにあらずの表情をしている。彼自身、何か漠然とした不安を感じ取っていたが、それが何なのかを言葉にすることはできなかった。

その時だったー遠くから、鈍く低い音が聞こえた。最初は微かで、風に紛れて聞き取れないほどだったが、次第にその音は重さを増し、街全体を包み込むように響いてきた。

「ゴゴゴゴ…」

地面から伝わるような低音の振動が、足元を揺らす。まるで大地そのものが唸り声を上げているような、得体の知れない音だった。

「今の音、何だろう…?」

ユウトは立ち止まり、レムを抱きしめたまま空を見上げた。瞳には恐れが浮かび、胸の鼓動が早鐘のように響いている。肩越しにヒロトを見ると、彼も同じように立ち止まり、音の方向を探るように周囲を見回していた。

「どっかで工事でもしてるのか?それとも…地震か?」

ヒロトが周囲の建物を見上げながら呟く。しかし、その言葉に確信はなく、彼の眉間には明らかに不安の色が刻まれていた。

一方、レムの内部では警戒態勢が最大限に高まっていた。センサーが振動、気圧、そして遠方からのデータを解析し続け、導き出された結論が彼の警報システムを鳴らした。視覚センサーが捉えたのは、遠方の地平線に現れた異様な影――それは巨大な波だった。

(津波…)

レムの内部データが、これが前のループでユウトやヒロトを飲み込んだあの津波であることを即座に認識した。過去の失敗がフラッシュバックのように蘇り、小さな金属の体が緊張する。自然の猛威が再び彼らを襲おうとしていることを理解した瞬間、レムのシステムは行動を開始した。

レムの目が鋭く光り、彼の内部でホログラム生成機能が作動した。「キーン…」という音と共に、青白い光がユウトとヒロトの前に広がる。そこには街の簡略な地図と共に、廃墟と化したビルの姿が浮かび上がった。

「なんだこれ…?」

ヒロトが目を見開き、光の地図を見つめる。ホログラムには、廃墟ビルへの最短ルートが赤いラインで示されており、そこに向かうことで安全を確保できると判断されていた。

「レムが…逃げる場所を教えてくれてる?」

ユウトはホログラムの指し示す方向を見ながら、小さな声で言った。その言葉には驚きと安堵が入り混じっていた。彼の心臓の鼓動は速いままだが、レムの行動が確実に希望を与えていた。

「急げってことか…行こう、ユウト!」

ヒロトがユウトの腕を引き、二人はホログラムの示す方向に向かって駆け出した。レムはその小さな体で二人の先を進みながら、周囲のデータをスキャンし続けている。

背後では、遠くの波の唸り声がさらに大きくなりつつあった。それはもはや低い音ではなく、轟音となって空気を震わせていた。冷たい風がさらに強まり、街の木々が一斉にざわめく。

「レム、こっちで合ってるんだよな?」

ヒロトが息を切らしながら叫ぶように問いかける。レムは無言のまま、ホログラムで示すルートをわずかに修正し、進むべき方向を指し示した。

その小さな背中を追いかけながら、ユウトは胸の中に小さな決意を抱いた。何が起こっても、ヒロトと共にレムを信じ、この危機を乗り越えなければならない――。

遠くにそびえる廃墟ビルが見え始めた時、街全体に鳴り響く轟音は一層大きくなっていた。自然の猛威が迫りくる中、レムの冷静な行動と、二人の必死の努力が、わずかながらも希望を感じさせていた。


2055年11月5日 16時55分

巨大な津波が「ドドーン…」という轟音とともに街を襲った。波が地平線を覆い尽くし、その圧倒的な威力がすべてを飲み込んでいく。家々は簡単に波に呑まれ、瓦礫と化して濁流に巻き込まれていった。街は一瞬で静寂を失い、破壊と混沌の舞台へと変わった。

「ザバーン…」という激しい水音が、周囲に響き渡る。水は容赦なく押し寄せ、地面を叩きつけるようにすべてを押し流していく。その勢いは留まることを知らず、街全体を覆い尽くす勢いだった。空気中には、潮の匂いとともに破壊の音が渦巻いていた。

ユウトとヒロトは、その破壊的な光景を目にしながらも、恐怖に立ち止まることは許されなかった。背後から迫る津波の轟音が、まるで彼らを追い立てるように迫ってくる。二人は必死に足を動かし、濁流を振り切るために走り続けた。

「あと少しだ!」

ヒロトが振り返りざまに叫ぶ。その声には恐怖を振り払うような強さが込められていた。ユウトは息を切らしながら、それでも懸命に走り続ける。彼らの行く手には、廃墟と化した古びた建物が見えていた。

濁流の水しぶきがすぐ背後に迫り、靴裏が濡れた地面を滑るたびに、二人の心臓は激しく鼓動を打った。ついに建物にたどり着き、彼らは迷うことなく階段を駆け上がる。

「急げ!」

ヒロトが階段の先から叫ぶ。その声は途中で波の轟音にかき消されるが、ユウトは足を止めることなく追いかけた。

二人が屋上に飛び出した瞬間、冷たい風が吹き抜け、彼らの頬を打った。息を切らし、しばし肩で息をつく。しかし、安堵の息を吐いたのも束の間だった。

「見ろよ…あれ…」

ヒロトが声を震わせながら指差した先には、すでに街を覆い尽くした津波が迫っていた。濁った波は建物を次々に飲み込み、その高さは屋上にいる彼らの目線にまで達しようとしている。

「ゴォォォ…」という深い轟音が、彼らの鼓膜を震わせる。波が一気に迫り、屋上をも飲み込むのではないかという圧迫感が二人を覆った。恐怖が彼らの体を硬直させる。

「ここなら大丈夫だよね…?」

ユウトが震える声で呟いた。その言葉には、不安を紛らわすための必死さが滲んでいた。しかし、そんな彼の声を嘲笑うかのように、波は一層大きな音を立てて近づいてくる。

その時だった――。ヒロトの足元が不意にぐらついた。濡れたコンクリートの屋上が滑りやすくなっており、彼はバランスを崩した。

「ヒロト、危ない!」

ユウトが叫んだ瞬間、ヒロトの体がぐらりと傾いた。

「わっ…!」

ヒロトの驚いた声が風に消える。彼はそのまま屋上の端から転げ落ちていった。ユウトが手を伸ばすが、その手は届かない。

「ヒロト!!!」

ユウトの絶叫が空に響き渡る。屋上から見下ろすと、ヒロトの体が濁流の中へと飲み込まれていくのが見えた。瓦礫や木の破片が渦巻く濁流に、ヒロトの姿が一瞬だけ見え隠れする。その瞬間、ヒロトの目がユウトを見つめるように見えた。

「くそっ…!」

ユウトはその場に崩れ落ちた。拳をコンクリートに叩きつけるが、虚しさしか残らない。彼の胸にはヒロトが流されていった光景が焼き付き、涙が溢れ出して止まらなかった。

「ヒロト…なんで…!」

ユウトの声は震え、やがてすすり泣きに変わる。彼の拳は震え、冷たい屋上の床に血が滲むほど叩きつけられていた。津波の音がなおも周囲を飲み込み、彼の叫びをかき消していく。

濁流の中、何度も波に呑まれるヒロトの姿がユウトの脳裏に焼き付いて離れない。助けたい――しかし、どうすることもできなかった無力感が彼の胸を締め付けた。

「くそっ…ヒロト…!」

ユウトは地面に伏し、堪え切れずに涙を流し続けた。レムもまた、無言のままユウトのそばに立ち、ヒロトが波に消えた方角を見つめていた。


2055年11月3日 17時10分

津波が完全に引き、街はまるで息を潜めたかのような静寂に包まれていた。波が去った後に残されたのは、瓦礫と化した建物の残骸、ねじ曲がった鉄骨、そして流されてきた無数の生活の痕跡だった。街全体が破壊という言葉を形にしたような光景の中、唯一聞こえるのは、冷たい風が瓦礫の間をすり抜ける音だけだった。

その中に、倒れたレムの冷たい金属の体があった。彼の小さな体は地面に横たわり、動くことができなかった。その表面には泥と傷がつき、所々がひび割れていた。彼はユウトとヒロトを守るために全力を尽くしたが、その努力は津波という自然の猛威の前では無力だった。

倒れたままのレムは、その無表情な姿からは想像もつかないほど、内部システムがフル稼働していた。彼のセンサーは動作を停止していたが、内部の記憶システムが次々と過去のデータを呼び起こしていた。何度も繰り返されたループの記憶――ユウトとの穏やかな日々、笑い合った時間、そして津波によって引き裂かれた悲劇の数々が、断片的な映像として彼のシステムに流れていた。

レムはヒロトが消えた方向をじっと見つめていた。動くことも、声を上げることもできない。ただ静かに、無言のままその方角を見つめていた。冷たい金属の体には震え一つ見えなかったが、内部ではヒロトを守れなかったという痛みが、データとして深く刻み込まれていった。その記憶は、彼のシステムの中で消えることのない傷となった。

しばらくして、ユウトがレムのそばに座り込んだ。泥と瓦礫にまみれた彼の体は震えており、目には涙の跡が残っていた。彼はしばらく無言で地面を見つめていたが、やがて小さく震える声で呟いた。

「どうして…どうしてぼくたちはこんな目に…」

その言葉は冷たい風にかき消されそうなほど小さかったが、その声には絶望と無力感が滲んでいた。ユウトは拳を握りしめながら、涙をこらえるように顔を上げたが、視線は虚ろなままだった。

レムの無言の存在が、ユウトに一層の孤独を感じさせた。レムがいるのに、ヒロトを守れなかった――その現実がユウトの胸に重くのしかかっていた。

その時、レムの体が微かに緋色の光を帯び始めた。最初は傷ついた金属の表面に淡い光の線が走る程度だったが、次第にその光は明るさを増していった。冷たい金属の体から放たれるその光は、壊滅的な街の中で異質な存在感を放ち始める。

「レム…?」

ユウトは顔を上げ、レムの発する光を見つめた。その瞳には、先ほどまでの絶望にわずかに驚きの色が混じり始めていた。彼の手は思わずレムに伸びたが、その光の神々しさに触れることを躊躇わせた。

レムの光はさらに強くなり、周囲を柔らかく照らし出した。瓦礫に覆われた街並み、波に流された残骸――そのすべてを覆い隠すかのように、眩いばかりの光が辺りを包んでいく。

その光には、レムの決意が込められていた。失敗に終わった過去のループ、守れなかったヒロト、そのすべての記憶が彼の中で渦巻き、再びループを繰り返すことで未来を変えるという使命感に凝縮されていった。レムの内部で走るデータの流れが加速し、彼のシステムは再び稼働を始める準備を整えていた。

(ヒロトを守るために――)

言葉にできないその決意が、光となって現れているかのようだった。

「レム…どうしたの…?」

ユウトは光の中で呟いた。彼の声は虚空に溶けていき、誰に届くわけでもなかった。その瞬間、レムの光がピークに達し、彼を中心に眩しい緋い輝きが爆発するように広がった。

世界が緋色一色に染まり、ユウトは思わず目を覆った。風も音もすべてが消え去り、時間が一瞬止まったかのようだった。そして、次の瞬間――レムは静かにその目を閉じ、完全に意識を失った。

街は再び冷たい静寂に包まれていた。レムの小さな体は地面に横たわったままだったが、その内側には、新たなループに向けた希望と使命感が眠っていた。

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