春風の通り道
畝澄ヒナ
春風の通り道
僕、泉直樹を含めた三年A組の全員が、目の前の光景に唖然としていた。
「この春転校してきました、春日風香です。よろしくお願いします」
去年の春にこの町から消えたはずの彼女が、何事もなかったように堂々と教壇の前で自己紹介をしている。僕は見間違いかと思い、ずれていたメガネを直し、目にかかった前髪を左に流して、再び目を凝らした。
一年前と同じ、綺麗な黒髪ロングに少し垂れた目元、だが僕の知っている彼女ではない。彼女はかつての明るい笑顔ではなく、儚げで今にも消えそうな不気味な笑みを、一年前と何も変わらない根暗な幼馴染の僕に向けていた。
僕があからさまに視線を逸らした後、先生に席を案内された彼女は思い出したように口を開いた。
「気軽に、春風ちゃんって呼んでください」
この言葉に教室は凍りついた。彼女が一番嫌いな、いじめを象徴するこのあだ名を、彼女自身が口に出すなんてあり得ない。
クラスメイトのざわめきをよそに、彼女は艶めいた髪を揺らしながら席へと向かう。
一番後ろまでたった六席、その間に事件は起こった。
彼女の歩く先に見えたのは、ちょんと出された女子生徒の足。また懲りもせず、クラスメイトはターゲットを再認識したようだ。
彼女はつまずく寸前で足を止め、故意に出された障害物を言葉もなく見つめる。そしてそれを、力一杯踏みつけた。
「痛い! 何すんのよ!」
「あ、ごめんなさい。邪魔な虫がいたので」
女子生徒に反論の隙も与えず、無表情で歩き出す彼女。さっきまで面白がっていた野次馬たちは、我関せずといったように伏し目がちになっていた。
唯一の傍観者である僕だけが、彼女が戻ってきた理由とあの行動の意味を理解していた。
放課後になり、僕はいつものように一人で帰路についていた。誰もいないはずの空間で、案の定後ろから声をかけてきたのは春日風香だった。
「久しぶり、直くん」
前は安心できていた声も、今では脅しに聞こえる。僕は恐る恐る振り返り、返事をした。
「か、春日さん」
「あれ、あの時みたいに、春風ちゃんって呼んでくれないの?」
どこか影のある笑顔しかできなくなった彼女は、僕の罪を白状させようと近くまできて顔を覗き込む。
確かに笑顔なのだが、瞳に光などなく、彼女の目に僕は映っていなかった。
「僕を、僕たちを恨んでるんだよね」
彼女から目を逸らし、少しばかりの唾を飲み込んだ後、僕は言葉を続けた。
「だから、道連れにするために……」
「間違ってる」
冷たい返事だった。視線を戻すと、表情は暗くも明るくもなく、そこには無だけがあった。
「何を解った気になってるの?」
「ご、ごめん」
謝ることしかできない僕は、未だに許されようと足掻いている。そしてまた、見当違いの偽善を投げかけてしまう。
「何もしないよね?」
僕の質問に彼女は首を傾げる。
「例えば?」
「の、呪うとか」
彼女はまたあの笑顔でゆっくり答えた。
「呪うんじゃなくて、祓うの」
「祓う?」
「人の姿をした、悪魔たちを」
彼女の正義は一般的なものから逸脱していた。恨みや憎しみ、そういう汚い感情を通り越した先に、『やらなければ』という正義が生まれてしまったのだろう。
「直くんは私の味方だよね?」
彼女の質問はきっと、今後の僕がどうなるかを左右する。
「う、うん」
僕の返事に安心したのか、彼女は何も言わず帰っていった。
翌日の朝、教室に彼女の姿はまだ見えない。ただ、彼女の席には数人の女子が集まっていた。
彼女の机に置かれたものが見えた瞬間、僕は体の中の全てが逆流してくるのを感じ、その場で嘔吐した。
「泉が吐きやがった!」
「え、急に何?」
うずくまる僕の周りから男子の騒ぐ声と女子の悲鳴が聞こえる。教室の窓際にあったはずの花瓶に菊の花が生けてあり、それが彼女の机に置いてある光景は、僕と彼女にとって冗談では済まされなかった。
「直くん?」
最悪のタイミングで彼女が来てしまった。
見てはいけない、机に置いてあるものも僕の惨めな姿も。
「そっか」
彼女は全てを見て察したようだ。頭の回転の速さは当時と変わっていない、むしろ速くなっていた。
彼女が来たせいか、混沌化していた教室に沈黙が訪れる。予鈴のチャイムだけが鳴り響き、先生が来るまでの数分で彼女は動き出した。
僕は下を向いたまま音だけを聞き、彼女の行動を読む。
歩く音、花瓶が机に擦れる音、そして突然聞こえる女子の悲鳴。俯いた僕の元に菊の花弁を運ぶ水が流れてきた時、彼女の一連の行動が僕の脳内で具体化した。
僕が確認のために前を向くと、彼女は一人の女子の頭にゆっくりと水をかけていた。水を浴びた本人はぽかんとしていて、悲鳴をあげているのは周りの女子だった。
「あんた何してんのよ!」
我に返った女子が彼女に向かって怒鳴る。空になった花瓶を机に置き、彼女はまた無表情で女子に言い放った。
「これで汚い考えは洗い流せましたよね」
「何ふざけたこと言って……」
女子が突っかかろうとすると、彼女は一歩下がってスマホの内カメラを向けた。
「ほら、悪魔の顔が浮かび上がってますよ」
足を踏まれた時と同様に女子は一瞬怯んだが、また狼のように噛みつこうとする。
「この魔女があ!」
怒りに狂った獣を止めたのは先生がドアを開けた音だった。状況を聞いてきた先生に、彼女は慌てる様子もなく淡々と答えた。
「花瓶を倒してしまって濡れちゃったみたいです。あと、泉くんの気分が優れないようなので保健室に付き添ってきます」
僕は彼女の付き添いで保健室へと移動した。
彼女が『春風ちゃん』と呼ばれる前のあだ名は『魔女』だったことを、僕は彼女の隣で思い出していた。美人で頭が良くなんでもできた彼女は、天才ゆえに孤立した。そして、普通ではない逸脱した存在として、クラスメイトによって『魔女』に仕立て上げられたのだ。
「大丈夫?」
「だ、大丈夫だよ。ちょっと、思い出しただけだから……」
僕は必死に平然を装っていた。彼女は気づいていたかもしれないが、一言「そっか」と呟いて、それ以上は何も聞かなかった。
「ゆっくり休んでね」
「うん、ありがとう」
僕を保健室に送り届けると、彼女は笑顔で手を振って教室に戻っていった。
彼女が唯一変わらなかったのは、僕にだけは優しく接してくれるところだけだった。
僕は保健室のベッドに横になって布団に潜り込み、深い眠りにつく。
「風香来たよー。僕に話って……」
二階の風香の部屋に足を運ぶと、僕は目の前の光景に目を疑う。
「風香? 何してるの……?」
包丁を持った風香はにこにこと笑うだけで何も言わない。それを自分の首にそっと当てる。
「や、やめ……!」
僕は手を伸ばしたがもう遅い。部屋中に赤い飛沫が散って、僕の視界を赤く染める。騒ぎを聞きつけた風香の母親は、到底受け入れられない光景に悲鳴をあげる。
風香がその場に倒れ、隠れていた姿見が現れる。それに映る僕の目は赤く、充血のせいなのか飛び散ったもののせいなのかは分からない。
僕は警察が到着するまで動けなかった。いや、動いてはいけない気がした。僕が風香の最期を見届けなければ、呼ばれた理由もここにいる意味も、僕の価値すら全てなくなってしまうと思った。
「泉さん、体調はどうですか?」
先生に声をかけられ、僕は目を覚ました。気分は最悪だがこれ以上は休めない。無理やり体を起こし、ふらふらと保健室を後にした。
春日風香は自殺した。だから戻って来れるはずがないのだ。このことを知っているのは彼女の家族と僕の家族だけで、先生を含めた何も知らない奴らはこの状況をおかしいとすら思わない。それが余計に気持ち悪く感じた。
教室に戻ると嘔吐物は綺麗に片付けられていて、僕に気づいた彼女はすぐ駆け寄ってきた。
「もう大丈夫なの? あ、汚したところは掃除しといたから、気にしなくていいよ」
彼女はどこまでも僕に優しい。僕以外の奴らには氷のように冷たいのに。
「春風ちゃん」
「もう! そのあだ名は幼稚園の時まで!」
僕だけが呼ぶことを許されたあだ名。もちろん二人でどこかへ遊びに行った時のノリで呼んでいただけだった。でもそれが、風香を貶めることになったんだ。
無視されるだけなら、『魔女』と虐げられるだけなら風香は耐えられたのだろう。
「泉って、『魔女』のこと春風ちゃんって呼んでんだろ?」
二人で出かけた翌日、学校での男子の言葉に僕は固まった。
「昨日デートしてたろ? ほら、呼んでやれよ」
風香の目は怯えていた。風香の無言の訴えを、僕は見て見ぬふりをした。
「は、春風ちゃん……」
この時、風香の心は壊れた。いや、僕が壊したんだ。
そんなことを思い出しているうちに放課後になった。彼女の報復を受けた女子生徒が僕に声をかける。
「ちょっと手伝って」
女子生徒は窓にロープを引っ掛けるのを僕に手伝わせた。彼女を挑発するために。
僕は彼女に『教室には絶対に来ないで』とメールを送る。
事が終わり、僕は教室で立ち尽くしていた。僕の忠告を無視して来た彼女は、目の前の光景に発狂する。
「どうして、こいつが死んでるの!」
僕は軽く目を閉じる。
「これならあいつもビビるでしょ」
そう言って女子生徒はふざけてロープの輪に頭を通す。
これはチャンスだった。
彼女が取り乱すのも無理はない。
物言わぬ女子生徒に彼女は無我夢中で叫ぶ。
「自殺なんて許さない! 私と同じように首を掻っ切って、十分に苦しめてからあの世に送るはずだったのに!」
それを防ぐために僕は行動した。
女子生徒が頭を通したのを見て僕は思い切りロープを引いた。
「何して……」
抵抗する女子生徒に対し僕は無言でロープを引き続ける。こんなの、彼女の苦しみの比にもならないのに。
泣き叫ぶ彼女を僕は優しく抱きしめた。
「もういい。終わりにしよう。ゆっくり眠って全て忘れたらいい」
僕の言葉に縋るように、彼女は嗚咽混じりの泣き声を吐き続ける。
「直くん、ごめんね」
その言葉を最後にすうっと消えた彼女の体温をしばらく感じ、僕は安堵した。
騙されてくれて、ありがとう。
春風の通り道 畝澄ヒナ @hina_hosumi
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