帰郷
渡貫 真琴
前編
彼女に呼び出されたのは僕が実家についてすぐの事だった。
母親の「マッチングアプリでもやってみたら?」なんて聞きかじりの言葉を聞き流して、僕は待ち合わせ場所に歩いて行く。
昔からさびれた土地だった。
待ち合わせ場所のショッピングセンターでは、誰も居ない子供向けゲームコーナーが相変わらず騒いでいる。
「よっ」
回らない馬車(1回100円)を眺めていた僕の肩を細い指が叩いた。
加納梨李は頬を端に引っ掛けた。
下手な笑顔だ。
「相変わらず湿気たツラしてんな」
「帰郷した途端に呼び出されたからね」
「男が細かいこと言うなよ」
「田舎らしい価値観じゃないか」
「いきなり差別か?都会人気取りが」
ここまで含めてこそ僕らの挨拶だ。僕たちはニヤリと笑った。
前回は金髪だった彼女の髪は、プリンの様に黒と金に分かれてしまっている。
「それじゃ運転は頼んだよ」
「料金は飯だけで良いぜ」
「金とるのかよ」
「冗談だよ。
俺は優しいからな」
「それ言いたかっただけだろ」
僕が苦笑いすると彼女はケタケタと笑った。
彼女が『俺』と言う様になったのは、僕が地元を出てすぐの事だった、らしい。
共通の知り合い(もう連絡も取っていない)から聞いた話だ。
僕が都会に出る事を決めてから、彼女は変わったらしい。髪は金髪になり、派手なネイルを付けて、一人称も変わった。
その変貌の様子を目の当たりにしなくて良かったと思ってしまう僕は、その程度には彼女を思っていた。
でも、それだけだ。
僕だけが変わらない。
故郷は年々衰え、親友は彼氏に染まり、結婚する知り合いが増えて来ても、僕だけは一歩も動かずに彼らを眺める。
感傷は傲慢だろうか?
「何ボーッとしてんだ、はよ乗れ」
「ごめんごめん」
大学生の時から変わらないオンボロ軽自動車に乗り込むと、スプリングの感覚がダイレクトに尻を叩いた。
こいつには帰省のたびに世話になっている。
「ジジイじゃねぇんだからさ」
「もうガタが来てるよ。
この車と一緒さ」
「やかましい。
コイツには色気があんだよ。
お前には何も無いけどな」
「流石彼氏持ちは言うことが違うね。
色気ムンムンだ」
去年迄はなんて事無かった軽口に、彼女は言葉を重ねなかった。
「……別れたよ、とっくに」
「あー……」
事故った……。
「そりゃ、見る目がないね」
僕はなんとかフォローの言葉を差し出した。
「まったくだ。
男を助手席に乗せるぐらい甲斐性のある女は中々居ないぜ」
梨李も僕のフォローに乗ってくれる。
「今だと珍しくないと思うけど」
「ここじゃそうなの」
「やっぱり田舎じゃないか?」
「今時流行らないだろ、男女平等は」
「トゥイッターだけだよ、それ」
「……見てねぇし」
「今はX(エクシーズ)か」
「は?トゥイッターはトゥイッターだろ。
名前変更なんか俺は認めねーぞ」
「やっぱ見てんじゃないの?」
「見てね〜し」
最近話題の某SNS名変更の話題を出すと、梨李はあっさり引っかかった。
打てば響くようなやり取りに安心感を感じてしまう。
そして、彼女の変わっていないところを見つけては安心している僕はとびきりの馬鹿だった。
もう僕の彼女は帰ってこないのに。
大学時代の梨李といえば、大きな丸メガネにお姫様カットと言ったちょっと野暮ったい女の子だった。
なんとなく馬が合い、なんとなく一緒にいて、心地よさに安心していた。
そして、何となく付き合っている事になった。
そんな状態だったから、彼女が僕から距離を取り始めた……いや、心のでぼかすほど虚しいこともないな、他の男と仲良くなり始めた時には、僕には何を言う資格もなかった。
梨李とその男が付き合い始めたという話が出るのは早かった。
心地よさを手放す事を恐れて、僕は梨李を手放したのだ。
そして、心地よさだけが残った。
初めから恋愛関係など無かったかのように、僕らは友人を続けている。
「今は電気技師やってんだっけ」
梨李の声が思考を中断させた。
対向車線のライトが梨李の表情を等間隔で点滅させる。
「まぁ、ね……。
正直なところまるで使えないって評価でさ、怒鳴られてばっかだよ。
梨李は介護職だっけ」
「そ、クソみたいなとこだ。
転職活動してっけど……上手く行ってない」
梨李は下手な笑顔を浮かべた。
「将来楽になるからって勉強頑張ったのによ」
「頑張ってなかったらもっと酷かったって考えもあると思うけど」
「地獄なのには変わらねぇな」
「死ぬしかないかぁ」
僕の言葉に、梨李は嘲るように鼻を鳴らす。
「死ぬ気もないくせに」
「あるよ」
「いいや、ないね。
お前、自分が何年前から死ぬって言ってると思ってんだ」
「死のうとしたさ」
車が入り込んだオレンジ色に照らされたトンネルは巨大な臓器のようだった。
なら僕たちはいずれ社会のうんことして、何も持たない排泄物になるのか?
文字通り糞みたいな思考を水に流して、僕は楽しくもない語りを続ける。
「そのたびに正気に戻る。
家族の事とか、周りにかかる迷惑のこととか。
結局生きてる方が迷惑にならないんだよ、見落としがちだけどね」
生きていけるのなら、生きるべきだ。
たとえ僕個人の人生にこれ以上の希望が存在しなくとも、マイナスを社会に与える罪悪感に僕は耐えられない。
「そんじゃ口だけだな」
ムカッと来た。
死にたいって言わないのは死ねた奴だけじゃないか、それは卑怯だと思う。
「なら、梨李はもう死にたくないのか?」
僕たちは死にたい同盟だった。
少なくとも、一緒にいた頃は。
「……人並だ」
「逃げたね」
「しつこい男は嫌われるぞ」
「嫌われるってことはまだ好かれてるのか。
光栄だね」
梨李の頬が引きつった。
「車から降りろ!」
「おわーっ!?ハンドルから手を離すなよ!?」
相変わらず口喧嘩は弱いらしい。
僕は少し嬉しかった。
車が停まる頃には、夜はすっかり更けていた。
僕たちはほとんど明かりのない坂道を登る。暗闇の先には岬があり、学生時代はよく波の満ち引きを眺めに来ていた。
「……お前、よくそんなに平然としてられるな。寒くないのかよ」
口を尖らせて梨李が文句を言う。
「勤務先、こことは違ってマイナス温度行くからね。
これぐらいなら平気だよ」
梨李は少し俯いて、肩を震わせた。
そんなに寒いかな。
「ほら、これ使いなよ」
僕は上着を彼女の肩に掛けた。
「いらねーよ」
「ほんとに寒くないから。
暑いぐらいさ」
「……わかったよ、ちぇっ」
梨李は彼女より一回り大きいジャケットを身に寄せた。
「お前も変わるんだな」
「変わらないさ」
あの頃だって、寒さに耐えられたなら上着ぐらい貸したはずだ。
僕だけは変わらない。
あの頃はガキだったなんて言ってやるものか。
暫く歩くと、坂の頂点に辿り着いた。
視界が開け、曇り空と木々を揺らす風のあとが飛び込んでくる。
そして、最奥にあるのは崖と、その風景を眺める為のベンチだった。
僕たちはこの先が無いことを確かめる為に歩く。
「お前、戻ってこねーの」
今まで幾度となく聞かれた言葉だった。
「戻らない」
「なんでだよ」
「ここには過去しかないから」
「お前の引っ越し先にだって、何かあるわけじゃないくせに」
「何もないから良いんだ」
「なんだそりゃ」
「ここで僕が駄目になったら、過去に追いつかれる。
好奇の目に晒されるなら、一人で何者にもならず死ぬ方が良い」
それは無意味な抵抗だった。
「俺も過去になるのかよ」
気がつけば、僕たちは崖の前に来ていた。
「どうして?」
僕は少し驚いた。
「お前がこの街を出ていったの、俺のせいなんだろ」
梨李の声色には、何処か期待が混じっているように見えた。
「まさか」
でも、僕には彼女の求めている答えがわからない。
「もしそうなら、僕はこの街に戻ってこないさ。そんなにひどい思い出ならね」
「義理堅いじゃん……ちぇっ」
僕の言葉に、彼女はやっぱりつまらなさそうに拗ねてみせた。
梨李はもしかしたら、永遠に自分のことを想っていてほしいのかもしれない。
それが消えない傷の類だとしても。
崖を叩く波の力強さは今日も変わらない。
高い波が来て、しぶきが僕達を濡らした。
この岬は自殺の名所だ。
僕達にはお似合いの場所の筈だった。
きっと今は違う。僕は結局死ねなかったし、彼女はすっかり変わり大人になった。
生きるということは恐ろしい。
すべてを失ったと思っても、生き続ける限り僕達は何かを失い続ける。
若さを失い、己を失い、それで?
やっぱり、ここには何も無い。
「それで、過去を捨てたお前はどうなんだ?
新天地でうまく行ってんのかよ」
「まさか」
今日は否定してばかりだ。
「僕みたいな人間はどこに行っても一人だよ。
ネットだろうが、現実だろうが、どこにも行けないんだ。」
少し考えて、僕は笑った。
「梨李とのこれが途絶えたら、いよいよ透明人間の完成かな」
梨李の瞳が僅かに揺れた。
「あ」
頬が濡れる。
雨が振り始めたらしい。
涙を期待したのは、彼女と一緒にいる理由が欲しかったからだろうか。
「帰ろうか」
梨李は何かを言いかけて、躊躇う様にして頷いた。
走って車に戻ると、僕達は荒い息を吐き出した。
海風に吹かれた雨は容赦なく顔面を叩き、駐車場につく頃には息も絶え絶えになっていた。
「し、しんど……」
「完全に運動不足だ……足の筋肉つりそう……」
僕達は情けない声を漏らす。
梨李は水筒を貪るようにして飲んだ後、僕に突き出した。
ありがたく飲み干してから間接キスに気がつくが、もうそこで照れる様な年じゃない。
まぁ、梨李に至っては昔から照れるとか無かったんだけど。
「ありがとう。
これからどうする?」
梨李に水筒を返しつつ、僕は尋ねる。
雨は勢いを増してきていた。当分止みそうにはない。
「びしょ濡れになっちまった」
脈絡もなく梨李は呟いた。
表情からは何も読み取れない。
「暖かい飲み物でも買ってこようか?」
「いや……」
梨李は呼吸を整えると、エンジンをかける。
「このままだと風引いちまうぜ。
ホテル寄ろうや」
まるで何度も練習して来た様に、彼女は平然とそう言った。
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