三途の川で

花鳥あすか

第1話

目覚めると、水流の音が聞こえた。体を起こし、見渡した景色に私は口を開けた。

私は花咲き誇る島にひとりぽっちだった。島の端のほうには立派な木の橋がかかっていて、どこかとこの島を繋いでいるらしかった。その「どこか」は、霧のような白いモヤが強く立ち込め、何なのかはっきりとは分からなかった。ただ私は、自分が置かれた状況が分かった。ここは三途の川だ。

 私はなぜここにいるのだろう? 記憶を辿ろうとしても、脳のシナプスは上手く繋がらず、うまく思い出せない。

そんな時、頭上から男の怒声が響いた。

「何やってんだ! 早くしろよ!」

その声に私は驚き、咄嗟に身を屈めた。

誰? 声の主は見えない。やがて驚きは去り、次に恐怖が襲ってきた。

そんな私の心中を慮ることもなく、すぐ次の怒声が響いた。

「早く行けよ! 早く!」

鬼気迫る声は私を縮み上がらせた。怖い。行けというのは、もしかしてこの橋のこと? 

背中と首が冷えた。早くあの世に行けということなの? 嫌! あなた、怖いわ、助けて。

 ……あなた? あなたって何だっけ。不意に脳に灯った「あなた」という言葉に混乱した。男の声はまたも混乱する私を労うことなく、乱暴に空気を揺らす。

「てめえ、のろのろしてんじゃねえっ! ぶっ殺すぞ!」

恐ろしい言葉に、私はとうとう立っていられなくなり、その場にへたりこんだ。なんでこの人はこんなに怒っているの? 私、相当悪いことをしたのかしら。……ダメ。やっぱり何も思い出せない。あなたは、こんな声で怒鳴ることは一度もなかったわね。あれ? 私ったらまた「あなた」って……。私は結婚していたのかしら。考えを巡らせていると、「チッ」という舌打ちの後、声は突如として色を変えた。

「もう大丈夫だから」

 優しいバリトン。あなたもこんな声だったわね。あなたの舌打ちなんて聞いたことはないけれど……。

「安心しろ。大丈夫だ」

 それにしても、さっきとあまりにも情緒の落差が激しい。あんなに怒鳴っていたのに、今では私を諭すように、励ますように優しい声で……。そこまで考えて、私はハッとした。声の転調の前に、舌打ちされたわ。北風と太陽? 怒鳴っても私が橋を渡らないから、やり方を変えたということ? ……だったら最初から、優しく言ってくれればいいじゃない。あんな怖い声で怒鳴るから、私も怯んで動かなかった。あなたはいつも優しくて、怒鳴ったことなんてなかったわね。だんだんあなたのことを思い出してきたわ。真面目で誠実で、真っ直ぐな人……。そんなあなたのことが、私は大好きだったのよね。

「大丈夫だ。俺がついてるから」

 そう、こういう人なのよ。頼もしくて、安心できる……。

 え? ちょっと待って。もしかして、この声はあなたなの? いいえ、間違いない。これはあなたの声よ。じゃあ、最初の怒鳴り声は何? なぜ、いつもみたいに優しい声で、私を殺そうとしているの? 

 急に頭が痛み出した。私、あなたに殴られたのね。どうして? いい夫婦だと思っていたのは、私だけだったの?

 段々と意識が遠のく。ひどい。信じていたのに。私はそこで意識を失った。

 

 目覚めると、病院のベッドの上だった。

「ご主人、本当によかったですね」

「あ、ええ……ご迷惑をおかけして、面目ない」

 どうやら私は戻ってこられたらしい。ベッドの横の丸椅子に腰掛けた夫は照れくさそうに頭を掻いている。何よ、心にもないことを!

「この人殺しぃぃ!」

 私は勢いよく起き上がると、夫の体を思い切り押した。ガッターン! 大きな音を立てて、夫の椅子が倒れ、夫は床にひっくり返り、私の手は宙ぶらりんになった。 

 医者と看護師はしばらく動けず、事態の把握に努めているようだった。ようやく医者がハッとし、私に向かって叫ぶ。

「奥さん、何を、何をしてるんですかっ!」

「何って、分かるでしょっ! この人殺しに報復しようとしたのよっ!」

 医者はハァ? という情けない顔をして、眉を下げて私と夫を交互に見つめた。看護師は倒れた夫の体を起こしていた。 

  ふと、誰かが泣き出した。女の声。看護師だった。

「奥さん、旦那さんはここに来るまで、必死にあなたに語りかけていたんですよ」

 そんなこと分かってるわ。全部聞いていたもの。

「搬送している時、おばあちゃんが道を横切っていたらしくて……。旦那さん、必死に叫んだそうです。早く行けって」

「そもそも、旦那さんがあなたを殺そうとするわけがないじゃないですか。もしそうだったら、急に道で倒れたあなたをわざわざ助けませんよ」

 私は夫を見遣る。夫は床で俯いている。

 そんな。全ては私の誤解だった。私は、なんてことを……。

「ごめんなさい、あなた」震える声で、呟く。

「私、あなたに酷いこと」

「いいんだ」夫が遮った。

「お前は混乱していただけだ。何も悪くない」

 優しいバリトン。そうよね、あなたはこういう人だったわよね。


 私はあの世界でのことを全て話した。夫も医者も看護師も、黙って真剣に聞き入っていた。話し終わると、みんな笑った。そして、医者が言った。

「似た話は、よく聞くんですよ。行くな! って声がして戻って来れたってね。奥さんみたいな話は、初めてですけどね。いやあ、救急時のご家族の声掛けには、細心の注意を払わないといけませんね」

 へえ、私だけじゃなくて、よくあることなのね。でも、私みたいなのは初めて。

 その時、何故だか「生存バイアス」という言葉が脳裏を駆け抜けた。昔、賢いあなたに教えてもらった言葉。意味は、何だったかしら。


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三途の川で 花鳥あすか @unebelluna

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